第11話 橋の視察
翌朝、私は衣装箪笥の承認書を、他の支出記録と一緒に確認した。
箪笥本体の代金に加え、王都からの運搬費、職人二人の宿泊費、扉を外して運び込むための作業代が記されている。オクタヴィアお義姉様が最初に話していた額より、三割ほど増えていた。
義父の署名はあるし、購入を認めた日付も、金額も、はっきり残っていた。
「こちらは、今月の家計から支払うのでしょうか」
会計係が尋ねた。
「お義父様から、支払い元について指示はありませんでしたか」
「購入を許可する、とだけ」
「では、もう一度確認してください」
「若奥様からお尋ねいただくことは……」
「支払いを決めたのは私ではありません」
会計係は困ったように書類を見る。
これまでは、ここからが私の仕事だった。義父の気分を損ねないように尋ね、義母には家計の不足を説明し、オクタヴィアお義姉様へは支払いを待ってほしいと頼む。最後には別の予算から金を移し、誰にも不満を残さない形を探す。
だが今回は、その役目を引き受けはしない。
「承認書を持って、お義父様へ伺ってください。屋敷の家計から出すのか、領地の収入から出すのか。口頭で答えられた場合も、ここへ記入して署名をいただいて」
「かしこまりました」
会計係が執務室を出たあと、ベネットと前年度の支出記録を見直した。
「若奥様がお嫁入りになる前のものは、ずいぶん記録が少ないですね」
彼は二冊の帳面を並べた。
三年前の帳面には、日付と金額だけが並んでいる。何を買ったか書かれていない支出も多い。領地の修繕費と屋敷の交際費が、同じ頁に記されている月さえあった。
「領地から入った金が、どこへ使われたのか分からないものがあります」
「はい。私も何度か、前の会計係へ確認しました」
「返事は?」
「旦那様の指示だった、と」
義父のことだ。
「その指示を記したものは?」
「見つかりませんでした」
「では、そのまま書いておいてください」
「分からないままで、よろしいのですか」
「分からなかったことも記録です。無理に埋めれば、こちらが数字を作ったことになります」
ベネットは帳面の余白へ、支出内容不明、当主の口頭指示との説明あり、書面なし、と記した。
「この三年分は、ずいぶん細かく残っていますな」
「必要だと思ったので」
「若奥様の字ばかりです」
記録の半分近くは、私が書いたものだった。
村長との面会日。職人へ見積もりを頼んだ日。義父へ承認を求めた日。返事を待った日数。
当時は、誰かを責めるために書いたのではない。次に同じ問題が起きた時、前回どう処理したか分かるように残しただけだ。
その記録が今、誰が仕事をしていたかを示している。
「ベネット、私が来る前、侯爵家から領地の確認に来たことはありますか?」
「私の知る限りでは、ございません」
「税の報告は?」
「毎年、伯爵家から送っております」
「誰が作っていました?」
「前の書記と私が数字をまとめ、旦那様へお渡ししていました」
「中身について尋ねられたことは?」
「ほとんどは……」
ベネットはそこで言葉を止めた。言いづらいのだろう。だがそこは確かめておかねばなるまい。
「続けて」
「……ございませんでした」
「そうですか」
数字だけは届いていた。
橋が傷んでいることも、水路が崩れかけていることも、その数字の中には表れない。税収が落ちても、天候のせいと書けば報告は済んだのだろう。
そしてモラン公証人から渡された紙には、侯爵家へ提出した過去の報告書も確認するよう記されていた。
「今年の分は、まだ送っていませんね?」
「はい。冬の初めにまとめる予定です」
「今年から、修繕を延期した場所と理由も加えましょう」
「オクタヴィア様の買い物についても?」
「買い物とは書かなくて構いません。《《家族の私的支出を優先したため》》、と」
「……旦那様が削らせるのではありませんか?」
