↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「何とかするのがお前の仕事だろう」と言われましたので、すべてを引き継いで出ていきます。  作者: さんけい


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
34/36

第34話 あの子の母親になってくれますか

 エレナ様が予定帳へ書いた日が来た。


 ――先生の次の契約。


 あれから時は過ぎ、庭の梨は再び白い花をつけている。

 その間に、フィリップ様とは何度も出かけた。

 東の丘へ行った次の休日には、私から湖へ誘った。秋には町の収穫祭を見て、冬には雪の残る林を歩いた。どちらかが仕事の話を始めると、もう一人が止めた。

 たいていは、二人とも一度ずつ止められた。

 夕食後に図書室で会うことも増えた。フィリップ様は仕事を終えると、読んでいる本を一冊持ってくる。私は授業の準備を終えたあと、同じ卓の向かいへ座った。

 話す日もあれば、一時間近く本だけを読んでいる日もあった。

 誰も用事を作って呼びに来なかった。

 執事は夕食後の報告を早めに済ませ、家政婦長は図書室の暖炉へ薪を一本多く入れた。料理長は二人分の温かい飲み物を用意するが、理由は尋ねない。

 マルタだけは、時々こちらへ確認した。


「今夜も図書室へ?」

「ええ。本を返しに行くわ」

「昨日、返しておられませんでしたか」


 私は手元の本を見た。確かに、昨日借りたものとは違う。


「今日は別の本よ」

「承知しました」


 それ以上は言わず、襟元の皺を直して仕事へ戻っていった。

 屋敷の者たちは皆、フィリップ様を大切にしている。

 幸せになってほしいとは思っていても、本人が言葉にする前に話を進める者はいない。少しでもからかえば、彼は書斎へ引っ込み、何日も出てこなくなると知っているのだろう。

 そして私についても、よく見ていた。

 誰かに必要だと言われれば、仕事として応えようとする。頼まれてもいないことまで背負い、終わってから自分の分が残っていないと気づく。

 マルタはその癖を知っているし、今では家政婦長も気づいていた。

 誰も私に「旦那様をよろしく」とは言わない。道を空け、あとは二人で歩けということらしい。


 *


 契約更新の日の朝、マルタは濃い青のドレスを出した。

 仕事着より少し生地が軽く、襟と袖口に細い刺繍が入っている。春の訪問にも使える服だが、書斎で契約書を読むだけなら、普段のもので足りる。


「こちらを着るの?」

「はい」

「契約の更新だけよ」

「大切な日です」


 マルタはドレスを寝台へ広げ、裾に折り皺がないか確かめた。鏡台には、真珠の耳飾りまで用意されている。


「これは要らないでしょう」

「お嫌でしたら戻します」

「嫌ではないけれど」


 耳飾りを手に取ると、マルタは髪を結うため後ろへ回った。

 去年までなら、何か知っているのかと問い詰めたかもしれない。けれど、フィリップ様が何か話すつもりなら、本人から聞きたかった。


「男爵様から、何か頼まれた?」

「本日の午前中は、急ぎでなければ書斎へ人を入れないよう、執事様が指示を受けています」

「それだけ?」

「私が知っているのは、それだけです」


 髪の留め具が、かちりと閉じた。


「ヴェロニカ様」

「何?」

「男爵様のお話は、最後まで聞いて差し上げてください」


 鏡越しに目が合う。


「途中で返事をしてはいけないほど長いの?」

「短くするために、三日前から書き直しておられます」


 それは知らないと言える範囲なのだろうか。

 マルタは真珠の耳飾りを私へ渡し、自分はエレナ様の部屋へ向かった。


 *


 フィリップ様の書斎には、二通の契約書が用意されていた。

 最初に署名した時と同じ机。同じ椅子。窓際には領地の地図が広げられ、右端には昨夜使ったらしいインク壺が残っている。


「お掛けください」


 フィリップ様の声は、普段と変わらなかった。

 けれど、机の上の書類は、いつも以上に角がそろっている。置き直した跡が、木の表面へ薄くついていた。

 契約内容を初めから読む。

 授業時間、休日、給金、衣装代、休暇。辞職する場合の通知期間。領地と家政の仕事は、家庭教師の職務に含まれない。

 期間だけが延長されていた。


「変更を希望なさる箇所はありますか?」

「ありません」

「私からも、条件の変更はございません」


 ペンを受け取り、署名する。


 ――ヴェロニカ・サデライン。


 フィリップ様も自分の名を書き、二通の契約書へ日付を入れた。一通を私へ渡し、もう一通は保管用の箱へ収める。


「これで、また契約が続きます」

「はい。よろしくお願いいたします」

「こちらこそ」


 箱の蓋が閉じられた。

 フィリップ様は鍵を掛け、机の引き出しへ戻す。それから契約書の置かれていた場所を、手のひらで一度なぞった。


「ここからは、雇用と関係のない話です」


 マルタの言葉を思い出した。

 最後まで聞く。


「はい」


 フィリップ様は椅子へ座り直した。机の下で組んだ手が、一度ほどけ、また組み直される。


「先に申し上げます。これからの話を断られても、今署名した契約は変わりません。授業時間も給金も、屋敷での待遇も同じです」

「分かりました」

「返事を急いでいただくつもりもありません」


 庭から鳥の声が聞こえた。

 開けた窓の向こうで、梨の枝が風に揺れている。白い花びらが一枚、窓枠の内側へ落ちた。

 フィリップ様は机の上へ目を向けたあと、こちらを見た。


「私は、あなたとこれからも暮らしたいと思っています」


 続く言葉を待った。


「夕食のあとに話す相手として。休日に一緒に出かける相手として。仕事で失敗した時には聞いてもらい、あなたが困った時には相談してもらいたい」


 話す速さは一定だった。何度も考えた言葉なのだろう。


「エレナの教師だから、ここへ残ってほしいと申し上げているのではありません。家庭教師の契約は、先ほど更新しました」

「はい」

「私の妻になっていただけませんか」


 机の端に置かれたペンが、風で少し転がった。

 フィリップ様が押さえる。指先には、前と同じようにインクがついていた。

 返事を急がないと言われた。

 考える時間はある。

 けれど、もう何度も考えていた。図書室で向かい合って本を読んだ夜。東の丘で飲んだ果実水。雪道で歩幅を合わせてもらった日。話す用事がなくても、食事のあとに姿を探したこと。

