第10話 モラン公証人との面会
モラン公証事務所へ手紙を送ってから六日が過ぎた。
その間にも、屋敷の仕事は続いていた。
北の村では、領兵と村人が土嚢を積み終えた。水路のひびには板を当て、崩れやすい場所へ杭を打ったという。
南の橋については、三つの見積書をベネットから義父へ渡した。
「どれを選べばよいのだ?」
義父は書斎へ呼んだ私に尋ねた。
「価格だけであれば、こちらです。ただし納期が不確かです」
「では、次に安いものか」
「そちらは予定どおり運ぶと商会から聞いております」
「なら、それでよいだろう」
「ご承認いただけますか?」
「ああ」
私は用意していた承認書を机へ置いた。義父は一度、面倒そうに紙を見たものの、最後には署名した。
「これでよいか?」
「はい、ありがとうございます」
私は署名の日付と、選んだ商会の名を確かめる。義父が自分で決めたという事実が、これで残った。
そして書斎を出たところで、リュシアンと行き会った。
「また橋の話か?」
「はい。お義父様に商会を決めていただきました」
「そんなもの、お前が決めればいいだろう? いつもの通りに」
「いえ、これは大きな支出ですので、当主の承認が必要です」
「ふん、父上も面倒だろうに」
「ですが、必要なことです」
「は、好きにしろ」
リュシアンは足を止めず、そのまま階段を上がっていった。以前なら、せめて見積書へ目を通してほしいと呼び止めたかもしれない。
けど今はもう、彼が何を知らずにいるかまで、私が気にする必要はない。
*
七日目の午前、ハロルドが小さな木箱を持って執務室へ入ってきた。
「若奥様、町のハーマン商会から石材の見本が届いております」
「石材ですか」
「はい。……それから、こちらを」
箱の上には、封をした短い手紙が載っていた。差出人の名はハーマン商会になっている。
「使者は?」
「返事は不要とのことで、すぐ町へ戻りました」
「分かりました。ありがとう」
ハロルドが退出してから、まず木箱を開けた。
中には灰色の石材が二つ入っている。一つは目が細かく、もう一つは少し色が濃い。南の橋へ使う候補として、商会が用意したものだった。
手紙の封を切る。
――ご依頼の品について、お話ししたいことがございます。
――明後日の正午、当商会へお越しください。
――モラン先生ご本人が、こちらへ参ります。
私は短い文をもう一度じっくり読んだ。
モラン公証人が、私のためだけに王都から来るとは思えない。おそらく近くへ出向く予定があり、その途中で時間を作ったのだろう。
それでも、会ってもらえるということは大きい。
私は手紙を折り、橋の見積書を入れている帳面へ挟む。そして午後には、町へ出ることを義父へ伝えた。
「また商会か?」
「はい、橋に使う石材の見本が届きました。契約前に詳しく話を聞きたいと思います」
「もう署名したじゃないか。それではいけないのか?」
「商会は決まりましたが、石の種類と運搬日を決める必要がございます」
「なるほど、そうか。では任せる」
義父はそれ以上聞かなかった。
義母には、慈善茶会の菓子を注文したか尋ねられた。
「それはまだです。今、見積書をお義父様へお渡ししております」
「まあ、橋の方はもう決めたのでしょう? 今度はお菓子もお願いしてちょうだい」
「では、明日もう一度、お義父様へお尋ねします」
「いつものように、あなたが決めてくれればいいのに……」
「当主の承認が必要ですから」
義母は扇を開き、胸元へ風を送った。
「最近のあなたは、何にでも署名を求めるのね」
「誰が決めたのか、後から分かる方がよろしいと思いまして」
「私たちは家族なのよ?」
「はい」
私は見えないように薄く唇を上げる。
家族とは便利な言葉だ。その言葉があれば金が湧いて出るとでもいうのか。
だがそんな考えはおくびにも出さない。私は一礼して部屋を出た。
