第35話 先生の部屋はそのまま
結婚式まで、一月となった。
大きな式にはしない。
領内の教会で誓約を交わし、屋敷へ戻って食事をする。招くのはサデライン家の両親と、ローデン家に近い親族。それから、普段から領地の仕事を支えている者たちだけである。
それでも、屋敷の中では少しずつ準備が進んでいた。
客室のカーテンが洗われ、銀器庫では食事に使う皿が選ばれている。庭師は春の花を残し、式の前日に切れるよう、咲き具合を毎朝確かめていた。
私の部屋にも、家政婦長が間取り図を持ってきた。
「結婚後は、こちらのお部屋をお使いいただく予定です」
図面に示されたのは、フィリップの寝室に隣接した居間と、その奥の一室だった。現在使っている部屋より広く、家族の居室にも近い。
「今の部屋は、どうなりますか?」
「まだ決めておりません。客室へ戻すこともできますし、奥様のお仕事部屋として残すこともできます」
卓の反対側では、エレナが間取り図を覗き込んでいた。
「先生の本は?」
「書斎へ運ぶ予定です」
「授業の部屋は?」
家政婦長の指が止まった。
現在の授業室は、私の部屋から廊下を二つ曲がった場所にある。結婚して居室を移しても、部屋そのものがなくなるわけではない。
「授業室は、そのままですよ」
「前の部屋はなくなる?」
「寝る部屋は変わります」
エレナは図面の上で、今の部屋と新しい部屋を指で行き来した。
「遠くなる」
「屋敷の中ですから、すぐ会えます」
「朝、呼びに行くのは?」
授業のない日でも、エレナは時々、朝食前に私の部屋を訪ねる。庭で見つけた虫や、夜に思いついた問題を、起きてすぐ見せに来るのだ。
「新しい部屋へ来て構いませんよ。ただし、扉を開ける前にノックをしてください」
「今もしてる」
「返事を待たずに入ることがあります」
「急いでる時だけ」
家政婦長が口元を少し緩め、間取り図をこちらへ向け直した。
「今のお部屋は、奥様の書斎として残しましょうか」
「けれど、空いている部屋が減りますね」
「客室は足りております」
返事は早かった。
「以前から、あのお部屋には奥様の本と教材が収まっております。すべて移すより、今のままお使いいただいた方が、私どもも助かります」
私が家政を管理しなくても、屋敷の者たちは自分たちで考え、答えを出している。
図面へ目を戻す。今の部屋から寝台と衣装箪笥を移し、机と本棚を残せば、授業の準備にも使えるだろう。
「では、書斎として残してください」
「かしこまりました」
図面の新しい部屋へ、小さく丸がつけられた。
*
その日の午後、マルタはエレナの春物を整理していた。
衣装部屋の卓には、薄手の外套と帽子が並んでいる。冬の間に背が伸びたため、去年の服は袖が短くなっていた。
「こちらは、お小さい方のいらっしゃる家へお譲りしてもよろしいでしょうか」
マルタが青い外套を広げた。
「エレナに聞いてちょうだい」
「先ほど伺いました。青い釦だけ外して残したいそうです」
「では、そうして」
返事をしてから、まだ私へ確認を求めていることに気づいた。
「でも、エレナの衣装を管理しているのはマルタでしょう。あなたが判断していいのよ」
「高価な品を手放す時は、家政婦長様と確認することになっております」
「それなら、私の許可はいらないわね」
マルタは外套を畳み、譲る物を入れる箱へ収めた。
「結婚後も、エレナ付きの仕事を続けるのでしょう?」
「そのつもりでございます」
「私の側仕えへ戻りたいなら、フィリップと相談するけれど」
釦を外すために持ち上げた鋏が、卓へ戻された。
「ヴェロニカ様は、私を戻したいのですか?」
「そういうわけではないわ。ただ、結婚すれば私にも側仕えが必要になるでしょう」
「家政婦長様が、新しく一人選んでおられます」
すでに準備は進んでいたらしい。マルタは青い外套から釦を一つずつ外し、白い小皿へ置いた。
「私は、エレナ様付きとして雇われました」
「ええ」
「お嬢様は、まだ私を必要としてくださいます。私も、この仕事を続けたいと思っています」
鋏の先が糸を切り、最後の釦が小皿へ落ちた。
「分かったわ」
「ヴェロニカ様の身支度を、もう手伝わないという意味ではございませんよ」
「仕事を二つ持つつもり?」
「友人の髪を直すことまで、契約へ書く必要はないでしょう」
思わずマルタを見る。本人は何も特別なことを言わなかった顔で、外套を箱へ収めている。
「友人なの?」
「今さらでございますか?」
小皿には青い釦が六つ並んでいた。
ランフォード家では、私が主人で、マルタが仕える側だった。こちらへ来てからは、それぞれが男爵家と契約を結び、自分の給金を受け取っている。
それでも、何もかもが離れたわけではない。
「では、結婚式の日だけお願いしてもいい?」
「もちろんです」
「契約外だけれど」
「その話を持ち出したら、別料金をいただきますよ」
冗談なのか判断できずにいると、マルタは釦の小皿を持って衣装部屋を出ていった。
*
結婚式の前日、私はフィリップと新しい居室を見に行った。
家具の移動はほとんど終わっている。窓辺には二脚の椅子が置かれ、間の卓には何も載っていなかった。
「この部屋へ、何を置きたいですか?」
