↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「何とかするのがお前の仕事だろう」と言われましたので、すべてを引き継いで出ていきます。  作者: さんけい


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
33/36

第33話 契約にありません

 林檎の焼き菓子を作った日から、フィリップ様と話す時間が増えた。


 といっても、領地やエレナ様について相談されるわけではない。

 夕食後に読んでいる本を尋ねられたり、庭の花が咲いたと教えられたりする。私が図書室で古い旅行記を見つけたと話せば、翌日には自分が昔訪れた町のことを話してくれた。

 どれも、返事をしなくても誰かが困る話ではなかった。

 そのことに気づくまで、数日かかった。


「ヴェロニカ様」


 午後の授業を終えて部屋へ戻ると、マルタが衣装箱を開けていた。

 冬物を奥へ移し、春のドレスを取り出している。寝台の上には、淡い緑と灰色の二着が並んでいた。


「次のお休みは、何かご予定がございますか?」

「実家へ手紙を書くくらいね」

「外出は?」

「今のところはないわ」


 マルタは緑のドレスを持ち上げ、袖口を確かめた。冬の間に畳んでいたため、布の一部に折り目が残っている。


「男爵様からも、同じことを聞かれましたよ」

「私の予定を?」

「はい」


 何か急ぎの仕事だろうか。

 授業の休みを動かす必要があるなら、先に内容を聞いた方がよい。そう考えて机の予定帳へ手を伸ばすと、マルタが緑のドレスをその上へ置いた。


「お仕事ではないそうです」

「では、エレナ様のお出かけ?」

「それも違うと伺いました」


 マルタは袖の折り目を指で伸ばした。


「ご本人から、お話があると思います」

「何の話か聞かなかったの?」

「ヴェロニカ様へ直接申し上げることです、と」


 ずいぶん慎重な言い方である。

 マルタは灰色のドレスを箱へ戻し、緑の方だけを椅子へ掛けた。


「次のお休みには、こちらがよろしいと思います」

「どこへ行くのかも分からないのに?」

「遠出ではないそうです」

「それは聞いたのね」

「歩きにくい場所かどうかは、大切ですから」


 それ以上は教えるつもりがないらしい。


 *


 翌日の夕食後、フィリップ様から庭へ誘われた。

 日が長くなり、食事を終えても空には明るさが残っている。庭の端では植木を整えていた庭師たちが道具を片づけ、鳥が生垣の間を飛び交っていた。


「次の休日ですが……」


 フィリップ様は、噴水の前で足を止めた。


「ご予定がなければ、東の丘までご一緒いただけませんか?」

「東の丘?」


 ローデン領の地図を思い出す。

 屋敷から近い場所には放牧地があり、その先には古い果樹園があったはずだ。春になって道が傷んでいないか、確認する必要があるのだろうか。


「牧草地の視察ですか?」

「違います」

「果樹園について、何かご相談が?」


 フィリップ様は噴水の縁へ片手を置いた。

 水面には、夕方の空と庭木が映っている。風が吹くたびに小さく揺れ、二人の姿も形を変えた。


「仕事の相談はありません」

「では、何をしに?」

「景色を見に行きます」


 それだけでは、まだ分からなかった。

 私が次の言葉を待っていると、フィリップ様は噴水から手を離し、こちらへ向き直った。


「あなたと二人で出かけたいのです」

「私と?」

「はい」


 庭師が遠くで一礼し、裏口の方へ戻っていく。人の気配がなくなると、噴水から落ちる水の音だけが近くなった。


「エレナ様は?」

「マルタさんと家政婦長が、昼まで見てくれます」

「それは、先に頼んだのですか?」

「いいえ。まずマルタさんに、あなたの休日を聞きました」


 それで先ほどの話になったらしい。

 フィリップ様は上着のポケットから、小さく折った紙を取り出した。


「東の丘までの道を書きました。往復して、昼前には戻れます」

「詳しいのですね」

「誘ってから道が悪いと分かるのは困るので、昨日歩いてきました」


 紙には道順のほか、ぬかるんでいる場所まで印がついていた。

 私が公証人へ会いに行く前、何度も契約書や証明書を確かめたことを思い出す。フィリップ様も、気になることがあると先に調べる人らしい。


「これは、お仕事ではないのですね」

「ええ」

「エレナ様のためでもない」

「私がお願いしています」


 返事の前に、もう一つ確かめておきたかった。


「何か、私へお話ししたいことがあるのでしょうか」

「特別な相談はありません」

「では、本当に景色を見るだけ?」

「それでは、いけませんか」


 フィリップ様が持っていた紙の角を、指先で押さえた。