*
約束の日、私が鞄へ入れたのは南の橋に関する契約書の写しと、侯爵家との古い往復書簡だった。
そのほかに、北の水路の報告書、オクタヴィアお義姉様の買い物を支払うと決めた義父の承認書、今月の支出一覧。それぞれ原本は屋敷の文書庫と執務室に置き、持ち出したのは写しだけだ。
私が三年間に処理してきた仕事の一覧も作った。
領地の収支――修繕計画――屋敷の家計――使用人の契約――茶会や慈善会――王都屋敷の維持。
書き出すと二枚になった。
「若奥様」
出発前、マルタが外套を着せながら、鞄へ目を向けた。
「今日は、公証人の方と?」
「ええ」
「私にお手伝いできることはございますか」
「今は、普段どおりにしていて」
「はい」
襟元の留め具をかけ、マルタは一歩下がった。
「……必ず、お戻りになりますね」
「今日は戻るわ」
「今日だけのことでは……」
彼女はそこで口を閉じた。
「まだ、何も決まっていないのよ」
「分かっております」
「決まった時にはちゃんとあなたには話すわ」
「はい!」
そのまま玄関へ向かうと、オクタヴィアお義姉様の部屋から職人が出てきた。巻き尺を持ち、壁の幅を記した板を抱えている。衣装箪笥の見積もりを頼んだのだろう。
私が止めても、義父へ直接頼むと言っていた。そうなれば、あとは義父が決めることだ。
*
ハーマン商会の奥の部屋には、昼食の用意がされていた。
黒パンと薄く切った肉、豆のスープ。公証人が王都へ戻る時刻を急いでいるため、食事を取りながら話すことになったらしい。
私が部屋へ入ると、窓際の席にいた老人が立ち上がった。
白い口ひげは、六年前に会った時より細くなっている。背も少し丸くなったが、こちらを見る目は昔と変わらなかった。
「おお、サデライン子爵のヴェロニカ嬢ですな」
「今はランフォード伯爵家のヴェロニカでございます」
「そうでした。失礼を」
エドガー・モランは私へ席を勧め、自分も椅子へ戻った。
「あなたに最後にお会いした時は、まだ地図の上へ木の実を並べておられた」
「ええ、父が村ごとの収穫量を説明していた時ですね」
「赤い実が林檎で、茶色い実が胡桃でしたか」
「途中で私が食べてしまい、数が合わなくなりました」
「子爵は本気で怒っておられましたなあ」
モラン公証人が口ひげを撫でる。ほんの少し、肩の力が抜けた。
「さて」
彼は卓上の鞄へ目を向けた。
「橋の契約書を拝見しましょう」
私は二十六年前の水利契約と、その後の往復書簡を広げた。モラン公証人は眼鏡をかけ、署名と日付を一つずつ確認する。
「立会人は、私の前任者ですな」
「ご存じでしたか」
「もちろん。この頃、私はまだ補佐として現地へ同行していました」
「では、セドリック・ヴァレール様にも?」
「何度もお会いしましたよ」
古い書簡の署名を指先でなぞる。
「ヴァレール殿は、三年前に領地管理官を退きました。今も侯爵領に住み、相談役を務めておられます」
「面会をお願いすることはできますか?」
「橋の契約についてなら、現在の管理官で足ります」
モラン公証人は眼鏡を外した。
「……だが、あなたが会いたいのは、ヴァレール殿ですか。それとも、アルマンド侯爵ですか」
……先に見抜かれた。私は橋の契約書を閉じ、その隣へ持参した書類を置く。
「……侯爵様へ、ランフォード家の状況をお伝えしたいのです」
「当主に知られずに?」
「はい」
彼は少しだけ考える。
「理由を伺いましょう」
私は北の村の報告書を差し出した。
水路のひび、必要な修繕費、延期が決まるまでの経緯。続けて、オクタヴィアお義姉様の請求書と、義父の承認書を並べる。
「この買い物を支払ったため、水路の本工事を延期することになりました」
「買い物をしたのは?」
「夫の姉です。八か月前から実家へ戻っております」
「離縁は?」