フィリップは壁際の空いた場所を示した。
「今のところは、何も」
「本棚は?」
「書斎に残します。こちらまで本で埋めると、寝る場所が狭くなりますよ」
彼は部屋の広さを見回した。寝台が一つと衣装箪笥が二つ入っても、まだ十分な余裕がある。
「これだけ広ければ、もう一つ本棚を置いても平気でしょう」
「一つ置けば、次も欲しくなります」
「私の書斎も、同じように増えました」
窓辺の椅子へ座り、庭を見る。
エレナと雪の橋を作った溝には、春の草が生えていた。板は倉へ戻され、今は小さな木橋が架かっている。庭師が、雨の日にも渡れるよう作ったものだ。
「結婚後のことですが」
フィリップが向かいへ座った。
「家政婦長から、あなたの仕事について尋ねられました」
「何と答えました?」
「ヴェロニカと相談してから決める、と」
以前の婚家では、「得意だから」という理由だけで、領地も家計も私の仕事になった。
ここでは、何を引き受けるかを先に尋ねられる。
「日々の家政は、今までどおり家政婦長へ任せたいです」
「私も、その方がよいと思います」
「領地についても、管理官とあなたが決めてください。必要なら意見は出しますが、最終判断は引き受けません」
フィリップは膝の上へ置いていた手を組み直した。
「社交と、領内の行事は?」
「男爵夫人として出るべきものには出ます。ただし、茶会の料理や招待客の名簿まで、一人で作るつもりはありません」
「それは助かります。私も、招待客の名を覚えるのが苦手です」
「私へ全部渡すという意味ではありませんよ」
先に釘を刺すと、フィリップは椅子へ深く座り直した。
「一緒に確認しましょう」
「ええ。それなら」
庭で木槌の音がした。
式に使う花台を、庭師が組み立てている。何度か叩いたあと、少し離れて傾きを確かめていた。
「私は、また仕事を抱えすぎるかもしれません」
「その時は止めます」
「あなたも、言わずに一人で決めるでしょう」
「否定できません」
どちらか一人が、もう一人を支えるのではない。
片方が仕事へ潜り込みすぎた時には、残った方が袖を引く。二人とも同時に潜った場合は、エレナかマルタに止めてもらうしかない。
「屋敷には、止める人が多いですね」
「私たちには必要です」
庭から、木槌の音がまた聞こえた。
今度は花台がまっすぐ立ったらしく、庭師が道具を片づけ始めていた。
*
結婚式の日は、朝から晴れた。
マルタが髪を整え、家政婦長が選んだ真珠を留める。鏡の前には、淡い色のドレスが広がっていた。
「きつくありませんか?」
「大丈夫よ」
「襟元は?」
「ちょうどいいわ」
マルタは背中の留め具を確かめたあと、鏡の中の私を見た。
「きれいです」
「ありがとう」
「今日は、仕事ではございませんからね」
笑いながら、手袋を渡してくる。
「分かっているわ」
「本当に?」
「結婚式を仕事だと思うほどではないわよ」
言い切ったところで、扉の外から小さな足音がした。
エレナが花籠を持って入ってくる。淡い青の服を着て、髪には白い花を一輪だけ挿していた。
「準備できた?」
「ええ」
「父上は、三回外へ出た」
「何をしに?」
「馬車を見て、教会を見て、また馬車を見た」
落ち着かずに屋敷を往復しているらしい。
マルタは花籠の中を確かめ、傾いていた花を直した。
「旦那様へ、ヴェロニカ様の準備は整ったとお伝えします」
「私が言う」
「では、一緒に参りましょう」
二人が先に部屋を出る。
廊下の先では、使用人たちがそれぞれの仕事をしながら、こちらを見つけると立ち止まった。祝いの言葉は短く、誰も大騒ぎはしない。その方が、この家らしかった。
教会での式も簡素に終わった。
誓約書へ署名し、指輪を交わす。フィリップの指先には、今朝まで仕事をしていたらしいインクの跡が薄く残っていた。
屋敷へ戻ったあとの食事では、エレナが私の隣へ座った。
「お母様」
スープを運んできた給仕の前で、わざと確かめるように呼ぶ。
「何?」
「呼んだだけ」
エレナは匙を手に取り、スープの中の豆を一つすくった。
反対側では、フィリップが葡萄酒の杯を置いている。こちらを見ると、小さく笑った。
席の場所は、婚約した日とほとんど変わっていない。けれど食卓の札には、もう「家庭教師」とは書かれていなかった。
*
翌朝、いつもの時刻に授業室へ入った。
地図も、教本も、橋の本も、昨日までと同じ場所にある。机の上には、エレナが先に開いた算術の帳面が置かれていた。
「今日は授業ある?」
「ありますよ」
「結婚した次の日なのに?」
「休みにする約束はしていません」
エレナは椅子へ座り、帳面の日付を書いた。
「お母様でも先生?」
「授業の時間は先生です」
「終わったら?」
「お母様でよいでしょう」
エレナは頁の端に、二つの時間を書いた。
――午前、先生。
――午後、お母様。
「午後も宿題を見てもらう時は?」
「その時は、どちらでしょうね」
「両方」
答えを決めると、エレナは鉛筆を持ち直した。
私は授業記録を開き、新しい名前を書く。
――ヴェロニカ・ローデン。
その下へ、今日の課題を記した。
最初の授業は、春の川に架ける橋の話から始まった。




