第6話 最初の予定
執務室へ入ると、机の上にその日の書類がそろえてあった。
請求書の送金手続き――南の橋の契約書――北の村へ送る応急処置の指示――義母の慈善茶会に関する昨年の収支。
これまでと同じ仕事だ。椅子へ座り、一つずつ片づけていく。
オクタヴィアお義姉様の四通の請求書には、義父の許可を示す書面を添えた。送金日は本日。支払い後の残高も書記に確認させる。
北の村へは、土嚢を百二十袋用意するよう指示を出した。
村の男たちだけに作業を任せると、畑仕事へ影響が出る。領兵を十二名、二日間派遣する。必要な砂と麻袋は、近隣の倉から運ぶ。
応急処置に使う金額を差し引くと、今月の予備費はほとんど残らなかった。
「若奥様」
家令のベネットが計算を終え、紙を差し出した。
「こちらで間違いございません」
「ありがとう」
「水路の石材は、見送ると先方へ伝えますか」
「契約期限はいつまででした?」
「五日後です」
「では、まだ返事をしないでください」
五日。その間に工事費を用意できるとは思えない。
それでも、すぐに断る必要はなかった。
「承知いたしました」
「それから、南の橋について調べたいことがあります」
「何でしょう」
「橋の下を流れる川は、途中でアルマンド侯爵領へ入りますね」
「はい。川向こうの森から先は、侯爵家の直轄領です」
「水利に関する取り決めは残っていますか」
ベネットは少し考えた。
「古い契約書が文書庫にあるはずです。橋を架け替えた際に、侯爵家と何か交わしていたかもしれません」
「確認したいので、関連する書類をすべて出してください」
「すぐに探させます」
「私も午後から文書庫へ入ります」
「奥様ご自身で?」
「古い書類は分類が曖昧でしょう? 急いだ方がよいので」
不自然な話ではない。
南の橋を補修するなら、川の管理権を確かめる必要がある。工事のために水量を調整する場合、侯爵家側へ許可を求めることもあるだろう。
昨夜、アルマンド侯爵家への面会方法を考えた時、最初に浮かんだのがこの川だった。
ランフォード家は侯爵家の傍系でありながら、近年はほとんど行き来がない。
新年の挨拶状は届く。祝い事があれば、形式どおりの贈り物を交わす。それだけだ。
突然、私個人の名で面会を求めれば、まず義父へ確認が入る。
領地運営に関する報告をしたいと書いても、夫や当主に知られず侯爵本人へ届くとは限らない。
誰に頼めば、私の話を握り潰されずに届けられるのか? それを知る必要があった。
*
午後、ハロルドに文書庫の鍵を開けてもらった。
屋敷の北側にあるその部屋は、冬になるとひどく冷える。窓が小さく、日中でも灯りが要った。
壁一面に棚があり、古い帳簿や契約書が年代ごとに収められている。
「水利関係はこちらです」
ハロルドが奥の棚を示した。
「先ほどベネット様から伺い、箱を三つ出しておきました」
「助かります」
「書記を一人、お付けいたしましょうか」
「最初は自分で確認します。必要になったら呼びます」
「かしこまりました」
ハロルドが出ていくと、最初の箱を机へ置いた。
中には古い地図と、川沿いの村から提出された陳情書が入っていた。紙は黄ばみ、紐の色も変わっている。
一枚ずつ年代を確かめる。
南の橋が現在の形になったのは、二十六年前。その際、アルマンド侯爵家から石材と技師が送られていた。費用の一部も侯爵家が負担している。
契約書の末尾には、両家の当主と立会人の署名があった。立会人は、王都の法務官。すでに亡くなっている人物だった。
その後に交わされた書簡も読む。
橋の補修報告――川岸の伐採許可――洪水が起きた年の被害記録。
十七年前までは、毎年のように侯爵家と連絡を取っていたらしい。十二年前から書簡が減り、八年前を最後に、実務的なやり取りが途絶えていた。
最後の書簡を送ってきたのは、アルマンド侯爵家の領地管理官だった。署名の下に、連絡先が記されている。
――セドリック・ヴァレール。
王都の侯爵邸ではなく、侯爵領内にある管理事務所の名だった。
私は別の箱から、侯爵家との往復書簡を探す。同じ名が何度も出てきた。
橋の補修――川の浚渫――境界林の伐採。
どの書簡にも、必要な資料と返答期限が明確に記されている。ランフォード家側の報告に不足がある時は、何が足りないかを細かく指摘していた。
これは領地の実務を知る人物だ。だが、現在も同じ役目に就いているかはわからない。
八年前の書簡では、すでに五十代半ばだったはずなので、退職していてもおかしくない。