 仕事として必要とされたいのではない。この人と同じ家で暮らしたい。


「お受けします」

「……よろしいのですか?」

「はい。私も、フィリップ様と暮らしたいと思っています」


 彼の肩が下がり、椅子の背へ触れた。


「ああ」


 短い息と一緒に声が出た。


「三日前から考えていた言葉は、もう残っていないのですか?」

「返事をいただいたあとのことは、あまり考えていませんでした」

「断られた時のことは?」

「毎晩考えました」


 机の端を押さえていた手が離れる。

 フィリップ様は笑った。大きな笑いではなかったが、目元の固さが消えた。


「ヴェロニカと、お呼びしても?」

「ええ」

「私も、フィリップとお呼びいただければ」

「すぐには慣れないと思います」

「私もです」


 二人とも呼び方を変えたものの、そのあと何を話せばよいのか分からなくなった。

 梨の花びらが、また一枚入ってくる。私は窓枠へ落ちた二枚を重ね、机の隅へ置いた。


「もう一つ、お願いがあります」


 フィリップ様の声が、先ほどより低くなった。


「まだあるのですか?」

「こちらは、私だけで決められる話ではありません」


 彼は立ち上がり、窓を閉めた。庭の音が少し遠くなる。


「エレナは、あなたを慕っています。来年も、その次の年も、この家にいてほしいと思っているでしょう」

「ええ」

「亡くなった妻のことも、あの子は忘れたくないはずです」


 机の上には、梨の花びらが二枚残っている。


「私も忘れるつもりはありません」

「分かっています。あの日、あなたがエレナへ話してくださったことを聞いて、そう思えました」


 林檎の焼き菓子を作った日のことだ。


「家族が増えても、前の家族の思い出を片づける必要はないと。新しいものは、同じ棚へ増やせばよいと」

「棚が足りなければ、増やします」

「ええ」


 フィリップ様は一度うなずいた。


「あの子の母親になってくれますか」


 一度目の求婚とは、別の重さがあった。

 フィリップ様の妻になることは、私が決められる。

 母親になるには、エレナ様の気持ちもある。亡くなった母親との思い出も、これから育つ関係も、急いで一つへまとめることはできない。


「ずいぶん大きなお願いを、一度に二つなさいましたね」

「別々に伺うべきだと思いました」

「ええ。その方がよいです」


 私は膝の上へ置いた契約書を畳んだ。


「お受けします。ただし、私だけが母親になると決めても始まりません。エレナ様と話し、一緒に考えさせてください」

「もちろんです」

「それから、前の奥様の絵も、命日も、林檎の菓子も、そのままです」

「私も、それを望んでいます」


 返事が終わると、フィリップ様は机を回ってこちらへ来た。

 手を差し出される。契約書を交わす時とは違う。

 私はその手へ、自分の手を重ねた。


 *


 エレナ様は授業室にいた。

 今日の午前は自習の予定で、机の上に歴史の本と算術の帳面を開いている。マルタは窓際で、春用の帽子へ新しいリボンを縫いつけていた。

 私たちが一緒に入ると、エレナ様は算術の筆を置いた。


「終わった?」

「契約は終わった」

「先生、来年もいる?」


 フィリップ様より先に、私を見る。


「ええ。新しい契約を結びました」

「よかった」


 エレナ様は予定帳を開いた。

 前に書いた「先生の次の契約」の横へ、小さく丸をつける。筆を戻したところで、父親がまだ立っていることに気づいた。


「ほかにもあるの?」

「ああ。大切な話がある」