 仕事なら、目的が必要になる。どこへ行き、誰に会い、何を決めるか。それが分からなければ、準備もできない。

 けれど休日に誰かと出かけるために、解決すべき問題がなくてもよい。


「契約にはありませんね」

「ありません」


 フィリップ様は、すぐに答えた。


「ですから、お断りになっても、授業にも給金にも何も影響しません。次の日からも、今までどおりです」

「では、私も自分で決めてよいのですね」

「もちろんです」


 手元の紙を受け取る。東の丘までの道は、地図で見るより近い。古い果樹園を抜けた先に、領地を見渡せる場所があるらしい。


「ご一緒します」

「よろしいのですか?」

「私も行きたいと思いました」


 フィリップ様の指から、紙の端が離れた。


「ありがとうございます」

「ただし、歩く速さは私に合わせてください」

「気をつけます」


 彼は以前、エレナ様と庭を歩いた時にも、途中から先へ行きすぎていた。


「それから、仕事の話を始めたら止めてください」

「私が?」

「私は、畑を見ると収穫量を考えてしまいます」

「では、お互いに止めましょう。私も柵の傷みを見つけると、庭師を呼びたくなります」


 どちらが先に仕事を始めるか、少し怪しい。


 *


 休日の朝、マルタは緑のドレスを用意していた。

 華やかな服ではないが、裾に細い葉の刺繍が入り、春の外出にはよく合う。歩くための靴と薄手の外套も、椅子の横へそろえてあった。


「やはり、知っていたのね」

「東の丘へ行かれることだけは」

「どうして昨日のうちに言わなかったの?」

「男爵様が、ご自分でお誘いになるべきでしょう」


 髪をまとめながら、マルタは鏡越しにこちらを見た。


「初めに伺った時には、『休日に東の丘を見ていただきたい』とおっしゃいました」

「それでは視察に聞こえるわ」

「私も、そう申し上げました」


 マルタは髪へ留め具を差し、左右の高さを確かめた。


「ヴェロニカ様は、曖昧に頼まれると仕事だと受け取ります、と」

「余計なことを」

「間違っておりますか?」

「……間違ってはいないわ」


 以前の私なら、休日であっても地図と帳面を持って出ただろう。


「それで、男爵様は?」

「言い直す、とおっしゃいました」

「ずいぶん素直ね」

「お二人とも、似ておられますよ」


 留め具の位置が決まると、マルタは鏡の前から離れた。


「どこが?」

「ご自分では、きちんと説明しているおつもりのところが」


 反論しようとしたが、出かける時刻になっていた。

 玄関では、フィリップ様が先に待っていた。

 濃い茶色の上着に、歩きやすい革靴を履いている。手には杖も地図もなく、持っているのは小さな革の水筒だけだった。


「お待たせしました」

「いいえ。私が早く来すぎました」

「何分ほど?」

「十五分です」

「早すぎますね」


 マルタの言うとおり、私たちには似ているところがあるのかもしれない。


 *


 東の丘へ続く道は、屋敷の裏門から始まっていた。

 冬の間は雪で閉ざされていたが、今は道の両側に若い草が生え、小さな白い花が点々と咲いている。

 初めのうち、私たちはエレナ様の授業について話していた。

 最近は地理の問題が増えたこと。文章を書く時、以前より理由を長く説明するようになったこと。算術では、答えだけでなく途中の計算も残すようになったこと。

 果樹園へ入る前で、フィリップ様が立ち止まった。


「仕事の話になっています」

「本当ですね」

「止める約束でした」

「では、ここからは禁止にしましょう」


 道の脇に立つ杭へ、古い縄が結ばれていた。

 私は柵の傷みを見つけかけ、意識して反対側を見る。果樹園には白い花が咲き、枝の間を蜜蜂が飛んでいた。


「何の木ですか?」

「梨です」

「収穫は――」


 口に出しかけて止めた。フィリップ様が笑う。


「今、仕事へ戻りかけましたね」

「梨を見ると、去年の収穫量が気になります」

「私は、あの枝を切るべきか考えました」

「お互いさまですね」


 果樹園を抜けると、道は緩やかな上りになった。

 フィリップ様は最初、私より半歩ほど前を歩いていた。しばらくするとこちらの速度に気づき、並ぶ位置まで戻ってくる。


「以前も、歩くのが速いと言われました」

「どなたに?」

「妻にです。エレナにも、何度か」


 道の端には昨夜の雨が残り、土の色が濃くなっている。フィリップ様は水たまりの手前で止まり、乾いた側を示した。


「奥様とは、よく歩かれたのですか?」

「春には時々。妻は果樹園の花が好きでした」

「では、この道も」

「一緒に来たことがあります」


 亡くなった妻との場所へ、私を連れてきた。けれど、その記憶を隠すつもりはないらしい。


