第5話 それがお前の仕事だろう
リュシアンが屋敷へ戻ったのは、その翌日の夕方だった。
馬車の音を聞いたハロルドが玄関へ向かい、私は執務室で最後の書類へ署名をしていた。
北の村への返書――南の橋の補修見積もり――領兵の冬服。
どれも返事を急がなければならない。
「若奥様」
マルタが静かに扉を開けた。
「リュシアン様がお戻りです」
「ありがとう」
机の端へ四通の請求書を重ねる。その上へ、用水路工事の見積書を置いた。
こういう話は、一度で済ませたい。
*
リュシアンは着替えもせず、応接室で酒を飲んでいた。
「お帰りなさいませ」
「ああ」
彼はちら、と視線だけをこちらへ向ける。
「何か用か?」
「ご相談がございます」
「長い話か?」
「いいえ」
向かいへ座り、請求書を差し出した。
「何だこれは」
「お義姉様が王都でお買い物をされた分です」
リュシアンは一枚だけ手に取り、金額へ目を落とした。
「……ああ、姉上の。いつもの奴か」
「はい」
「だったら、払えばいい」
「その件でご相談です」
「何だ?」
用水路の見積書を隣へ置く。
「ごらんください、用水路の件にはこれだけの金額が必要になります」
「だから?」
「現在の予算では、両方は支払えません」
リュシアンは見積書をちら、と見るばかりで、手も伸ばそうとはしない。
「用水路の、何の金だ?」
「北の村のものです。あれを放っておいて、春まで延ばすと崩れる可能性があります」
「来年でいいだろう」
「来年では遅いのです」
私はやや遮るように言葉をたたみかける。
「何故だ?」
「今年は、雪解けの際に傷みが進んだのです。崩れれば畑へ水が届きません」
「だったら、応急処置でもしておけばいいじゃないか」
「応急処置では、ひと冬もちません」
リュシアンは黙って酒を一口飲む。
「それに、橋の件もございます」
彼が聞いていようといまいと、私は続ける。
「南の橋も秋までに補修しなければなりません」
「なら橋を直せばいいじゃないか」
「その場合、水路が……」
「全部は無理なんだろう?」
「はい」
「だったら優先順位を決めろ」
「決めても足らないのです」
「だったら、削ればいい」
「もう、これ以上削れる場所がございません」
少しの間だけ私達の間に沈黙が落ちた。暖炉の薪が小さく音を立てる。
リュシアンはグラスを揺らしながら、ようやくこちらを見た。
「なあ、おい、ヴェロニカ」
「はい」
「お前、この三年何をしてきた」
一瞬、言葉の意味が分からなかった。
「《《立て直していた》》のではないのか? お前は」
「そのために動いてまいりました――が?」
「なら、今回も何とかなるだろう」
「何ともなりません」
「何故だ? 今回は駄目とは」
「使える金には限りがあります」
「それをやり繰りするのが《《お前の役目》》じゃないか」
――役目。
その言葉だけがやけにはっきりと耳に残った。
「……確かに、領地は以前より改善しております」
「だったら余裕があるはずだ」
「でも、改善したからこそ、今止めれば元へ戻ります」
「戻さなければいいだけのことだろう?」
「ですが、そのためのお金がないのです」
リュシアンは大きく、そして心から面倒くさそうに息を吐いた。
「……姉上の買い物くらいで騒ぐな」
「これはお義姉様の買い物のことではございません」
「じゃあ何だ?」
「領地全体の問題です」
「だから?」
「今後も同じことが続けば、修繕を諦める場所が増えて行くでしょう」
「《《そうならないようにする》》のがお前の仕事だろう」
静かな声だった。
怒りも責めもしない。ただ、当たり前のことを言うように。「それがお前の仕事だろう」と。
そうか。私は、そういう存在だったのか。
領地を任されていたのではない。信頼されていたわけでもない。困ったことが起きた時に押しつける相手。
それだけだったのか。
三年前の婚約中、「好きに力を振るってくれて構わない」、というあの言葉も、ようやく意味が分かった。
――好きにしてよいから、思う存分力を奮え。
ということではない。
――好きに上手く片づけろ。お前とはそのために結婚するんだ。
そういう意味だったのだ。
頭の中が一気にすっきりと晴れ渡った気分だった。
目の前の彼に関しては、不思議なほど、何も感じなかった。怒りも、悲しみも。
ただ、胸の奥で、細い糸が一本、音もなく切れた。もう結び直せない。
それだけが、はっきり分かった。
「ヴェロニカ」
返事がないことを不思議に思ったのか、リュシアンが私を見た。
「おい、聞いているのか」
「はい」
私は請求書を重ね直す。
「承知いたしました」
「分かればいい」
それだけ言うと、リュシアンはもう私にも領収書にも興味を失ったらしく、再び酒へ口をつける。
「失礼いたします」
一礼して応接室を出た。
*
廊下へ出ると、窓の外では、西日が庭を赤く染めていた。
足は自然と執務室へ向かう。やることを考えなければ。
北の村へは応急処置の指示を出す――工事は延期になる――その間に、必要な書類を整理する――
家計簿――修繕記録――領地の収支――村ごとの報告書――侯爵家へ提出するなら、何年分必要だろう――
――侯爵家。
その言葉が頭へ浮かび、私は足を止めた。
ランフォード伯爵家は、アルマンド侯爵家の傍系。監督責任は侯爵家にある。
もし――もし、本当に相談するならば、紹介状を書いていただける方はいるだろうか?