 マルタは帽子を膝へ置いた。

 退室するべきか迷ったらしい。けれどエレナ様が袖をつかんだため、そのまま椅子へ残る。


「私は、先生へ結婚を申し込んだんだ」

「先生、なんて言った?」


 エレナ様はまたこちらを見る。


「お受けしました」

「じゃあ、先生はここに住む?」


 開いた予定帳の上で、丸を描いたインクがまだ光っている。


「これからも、この家で暮らします」

「授業は?」

「続けてよいなら」

「歴史も?」

「ええ。算術も地理も」


 エレナ様は帳面を閉じた。次に、壁の向こうを見る。小広間には、亡くなった母親の肖像画がある。


「お母様の絵は?」

「外しません」

「林檎のお菓子も作る?」

「来年も一緒に作りましょう」


 椅子が床を擦った。エレナ様は立ち上がり、こちらの前まで来る。手を伸ばしかけ、途中で止めた。


「先生」

「はい」

「……お母様って呼んでもいい?」


 私は腰をかがめ、同じ高さまで目線を下げた。


「エレナ様が、そう呼びたい時に」

「今日でも?」

「ええ」

「じゃあ、今日から」


 エレナ様の手が、私の袖をつかんだ。


「お母様」


 声は、先生と呼ぶ時とほとんど変わらなかった。それでも、もう一度聞きたくなった。


「はい、エレナ」


 初めて、様をつけずに呼んだ。

 袖をつかんだ指へ、少し力が入る。フィリップ様は隣で何か言おうとしたが、エレナが先に顔を向けた。


「父上、ちゃんと言えた?」

「言った」

「三日前から練習してた」

「誰から聞いた?」

「皆、知ってる」


 窓際で、マルタが帽子のリボンへ顔を伏せた。

 廊下の向こうでは、誰かの靴音が急に遠ざかる。扉の近くにいた者が、話を聞き終えて厨房へ知らせに走ったらしい。

 フィリップ様は額へ手を当てた。


「……誰も知らないと思っていた」

「旦那様が三日間、同じ書類をお持ちになって書斎と図書室を往復なされば、皆も気づきます」


 マルタは縫い針を布へ戻した。


「ただ、誰も何も申し上げなかったでしょう?」

「ええ」

「ご自分でお話しになることですから」


 エレナは私の袖をつかんだまま、父親を見上げた。


「言えてよかったね」

「ああ」


 フィリップ様は今度こそ、素直にうなずいた。


 *


 その日の夕食は、普段とほとんど変わらなかった。料理が一品増え、食後に小さな菓子が出ただけだ。

 執事も家政婦長も、給仕の者たちも、声を上げて祝うことはなかった。席へ着く前に順番に頭を下げ、それぞれ短く祝いを述べる。

 フィリップ様がからかわれるのを好まないことも、私たちがまだ婚約したばかりであることも分かっている。

 ただし料理長だけは、何も聞いていなかった顔で、フィリップ様の好物を三品並べていた。


「……偶然か?」


 皿を見たフィリップ様が尋ねる。


「本日の食材が、ちょうどそろっておりましたので」


 料理長は真面目な顔で答え、一礼して厨房へ戻った。

 エレナが私の隣で小さく笑う。


「皆、知ってた」

「そうね」

「お母様だけ、知らなかった?」

「私も、今朝までは」


 今まで私が座っていた席は、家庭教師として用意されたものだった。

 場所は変わっていない。

 けれどエレナは、自分の椅子をこちらへ少し寄せた。反対側では、フィリップ様も杯を置く位置を近づけている。

 三人の皿の間が、昨日より狭くなった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。