「成立しておりません」
「生活費の取り決めは?」
「ございません」
「当主は、支払いの理由を理解した上で署名を?」
「水路の修繕を延期することは伝えました」
「夫君は?」
「《《何とかする》》のが私の仕事だと言いました」
モラン公証人は請求書の金額を確かめ、今月の支出一覧へ目を移した。
「ふぅむ。あなたは、ランフォード家で現在、どの仕事を担当しています?」
「こちらです」
二枚の一覧を渡すと、老人の目が上から下へ動く。途中で一度裏返し、二枚目まで読む。
「家令はおりますね」
「ベネットが」
「家政婦長も」
「マーサがおります」
「領地管理官は?」
「専任の者はおりません。村ごとの管理人と、ベネットが連絡を取っております」
「会計係は?」
「屋敷の書記が兼ねています」
「最終的な判断をしているのは?」
「これまでは、ほとんど私でした」
彼は一覧を卓へ戻し、私へ向き直った。
「それでは、あなたへの報酬は?」
「伯爵家の夫人として、小遣いと衣装代をいただいております」
「仕事に対する給金は」
「……ございません」
「それで、結婚して何年になります?」
「三年です」
「当初から、この量を?」
「……最初の半年で増えていきました」
ふむ、と彼は口を歪める。
「……ご実家では、あなたがこのような仕事をしていることをご存じですか」
「領地の手伝いをしているとは伝えました。ここまで任されていることは知りません」
「ちなみに現在、夫君との間に子供は」
「おりません」
「暴力を受けたことは?」
「ございません」
「生活費や衣服を制限されたことは?」
「あくまで夫人としての待遇でしたら、受けております」
「夫君に愛人は?」
「確認しておりません。屋敷へ戻らない夜は多くありますが、推測を申し上げるつもりはございません」
なるほど、とモラン公証人は一度うなずいた。
「結構です。分からないことを、分かったように話す必要はない」
彼は肉を一切れ食べ、冷めかけたスープを飲んだ。以前と同じだ。食事中でも契約の話を止めない。
「ヴェロニカ様、あなたは、離縁を望んでいるのですか」
「……家を出たいと考えております」
「同じことではありませんか」
「だけど、私だけが出れば、領地の仕事が止まります」
モラン公証人の匙が止まった。
「領民が困ります。使用人も、誰の指示を受ければよいか分からなくなるでしょう。ですから、仕事を引き継いでから出たいのです」
「夫君や当主へ?」
「いいえ。家令や家政婦長、それぞれの担当者へ今のところは戻しています」
「戻す?」
「もともと、その者たちが行うべき仕事でした。私が自分でやった方が早いからと、取り上げすぎていたのです」
「それで、あなたが出た後も回るようにしている」
「はい」
「いつまでに出るつもりです?」
「決めておりません。侯爵家が話を聞いてくださるかも分かりませんので」
「出た後の住まいは?」
「一人で働くつもりです。家庭教師か、領地管理を手伝う職を探します」
「すでに職は?」
「まだです」
モラン公証人は眼鏡をかけ直し、私が持参した書類を最初から見直した。
「ふむ、あなたが三年間働いた分を、すべて給金として請求できるとは申し上げられません。夫人の家政や領地への助言は、婚姻上の役割だと反論されるでしょう」
「はい」
「ただし、あなたの働きによって家の財産が維持され、税収が回復した事実は別です。当主と跡継ぎが実務を放棄していた証明にもなる」
「それを、侯爵家へ?」
私は顔を上げる。
「ランフォード家はアルマンド侯爵家の傍系です。領地の維持が難しく、当主にも後継者にも改善する意思がないなら、侯爵家が調査へ入る理由になります」
モラン公証人はとん、と書類の端をそろえた。
「しかし、買い物の請求書一度分だけでは足りません」
「では、何が必要でしょうか?」
