第34話 あの子の母親になってくれますか
エレナ様が予定帳へ書いた日が来た。
――先生の次の契約。
あれから時は過ぎ、庭の梨は再び白い花をつけている。
その間に、フィリップ様とは何度も出かけた。
東の丘へ行った次の休日には、私から湖へ誘った。秋には町の収穫祭を見て、冬には雪の残る林を歩いた。どちらかが仕事の話を始めると、もう一人が止めた。
たいていは、二人とも一度ずつ止められた。
夕食後に図書室で会うことも増えた。フィリップ様は仕事を終えると、読んでいる本を一冊持ってくる。私は授業の準備を終えたあと、同じ卓の向かいへ座った。
話す日もあれば、一時間近く本だけを読んでいる日もあった。
誰も用事を作って呼びに来なかった。
執事は夕食後の報告を早めに済ませ、家政婦長は図書室の暖炉へ薪を一本多く入れた。料理長は二人分の温かい飲み物を用意するが、理由は尋ねない。
マルタだけは、時々こちらへ確認した。
「今夜も図書室へ?」
「ええ。本を返しに行くわ」
「昨日、返しておられませんでしたか」
私は手元の本を見た。確かに、昨日借りたものとは違う。
「今日は別の本よ」
「承知しました」
それ以上は言わず、襟元の皺を直して仕事へ戻っていった。
屋敷の者たちは皆、フィリップ様を大切にしている。
幸せになってほしいとは思っていても、本人が言葉にする前に話を進める者はいない。少しでもからかえば、彼は書斎へ引っ込み、何日も出てこなくなると知っているのだろう。
そして私についても、よく見ていた。
誰かに必要だと言われれば、仕事として応えようとする。頼まれてもいないことまで背負い、終わってから自分の分が残っていないと気づく。
マルタはその癖を知っているし、今では家政婦長も気づいていた。
誰も私に「旦那様をよろしく」とは言わない。道を空け、あとは二人で歩けということらしい。
*
契約更新の日の朝、マルタは濃い青のドレスを出した。
仕事着より少し生地が軽く、襟と袖口に細い刺繍が入っている。春の訪問にも使える服だが、書斎で契約書を読むだけなら、普段のもので足りる。
「こちらを着るの?」
「はい」
「契約の更新だけよ」
「大切な日です」
マルタはドレスを寝台へ広げ、裾に折り皺がないか確かめた。鏡台には、真珠の耳飾りまで用意されている。
「これは要らないでしょう」
「お嫌でしたら戻します」
「嫌ではないけれど」
耳飾りを手に取ると、マルタは髪を結うため後ろへ回った。
去年までなら、何か知っているのかと問い詰めたかもしれない。けれど、フィリップ様が何か話すつもりなら、本人から聞きたかった。
「男爵様から、何か頼まれた?」
「本日の午前中は、急ぎでなければ書斎へ人を入れないよう、執事様が指示を受けています」
「それだけ?」
「私が知っているのは、それだけです」
髪の留め具が、かちりと閉じた。
「ヴェロニカ様」
「何?」
「男爵様のお話は、最後まで聞いて差し上げてください」
鏡越しに目が合う。
「途中で返事をしてはいけないほど長いの?」
「短くするために、三日前から書き直しておられます」
それは知らないと言える範囲なのだろうか。
マルタは真珠の耳飾りを私へ渡し、自分はエレナ様の部屋へ向かった。
*
フィリップ様の書斎には、二通の契約書が用意されていた。
最初に署名した時と同じ机。同じ椅子。窓際には領地の地図が広げられ、右端には昨夜使ったらしいインク壺が残っている。
「お掛けください」
フィリップ様の声は、普段と変わらなかった。
けれど、机の上の書類は、いつも以上に角がそろっている。置き直した跡が、木の表面へ薄くついていた。
契約内容を初めから読む。
授業時間、休日、給金、衣装代、休暇。辞職する場合の通知期間。領地と家政の仕事は、家庭教師の職務に含まれない。
期間だけが延長されていた。
「変更を希望なさる箇所はありますか?」
「ありません」
「私からも、条件の変更はございません」
ペンを受け取り、署名する。
――ヴェロニカ・サデライン。
フィリップ様も自分の名を書き、二通の契約書へ日付を入れた。一通を私へ渡し、もう一通は保管用の箱へ収める。
「これで、また契約が続きます」