「その時は、《《削除を指示した書面へ》》署名していただきます」
ベネットは一度私を見、神妙な口調でこう答えた。
「承知しました」
*
昼食の席で、義父が不満そうに会計係の書類を持ち上げた。
「なあ、ヴェロニカ。箪笥の支払いまで、私に決めさせる必要があるのか」
「購入を承認なさったのは、お義父様ですから」
「そりゃ買ってよいとは言ったが、どの財布から出すかなど、私は知らんぞ」
「家計から支払えば、来月までの予備費がなくなります。領地の収入から出せば、北の水路の工事はさらに遅れます」
「……なら、家計から出せばよいだろう」
「予備費が必要になった場合は、どうなさいますか?」
「その時に考えればよいだろう?」
「では、家計から支払うとご記入をお願いいたします」
私は会計係から預かった書面を差し出す。義父は眉を寄せたが、ペンを取った。
「……まったく。以前は、こんなことをしなくても済んでいたのに」
「以前は、私が判断しておりました」
「だったら、今までどおりにすればよいではないか」
「ですが、お義父様が何よりの、この家の当主ですので」
義父はまだやや不服そうだったが、大きな字で家計より支払い、と書いた。
「これでいいのだろう」
「ありがとうございます」
隣で義母が果物を切っていた。
「箪笥くらいで、ずいぶん大げさねえ。これはオクタヴィアに必要なものなのでしょう?」
「もちろんよ!」
お義姉様は機嫌よくうなずいた。
「とっても素敵なの。鏡が大きいから、衣装を着た時に全身が見えるのよ!」
「まあ! 私も見せてもらおうかしら」
「ええ。お母様のお部屋にも合うと思うわ。同じ店に、もう少し落ち着いた彫刻のものがありましたの」
「それはよいわね」
二人は次の箪笥の話をし始めた。どうやらもう一台購入する予定が増えそうだ。
私は義父の署名した書面を折り、会計係へ渡すため手元へ置く。
「そういえば」
リュシアンが肉を切りながら言った。
「明日、南の橋へ侯爵家の者が来るそうだな」
「はい」
今朝、正式な書状が届いていた。
古い水利契約の確認と、補修箇所の視察。現侯爵家の領地管理官と、相談役が一名来るとある。
そしてその相談役の名は、セドリック・ヴァレール。
「面倒なことにならなければいいが」
「古い契約の確認です。橋の補修を進めるために必要なことです」
「お前が勝手に問い合わせたのだろう?」
「はい」
「父上の名を使ったのか?」
「私の名で出しました」
「そうか。お前が勝手にしたことだしな。では、私が出る必要はないな」
リュシアンは安心したように食事へ戻った。
義父も、
「橋の話なら、ヴェロニカに任せればよい」
と続けた。
侯爵家の人間が領地へ来るというのに、どうやら当主も後継者も橋へ行くつもりはないらしい。
「はい、私が対応いたします」
「そうしてくれ」
リュシアンはワインを求め、給仕へグラスを差し出した。
*
翌朝は、空が白く曇っていた。
雨は降っていないが、川沿いの風は冷たい。外套の下に厚手の上着を重ね、私はベネットと一緒に南の橋へ向かった。
橋の手前には、職人と近くの村長が待っている。
「若奥様、おはようございます」
「お待たせしました。応急の板は?」
「昨日のうちに替えました。荷馬車は一台ずつ通しております」
橋板の傷んだ場所には新しい板が渡され、欄干には縄が張られていた。川岸には、補修用の石を置く場所が木杭で示されている。
「侯爵家の馬車です」
ベネットが道の先を見た。
二頭立ての黒い馬車が一台、護衛を二人連れて近づいてくる。扉に大きな紋章はない。領地内の視察に使う、簡素な馬車だった。
先に降りたのは四十代ほどの男だった。
「アルマンド侯爵家領地管理官、ダリウス・ローレンです」
続いて、杖を手にした老紳士が降りる。
「相談役のセドリック・ヴァレールだ」