「大きな支出を誰が決めたか。領地からどのような申請が出て、誰が返事を止めたか。あなたが嫁ぐ前と後で、収入と支出がどう変わったか。あなたが現在行っている仕事は、本来誰の職務だったか」
一つずつ、指を折っていく。
「そう、使用人の契約と給金も確認してください。屋敷の管理者が替わった時、雇用を継続できるようにするためです」
「すでに、家政婦長へ整理を頼んでおります」
「早いですな」
「先に必要になると思いました」
「それから、あなた個人の財産。持参金、宝飾品、家具、実家から持ち込んだ物」
「側仕えが一覧を作っています」
「なるほど」
彼は口ひげの下で笑った。
「子爵が自慢するだけのことはある」
「……父は、私がこのようになるとは思っていなかったでしょう」
「思っていたかもしれませんよ。困った時ほど証文を残せと何度も言われませんでしたか?」
私はうなずく。ハーマンから聞いた言葉と同じだった。
「書類の原本は持ち出さないでください。書き替えも、隠すこともなさらないように。正当な場所へ保管し、必要なものだけ正確に写す。日付と保管場所も控える」
「分かりました」
「領民へ証言を頼むのも、まだ早い。話が漏れれば、当主側が先に動きます」
「では、今までどおりに?」
「今までどおり働きながら、誰が何を決めたかを残してください」
モラン公証人は鞄から一枚の紙を出す。そこへ必要な資料を書きつけていく。筆は速く、文字は小さいが読みやすい。
「ヴァレール殿には、私から連絡します」
「侯爵様へ直接ではなく?」
「まずはヴァレール殿です。ランフォード領の事情を知っておられる。あの方が動くべき案件だと判断すれば、現侯爵へ書面を届けられます」
「それにはどれくらいかかるでしょう?」
「ヴァレール殿へ連絡が届くまで数日。侯爵家が正式な調査を決めるまでなら、早くて二週間。その後も時間が要ります」
「では、その間に、私は――」
「出る準備を続けてください。ただし、職と住まいが決まる前に屋敷を離れてはいけません」
書き終えた紙を折り、私へ渡す。
「侯爵家へ出す書面は、私が作ります」
「ありがとうございます」
「その代わり、ここに書いたものを集めてください。あなたが去ったあとも領地が維持できる形を作る。それが先です」
「はい」
「離婚に関しては、その後になります」
「承知しております」
私は紙を鞄へ入れる。モラン公証人は残ったスープを飲み干し、ナプキンで口元を拭った。
「ヴェロニカ様」
「はい」
「出ていくことを恥じる必要はありませんよ」
「恥じてはいません」
「それはよろしい」
老人はうなずいた。
「では、仕事として片づけましょう」
*
屋敷へ戻ると、玄関前に大きな荷馬車が止まっていた。
職人たちが、彫刻の入った衣装箪笥を降ろしている。鏡のついた扉には布が巻かれ、脚の部分だけでも椅子ほどの太さがあった。
「若奥様、お帰りなさいませ」
ハロルドがこちらへ来る。
「これは?」
「……オクタヴィア様のお部屋へ運ぶ衣装箪笥です」
「購入が、決まったのですね」
「旦那様がご承認なさいました」
旦那様というのは義父のことだ。
「承認書はございますか」
「はい。会計係が預かっております」
「写しを一部、執務室へ置いてください」
「かしこまりました」
衣装箪笥は玄関の扉そのままでは通らなかった。大きすぎるのだ。
職人が鏡の扉を外し、使用人が壁際の花台を移動させ、オクタヴィアお義姉様は階段の上から、「傷をつけないでちょうだい」と声をかけていた。
私はそれを横目で見つつ、執務室へ入り、モラン公証人から渡された紙を帳面の奥へしまった。
夕方にはハロルドが、衣装箪笥の承認書を持ってきたので、日付、金額、購入者、義父の署名を確認する。
そして赤い紐で束ねた支出記録へ、その一枚を加えた。