「はい。よろしくお願いいたします」
「こちらこそ」
箱の蓋が閉じられた。
フィリップ様は鍵を掛け、机の引き出しへ戻す。それから契約書の置かれていた場所を、手のひらで一度なぞった。
「ここからは、雇用と関係のない話です」
マルタの言葉を思い出した。
最後まで聞く。
「はい」
フィリップ様は椅子へ座り直した。机の下で組んだ手が、一度ほどけ、また組み直される。
「先に申し上げます。これからの話を断られても、今署名した契約は変わりません。授業時間も給金も、屋敷での待遇も同じです」
「分かりました」
「返事を急いでいただくつもりもありません」
庭から鳥の声が聞こえた。
開けた窓の向こうで、梨の枝が風に揺れている。白い花びらが一枚、窓枠の内側へ落ちた。
フィリップ様は机の上へ目を向けたあと、こちらを見た。
「私は、あなたとこれからも暮らしたいと思っています」
続く言葉を待った。
「夕食のあとに話す相手として。休日に一緒に出かける相手として。仕事で失敗した時には聞いてもらい、あなたが困った時には相談してもらいたい」
話す速さは一定だった。何度も考えた言葉なのだろう。
「エレナの教師だから、ここへ残ってほしいと申し上げているのではありません。家庭教師の契約は、先ほど更新しました」
「はい」
「私の妻になっていただけませんか」
机の端に置かれたペンが、風で少し転がった。
フィリップ様が押さえる。指先には、前と同じようにインクがついていた。
返事を急がないと言われた。
考える時間はある。
けれど、もう何度も考えていた。図書室で向かい合って本を読んだ夜。東の丘で飲んだ果実水。雪道で歩幅を合わせてもらった日。話す用事がなくても、食事のあとに姿を探したこと。
仕事として必要とされたいのではない。この人と同じ家で暮らしたい。
「お受けします」
「……よろしいのですか?」
「はい。私も、フィリップ様と暮らしたいと思っています」
彼の肩が下がり、椅子の背へ触れた。
「ああ」
短い息と一緒に声が出た。
「三日前から考えていた言葉は、もう残っていないのですか?」
「返事をいただいたあとのことは、あまり考えていませんでした」
「断られた時のことは?」
「毎晩考えました」
机の端を押さえていた手が離れる。
フィリップ様は笑った。大きな笑いではなかったが、目元の固さが消えた。
「ヴェロニカと、お呼びしても?」
「ええ」
「私も、フィリップとお呼びいただければ」
「すぐには慣れないと思います」
「私もです」
二人とも呼び方を変えたものの、そのあと何を話せばよいのか分からなくなった。
梨の花びらが、また一枚入ってくる。私は窓枠へ落ちた二枚を重ね、机の隅へ置いた。
「もう一つ、お願いがあります」
フィリップ様の声が、先ほどより低くなった。
「まだあるのですか?」
「こちらは、私だけで決められる話ではありません」
彼は立ち上がり、窓を閉めた。庭の音が少し遠くなる。
「エレナは、あなたを慕っています。来年も、その次の年も、この家にいてほしいと思っているでしょう」
「ええ」
「亡くなった妻のことも、あの子は忘れたくないはずです」
机の上には、梨の花びらが二枚残っている。
「私も忘れるつもりはありません」
「分かっています。あの日、あなたがエレナへ話してくださったことを聞いて、そう思えました」
林檎の焼き菓子を作った日のことだ。
「家族が増えても、前の家族の思い出を片づける必要はないと。新しいものは、同じ棚へ増やせばよいと」
「棚が足りなければ、増やします」
「ええ」
フィリップ様は一度うなずいた。
「あの子の母親になってくれますか」
一度目の求婚とは、別の重さがあった。
フィリップ様の妻になることは、私が決められる。
母親になるには、エレナ様の気持ちもある。亡くなった母親との思い出も、これから育つ関係も、急いで一つへまとめることはできない。
「ずいぶん大きなお願いを、一度に二つなさいましたね」
「別々に伺うべきだと思いました」
「ええ。その方がよいです」
私は膝の上へ置いた契約書を畳んだ。
「お受けします。ただし、私だけが母親になると決めても始まりません。エレナ様と話し、一緒に考えさせてください」