――実家へ知らせるのは、まだ早い。家政婦長にも話せない。まずは面会の方法を探そう。
それだけ決めると、私は再び歩き出す。そして執務室へ戻り、机の引き出しから白紙を一枚取り出した。
表には何も書かず、裏へ小さく一行だけ記す。
――アルマンド侯爵家 面会方法
紙を帳面の間へ挟み、引き出しを閉める。手にかたん、と響く感触がある。
その瞬間だった。
私は、この家を出ようと決めた。
*
翌朝、私はいつもの時刻に食堂へ入った。
義父は新聞を読み、義母は焼きたてのパンへ木苺のジャムを塗っている。オクタヴィアお義姉様はまだ姿を見せていなかった。
リュシアンは先に席へ着いていた。
「おはようございます」
「ああ」
昨夜と変わらない返事だった。私も自分の席へ座り、給仕が注いだ茶を飲んだ。
「昨日のお話ですが」
リュシアンが新聞へ目を向ける前に声をかけた。
「何だ」
「お義姉様の請求書は、本日中に支払いの手配をいたします」
「そうしてくれ」
「北の村へは、応急処置の指示を出します。水路の工事は、資金が用意できるまで延期いたします」
「任せる」
「南の橋は予定どおり補修を進めます」
「細かいことまで、いちいち報告しなくていい」
「承知いたしました」
私はそこで話を終えた。
昨日までは、説明すれば少しは関心を持ってくれるかもしれないと思っていた。
――水路が崩れれば、どれほどの畑が使えなくなるか。
――橋を止めれば、村人がどれだけ遠回りをしなければならないか。
――数字と地図を見せ、順を追って話せば、次期当主として考えてくれるのではないか。
三年間、同じ期待を持ち続けていた。だが、今朝は、必要な決定だけを伝えた。
「まあ、よかったわ」
義母がほっとした様子で言った。
「昨日はお金が足りないと聞いて、どうなることかと思ったのよ。やはりヴェロニカに任せておけば安心ね」
「ご心配をおかけしました」
「あなたなら、きっとよい方法を見つけると思っていたわ」
よい方法など見つかっていない。用水路を諦めただけだ。
けれど、その違いを説明する必要もなかった。
「それより、オクタヴィアの馬車のことなのだけれど」
義母が続けた。
「来週のお茶会へ、どうにか行かせてあげられないかしら」
「王都用の馬車は、お義母様がお使いになると伺っております」
「私の用事は翌週へ延ばしてもいいのよ」
「それでしたら、お義姉様にお使いいただけます」
「まあ、本当?」
「はい。馬車係へ伝えておきます」
義母は嬉しそうに笑った。
「ありがとう。オクタヴィアも喜ぶわ」
「ただし、帰宅は日没前にお願いいたします。御者を夜道で走らせるわけにはまいりません」
「それくらい、本人へ言っておくわ」
昨夜までなら、貸すべきか迷っただろう。
王都用の馬車も塗装を直さなければならない。馬の一頭は年を取り、長い道のりを続けて走らせたくない。茶会が長引けば、帰りは夜になる。
けれど、来週の私はその馬車を使わない。
オクタヴィアお義姉様が出かけるなら、屋敷の関心もそちらへ向く。
義母は支度を手伝い、侍女たちは荷物を運ぶ。リュシアンも姉の外出を気にするだろう。
その日に私が領内の町へ出ても、誰も不思議には思わない。
「ヴェロニカ」
リュシアンがパンを切りながら言った。
「今日は屋敷にいるのか」
「午前は執務室におります。午後から、南の橋に関する古い書類を調べる予定です」
「なら、母上の茶会の招待客について相談に乗ってやれ」
「来月の慈善茶会ね」
義母がすぐに話を引き取った。
「今年は三十名ほどお招きしたいの。去年より少し増やしてもよいでしょう?」
「名簿を拝見します」
「助かるわ。お料理も新しいものを出したいのよ。王都で評判のお菓子があるそうなの」
「費用を確認してから決めましょう」
「まあ…… あまり堅いことを言わないでちょうだい。慈善のためのお茶会なのよ?」
慈善茶会で集まった寄付金は、昨年、厨房へ支払った費用の半分にも届かなかった。
今年は招待客を増やし、さらに高価な菓子を用意するらしい。
「ではまず、昨年の収支を用意いたします」
それだけ答えた。義母は少し不満そうだったが、リュシアンはもうこちらの話を聞いていなかった。
食事を終え、席を立つ。
「では、失礼いたします」
「ヴェロニカ」
義母に呼ばれ、振り返った。
「今日は顔色がよいわね。昨日は少し疲れているように見えたの」
「よく眠れましたので」
「そう。安心したわ」
私は一礼して食堂を出た。
……昨夜は、ほとんど眠っていない。