モラン公証人から聞いていた人物だ。六十代半ばのはずだが、背筋はまっすぐ伸びている。
挨拶を終えると、こちらの顔を長く見ることもなく、彼は橋へ目を向けた。
「まず、現場を見せていただこう」
「こちらです」
私は二人を橋へ案内した。
職人から傷んだ箇所を説明させ、石材と木材の見本を見せる。ローレン管理官は契約書を開き、橋脚と川岸の境を確かめていく。
「水量を減らさずに工事を?」
「橋脚の片側ずつ行う予定です」
「ふむ。工期は?」
「四週間。ただし石材が予定どおり届いた場合です」
「契約は済んでいるのか?」
「ええ、商会と金額は決まりました。当主の署名もございます」
「書面を見せていただけるか?」
「写しを用意しております」
私は鞄から取り出して写しを渡す。
ローレン管理官は支払額と納期を確認し、職人へ二、三質問し、ヴァレール相談役は、その間、川上を見ていた。
「……北の水路も傷んでいるそうだな」
「ご存じでしたか」
「モランから、橋以外にも確認すべき場所があると聞いた」
「……ええ」
「そっちの工事は?」
「延期しております。現在は土嚢と板で補強しています」
「では、そちらも見せてもらえるか?」
「今日ですか?」
「時間はある」
ローレン管理官が老人を見る。
「橋の契約確認が先では?」
「もう見た。古い取り決めに反するところはない。書類も揃っている」
「まだ署名を……」
「それはお前の仕事だ」
ヴァレール相談役は杖の先で道を示した。
「北の村までは、ここからどれくらいだ?」
「馬車で一時間ほどです」
「では行こう」
予定にはなかった。けれど、断る理由もない。
「村へ先触れを出します」
「不要だ。普段の様子を見たい」
ローレン管理官は少し困ったようだったが、馬車へ戻った。私もベネットと領地用の馬車へ乗る。
「若奥様」
扉を閉める前に、ベネットが小声で尋ねた。
「侯爵家は、橋だけを見に来たのではないのでしょうか」
「向こうが何を考えているかは、私にも分かりません」
「ですが」
「あなたは聞かれたことへ、正しく答えてください」
「……承知しました」
馬車が動き出す。
南の橋から北の村へ向かう道は、途中から狭くなる。雨の跡が轍へ残り、馬車が何度も傾いた。前を走る侯爵家の馬車も、速度を落とす。
村へ着くと、土嚢を積み終えた領兵たちが水路の周りを片づけていた。突然の馬車に村人たちが集まり始める。
「若奥様!」
村長が帽子を脱いで駆けてきた。
「今日は、どのような」
「侯爵家の方々が、水路を確認なさいます」
「侯爵家の……」
村長の顔色が変わった。
「大丈夫、隠す必要はありません。今の状態を、そのまま説明してください」
ヴァレール相談役は、水路のひびへ近づく。そして板で押さえた部分を杖で軽く叩き、土嚢の積み方を確かめる。
「これで冬を越せるというのか?」
「雪の量によります」
村長が答えた。
「少なければ。春に一度、ですが大雨が来れば、分かりません」
「修繕の願いは、いつ出した」
「最初は三年前です」
「それに対する返事は?」
「若奥様が来られてから、一度、調査をしていただきました。その後、橋や診療所を先に直すことになり…… 今年こそは工事をしていただけると」
村長はそこで私を見た。
「……ですが、少し事情が変わったと伺いました」
「誰から」
「ベネット様から、工事は延期になると」
「理由は聞いたか?」
「屋敷の支出が増えたため、とだけ」
ヴァレール相談役がこちらを向く。
「支出の内容は?」
「《《家族の私的な買い物》》です」
「金額は」
「水路工事の契約金を上回ります」
「《《当主は》》承認したのか」
「はい。書面がございます」
村長は私と老人を交互に見ていた。
「……若奥様は、ずっと直そうとしてくださっていたのです」
頼んでもいないのに、村長はそう切り出した。私は少し驚く。