「もちろんです」
「それから、前の奥様の絵も、命日も、林檎の菓子も、そのままです」
「私も、それを望んでいます」
返事が終わると、フィリップ様は机を回ってこちらへ来た。
手を差し出される。契約書を交わす時とは違う。
私はその手へ、自分の手を重ねた。
*
エレナ様は授業室にいた。
今日の午前は自習の予定で、机の上に歴史の本と算術の帳面を開いている。マルタは窓際で、春用の帽子へ新しいリボンを縫いつけていた。
私たちが一緒に入ると、エレナ様は算術の筆を置いた。
「終わった?」
「契約は終わった」
「先生、来年もいる?」
フィリップ様より先に、私を見る。
「ええ。新しい契約を結びました」
「よかった」
エレナ様は予定帳を開いた。
前に書いた「先生の次の契約」の横へ、小さく丸をつける。筆を戻したところで、父親がまだ立っていることに気づいた。
「ほかにもあるの?」
「ああ。大切な話がある」
マルタは帽子を膝へ置いた。
退室するべきか迷ったらしい。けれどエレナ様が袖をつかんだため、そのまま椅子へ残る。
「私は、先生へ結婚を申し込んだんだ」
「先生、なんて言った?」
エレナ様はまたこちらを見る。
「お受けしました」
「じゃあ、先生はここに住む?」
開いた予定帳の上で、丸を描いたインクがまだ光っている。
「これからも、この家で暮らします」
「授業は?」
「続けてよいなら」
「歴史も?」
「ええ。算術も地理も」
エレナ様は帳面を閉じた。次に、壁の向こうを見る。小広間には、亡くなった母親の肖像画がある。
「お母様の絵は?」
「外しません」
「林檎のお菓子も作る?」
「来年も一緒に作りましょう」
椅子が床を擦った。エレナ様は立ち上がり、こちらの前まで来る。手を伸ばしかけ、途中で止めた。
「先生」
「はい」
「……お母様って呼んでもいい?」
私は腰をかがめ、同じ高さまで目線を下げた。
「エレナ様が、そう呼びたい時に」
「今日でも?」
「ええ」
「じゃあ、今日から」
エレナ様の手が、私の袖をつかんだ。
「お母様」
声は、先生と呼ぶ時とほとんど変わらなかった。それでも、もう一度聞きたくなった。
「はい、エレナ」
初めて、様をつけずに呼んだ。
袖をつかんだ指へ、少し力が入る。フィリップ様は隣で何か言おうとしたが、エレナが先に顔を向けた。
「父上、ちゃんと言えた?」
「言った」
「三日前から練習してた」
「誰から聞いた?」
「皆、知ってる」
窓際で、マルタが帽子のリボンへ顔を伏せた。
廊下の向こうでは、誰かの靴音が急に遠ざかる。扉の近くにいた者が、話を聞き終えて厨房へ知らせに走ったらしい。
フィリップ様は額へ手を当てた。
「……誰も知らないと思っていた」
「旦那様が三日間、同じ書類をお持ちになって書斎と図書室を往復なされば、皆も気づきます」
マルタは縫い針を布へ戻した。
「ただ、誰も何も申し上げなかったでしょう?」
「ええ」
「ご自分でお話しになることですから」
エレナは私の袖をつかんだまま、父親を見上げた。
「言えてよかったね」
「ああ」
フィリップ様は今度こそ、素直にうなずいた。
*
その日の夕食は、普段とほとんど変わらなかった。料理が一品増え、食後に小さな菓子が出ただけだ。
執事も家政婦長も、給仕の者たちも、声を上げて祝うことはなかった。席へ着く前に順番に頭を下げ、それぞれ短く祝いを述べる。
フィリップ様がからかわれるのを好まないことも、私たちがまだ婚約したばかりであることも分かっている。
ただし料理長だけは、何も聞いていなかった顔で、フィリップ様の好物を三品並べていた。
「……偶然か?」
皿を見たフィリップ様が尋ねる。
「本日の食材が、ちょうどそろっておりましたので」
料理長は真面目な顔で答え、一礼して厨房へ戻った。
エレナが私の隣で小さく笑う。
「皆、知ってた」
「そうね」
「お母様だけ、知らなかった?」
「私も、今朝までは」
今まで私が座っていた席は、家庭教師として用意されたものだった。
場所は変わっていない。
けれどエレナは、自分の椅子をこちらへ少し寄せた。反対側では、フィリップ様も杯を置く位置を近づけている。
三人の皿の間が、昨日より狭くなった。