「私でよかったのでしょうか」

「あなたと来たかったのです」


 答えは短かった。

 フィリップ様は先へ進み、水たまりを越えたところでこちらを待った。

 私は裾を少し持ち上げ、乾いた石の上へ足を置く。差し出された手を借りるほどの幅ではなかったが、彼はすぐ近くに立っていた。

 丘の上には、古い石造りの四阿があった。

 屋根の一部には蔦が絡み、柱の間から領地を見渡せる。遠くに村の屋根があり、その向こうには春の川が光っていた。


「きれいですね」

「晴れてよかった」


 四阿の中には木の長椅子が置かれている。

 フィリップ様は水筒を開き、二つの小さな杯へ果実水を注いだ。さらに上着の内側から、布に包んだ焼き菓子を出す。


「用意がよいですね」

「家政婦長が持たせてくれました」

「ご自分で用意なさったのでは?」

「水筒だけです」


 正直に答え、片方の杯を私へ渡す。

 焼き菓子は、厨房で朝のうちに作ったものらしい。薄い生地の中に木の実が入り、まだ少し温かさが残っていた。


「こうして、用事もなく誰かと出かけるのは久しぶりです」


 フィリップ様は長椅子の端へ座った。


「……私は、結婚している間もほとんどありませんでした」

「ご夫君とは?」

「出かける時には、いつも何か予定がありました」


 夜会、訪問、領内の視察。

 二人だけで出かけること自体が、なかったわけではない。だが馬車の中でも、次に会う相手や帰宅後の仕事を考えていた。


「では今日は、何も決めなくてよい日にしましょう」

「丘へ来ることは決めましたよ」

「もう着きました。残りは自由です」


 果実水を飲み、遠くの川を見る。

 風が果樹園を抜け、梨の花びらを丘まで運んできた。一枚が長椅子の背へ落ち、すぐ地面へ飛ばされていく。


「最近、食事のあとにお話しくださることが増えましたね」

「気づいておられましたか」

「数日前に」


 フィリップ様は杯を両手で持った。


「初めは、何を話せばよいのか分かりませんでした」

「用事がないから?」

「ええ。仕事なら話すことはいくらでもあります」


 それはよく分かる。


「でも、あなたと話したかった」

「それで、本の話を?」

「図書室でお見かけしたので」


 最初の一回は偶然だったらしい。


「次の日の庭の花は?」

「前の日に、あなたが窓から見ていたので」

「旅行記の町は?」

「私が話せるものを探しました」


 一つずつ、理由があった。

 理由を作り、それを確かめてから声をかける。私が契約書や予定表を用意するのと、たしかによく似ていた。


「そのまま話しかけてくださっても構いませんよ」

「何もなくても?」

「ええ」


 返事をしてから、自分にも同じことが当てはまると気づいた。


「私も、お話ししたい時には伺ってよいでしょうか」

「ぜひ」


 フィリップ様の杯が、膝の上から少し持ち上がった。


「ただし、仕事の書類は持たずに」

「難しい注文ですね」

「私も地図を持たないようにします」


 二人ともそう言ったが、自信はなかった。

 それでも帰り道では、領地の話を一度もしなかった。

 フィリップ様が子供の頃、果樹園で梨を盗み食いして腹を壊したこと。エレナ様が三歳の時、同じことをして、父親だけが叱られたこと。

 私は実家の姉と、熟していない木苺を競って食べ、二人とも夕食を残した話をした。


 *


 屋敷の屋根が見える頃には、昼を知らせる鐘が鳴り始めていた。

 玄関前にはエレナ様とマルタが待っていた。


「遅くない」

「ええ。約束どおりです」

「何を見た?」


 エレナ様は、私と父親の手元を確かめた。


「梨の花です」

「ほかは?」

「丘から村を見ました」


 それだけでは足りないらしく、今度は父親を見る。

 フィリップ様は少し考えてから答えた。


「菓子を食べた」

「私のは?」

「厨房に残してある」

「ならいい」


 エレナ様は先に屋敷へ戻っていった。マルタもそのあとを追いかける前に、私の外套についた白い花びらを取った。


「楽しまれましたか?」

「ええ」

「それは何よりです」


 マルタは花びらを掌へ載せ、息で庭の方へ飛ばした。


「次のお休みも、空けておきますか?」

「まだ誘われていないわ」

「では、ご自分からお誘いになっては?」


 そう言い残し、エレナ様を追って玄関へ入っていく。フィリップ様は少し離れたところで、執事と話していた。

 呼び止めれば、まだ間に合う。けれど次の休日まで、時間はある。

 私は先に屋敷へ入り、玄関の予定表を見た。

 次の休日の欄には、まだ何も書かれていなかった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。