「橋も、診療所も、冬服も…… こちらが一度お願いすれば、次にいつ調べるかまで書いてくださいました。水路の金が足りないのも、若奥様のせいでは……!」
「村長」
止めると、彼は口を閉じた。
「聞かれたことだけで構いませんから」
「……はい」
ヴァレール相談役は軽くうなずくと、水路の先まで歩き、畑の位置を確かめた。
その後、土嚢を積んだ領兵の副官へ人数と日数を尋ね、ベネットには支出の承認経路を聞き、最後に、私へ言った。
「屋敷へ戻ろう」
「屋敷もご覧になるのですか」
「橋と水路に関する書類を確認する」
それだけなら、不自然ではない。
侯爵家の馬車が先に村を出た。見送りに来た村長が、私の馬車の側へ近づく。
「若奥様、何かあったのでございますか?」
「何でもありません。橋の古い契約を確認していただくだけですよ」
「ですが、あの方は」
「心配しないでください」
今は、それしか言えなかった。
「水路は、いつもどおり見回りを続けて。板がずれたら、すぐベネットへ知らせてください」
「承知しました」
村長は帽子を胸へ抱え、深く頭を下げた。
*
屋敷へ戻ると、義父もリュシアンも外出していた。
義母は午後の茶を飲んでいたが、侯爵家の管理官が来たと聞き、ようやく応接室へ姿を見せた。
「まあ、橋のためにわざわざ? ヴェロニカから聞いておりますわ。あの子は本当に、細かいところまで気にするものですから」
「領地の橋は、細かいものではございません」
ローレン管理官は即座に答える。義母は一度目をしばたたかせ、それから笑った。
「も、もちろん、そうですわね。ですが、すべてヴェロニカに任せておりますので、私にはよく分かりませんの」
「当主夫人は、領地の支出をご確認にならない?」
「難しいことは、《《得意な者》》がすればよいでしょう?」
義母は悪びれずに言った。
「ヴェロニカは実務が大好きなのです。結婚してから、毎日楽しそうに働いておりますわ」
ヴァレール相談役は義母のその言葉には返事をしなかった。
「書類を拝見したい」
「ええ。じゃあ後はヴェロニカ、お願いね」
義母はそう言うと、慈善茶会の招待状を選ぶため、途中で応接室を出ていった。
私は執務室へと二人を案内する。
橋の契約書、水路の報告書、義父の承認書、過去三年の修繕記録。求められたものを順に机へ出した。
ローレン管理官は、書類を一枚ずつ確認し、ヴァレール相談役は、机の上の赤い紐へ目を向けた。
「その束は?」
「期限が近い案件です」
「青は?」
「冬までに処理するものです」
「ふむ、誰が作った?」
「私です」
「なるほど。あなたが去ったあと、誰が分かる」
「今はベネットが全体を管理します。各案件には担当者を決めました」
「家政は?」
「今はマーサへ戻しております」
「使用人の雇用記録は」
「そちらは現在整理中です」
「個人財産は?」
「側仕えが確認しています」
モラン公証人から聞いているのだろう。ヴァレール相談役は赤い紐を指先で一度押し、それから手を離した。
「よろしい」
それだけ言ってうなずく。
ローレン管理官が橋の契約書を閉じる。
「水利契約上、今回の補修に侯爵家の追加承認は必要ありません。ただし、川岸へ新しく石を積む場合は、工事後の図面を提出してください」
「承知いたしました」
「北の水路については、別途報告を上げます」
別途。彼は誰へ、とは言わなかった。
*
用件が終わり、帰途につく馬車へ乗る直前、ヴァレール相談役が足を止めた。
「ヴェロニカ殿」
「はい」
「今までどおり働け」
「承知しております」
「ただし、今後は自分の名で穴を埋めるな」
老人はそれだけ言い、馬車へ乗り込んだ。
車輪が砂利を踏み、侯爵家の馬車が門の向こうへ消えていく。
私は執務室へ戻った。
机の上には、義父の署名した承認書と、赤い紐で束ねた支出記録が残っている。
その日の分として、侯爵家領地管理官による視察、と一覧へ書き加えた。