それでも、手がかりにはなる。
私は橋に関する書簡を数通選び、机へ並べた。正式に問い合わせるなら、南の橋の補修を理由にできる。
――川の管理について確認したい。
――過去の契約に照らし、侯爵家側の許可が必要か教えてほしい。
その手紙なら、義父の名を使わず、領地を預かる私の名で出しても不自然ではない。
ただし、屋敷の書記に清書させれば記録が残る。侯爵家からの返事も、ランフォード家宛てに届く。
まだ早い。
契約書は全文を写し、書簡の内容も控えてから、元の箱へ戻した。
次に調べたのは、セドリック・ヴァレールという人物自身についてだった。家臣名簿には載っていない。侯爵家の人間なので当然だ。
けれど、八年前の橋の点検記録に、同行者の名があった。王都の公証人、エドガー・モラン。
その名には覚えがある。父が土地の売買契約を結ぶ際、何度か世話になった人物だ。
私が十五の時にも、サデライン家へ来たことがある。白い口ひげを生やし、食事中も契約書の話ばかりしていた。
母が「冷めてしまいますよ」と注意しても、羊肉を切りながら境界線の説明を続けていた。
今も王都で仕事をしているなら、父からの紹介がなくても面会できるかもしれない。
公証人へ古い水利契約について相談する。それも、領地管理の仕事として通る。
私は手元の紙へ、二人の名を書いた。
――セドリック・ヴァレール。
――エドガー・モラン。
その下へ、モラン公証人の事務所があった通りの名を記した。
昔と同じ場所にいるとは限らない。まず所在を調べなければならない。
領内の町には、王都と取引のある商会が三つある。そのうち一つは、サデライン家とも長く付き合っていた。
商会の主人へ尋ねれば、王都の公証人事務所くらいは調べられるだろう。
来週、オクタヴィアお義姉様がお茶会へ出かける日、私は町へ行く。南の橋に使う資材の価格を確認し、商会へ立ち寄る。理由は、それで十分だった。
紙を折り、持参した帳面の表紙裏へ差し込む。
文書庫を出る前に、机の上を元どおりにした。
*
夕食前、オクタヴィアお義姉様が私の部屋へやってきた。
「ヴェロニカ、聞いたわ。馬車を使ってよいのでしょう?」
「はい。お義母様のご予定が延びましたので」
「よかった。エレノア様のお屋敷へ貸し馬車で行くなんて、恥ずかしいもの」
「帰宅時刻だけはお守りください」
「わかっているわ」
お義姉様は新しい帽子をかぶっていた。昨日届いた三つのうち、一番大きな羽根がついたものだ。
「ねえ、この帽子、どうかしら」
「よくお似合いです」
「でしょう? 店の方も、私の髪にはこの色が一番だと言ってくださったの」
「そうですか」
「ヴェロニカ、あなたも今度、一緒に行けばいいのに。いつまでも同じ服では、リュシアンがかわいそうよ」
「機会がございましたら……」
「そうね。来週は、また領地のお仕事?」
「町へ出る予定です」
「まあ、私と同じ日?」
「はい。南の橋に使う資材を確認します」
「では、途中まで一緒に乗る?」
思いがけない申し出だった。お義姉様と同じ馬車へ乗れば、町まで別の馬車を手配する必要はない。
けれど、帰りの時刻も行き先も知られる。
「私は早朝に出ますので……」
「あら、残念」
お義姉様はすぐに興味を失った。
「では、馬車は午後からでいいわね」
「御者へ伝えておきます」
「お願い。帰りは少しくらい遅くなっても大丈夫でしょう?」
「日没までにお戻りください」
「そんな。せっかくのお茶会なのよ」
「夜道で事故が起きれば、次のお茶会には行けません」
「ヴェロニカは相変わらずね」
お義姉様は笑った。
「何でも先のことまで考えてしまうのだから」
「癖になっております」
「疲れない?」
「慣れました」
「そう。私は無理だわ」
お義姉様は帽子の羽根を揺らしながら、部屋を出ていく。扉が閉まると、マルタが夕食用のドレスを持って入ってきた。
「奥様、今夜はこちらでよろしいでしょうか」
「ええ。お願い」
私は鏡台の前へ座った。髪を結い直してもらい、いつもの耳飾りを選ぶ。
食堂へ行けば、義母は慈善茶会の話をするだろう。義父は新聞を読み、リュシアンは私の報告を面倒そうに聞く。
オクタヴィアお義姉様は、来週のお茶会に何を着ていくか話す。
私も同じように笑い、必要な返事をする。
来週、町へ出ることは、もう家族の前で話した。
――南の橋の資材を調べるため。
誰も疑わなかった。
最初の予定が決まった。




