第33話 契約にありません
林檎の焼き菓子を作った日から、フィリップ様と話す時間が増えた。
といっても、領地やエレナ様について相談されるわけではない。
夕食後に読んでいる本を尋ねられたり、庭の花が咲いたと教えられたりする。私が図書室で古い旅行記を見つけたと話せば、翌日には自分が昔訪れた町のことを話してくれた。
どれも、返事をしなくても誰かが困る話ではなかった。
そのことに気づくまで、数日かかった。
「ヴェロニカ様」
午後の授業を終えて部屋へ戻ると、マルタが衣装箱を開けていた。
冬物を奥へ移し、春のドレスを取り出している。寝台の上には、淡い緑と灰色の二着が並んでいた。
「次のお休みは、何かご予定がございますか?」
「実家へ手紙を書くくらいね」
「外出は?」
「今のところはないわ」
マルタは緑のドレスを持ち上げ、袖口を確かめた。冬の間に畳んでいたため、布の一部に折り目が残っている。
「男爵様からも、同じことを聞かれましたよ」
「私の予定を?」
「はい」
何か急ぎの仕事だろうか。
授業の休みを動かす必要があるなら、先に内容を聞いた方がよい。そう考えて机の予定帳へ手を伸ばすと、マルタが緑のドレスをその上へ置いた。
「お仕事ではないそうです」
「では、エレナ様のお出かけ?」
「それも違うと伺いました」
マルタは袖の折り目を指で伸ばした。
「ご本人から、お話があると思います」
「何の話か聞かなかったの?」
「ヴェロニカ様へ直接申し上げることです、と」
ずいぶん慎重な言い方である。
マルタは灰色のドレスを箱へ戻し、緑の方だけを椅子へ掛けた。
「次のお休みには、こちらがよろしいと思います」
「どこへ行くのかも分からないのに?」
「遠出ではないそうです」
「それは聞いたのね」
「歩きにくい場所かどうかは、大切ですから」
それ以上は教えるつもりがないらしい。
*
翌日の夕食後、フィリップ様から庭へ誘われた。
日が長くなり、食事を終えても空には明るさが残っている。庭の端では植木を整えていた庭師たちが道具を片づけ、鳥が生垣の間を飛び交っていた。
「次の休日ですが……」
フィリップ様は、噴水の前で足を止めた。
「ご予定がなければ、東の丘までご一緒いただけませんか?」
「東の丘?」
ローデン領の地図を思い出す。
屋敷から近い場所には放牧地があり、その先には古い果樹園があったはずだ。春になって道が傷んでいないか、確認する必要があるのだろうか。
「牧草地の視察ですか?」
「違います」
「果樹園について、何かご相談が?」
フィリップ様は噴水の縁へ片手を置いた。
水面には、夕方の空と庭木が映っている。風が吹くたびに小さく揺れ、二人の姿も形を変えた。
「仕事の相談はありません」
「では、何をしに?」
「景色を見に行きます」
それだけでは、まだ分からなかった。
私が次の言葉を待っていると、フィリップ様は噴水から手を離し、こちらへ向き直った。
「あなたと二人で出かけたいのです」
「私と?」
「はい」
庭師が遠くで一礼し、裏口の方へ戻っていく。人の気配がなくなると、噴水から落ちる水の音だけが近くなった。
「エレナ様は?」
「マルタさんと家政婦長が、昼まで見てくれます」
「それは、先に頼んだのですか?」
「いいえ。まずマルタさんに、あなたの休日を聞きました」
それで先ほどの話になったらしい。
フィリップ様は上着のポケットから、小さく折った紙を取り出した。
「東の丘までの道を書きました。往復して、昼前には戻れます」
「詳しいのですね」
「誘ってから道が悪いと分かるのは困るので、昨日歩いてきました」
紙には道順のほか、ぬかるんでいる場所まで印がついていた。
私が公証人へ会いに行く前、何度も契約書や証明書を確かめたことを思い出す。フィリップ様も、気になることがあると先に調べる人らしい。
「これは、お仕事ではないのですね」
「ええ」
「エレナ様のためでもない」
「私がお願いしています」
返事の前に、もう一つ確かめておきたかった。
「何か、私へお話ししたいことがあるのでしょうか」
「特別な相談はありません」
「では、本当に景色を見るだけ?」
「それでは、いけませんか」
フィリップ様が持っていた紙の角を、指先で押さえた。
仕事なら、目的が必要になる。どこへ行き、誰に会い、何を決めるか。それが分からなければ、準備もできない。
けれど休日に誰かと出かけるために、解決すべき問題がなくてもよい。
「契約にはありませんね」
「ありません」
フィリップ様は、すぐに答えた。
「ですから、お断りになっても、授業にも給金にも何も影響しません。次の日からも、今までどおりです」
「では、私も自分で決めてよいのですね」
「もちろんです」
手元の紙を受け取る。東の丘までの道は、地図で見るより近い。古い果樹園を抜けた先に、領地を見渡せる場所があるらしい。
「ご一緒します」
「よろしいのですか?」
「私も行きたいと思いました」
フィリップ様の指から、紙の端が離れた。
「ありがとうございます」
「ただし、歩く速さは私に合わせてください」
「気をつけます」
彼は以前、エレナ様と庭を歩いた時にも、途中から先へ行きすぎていた。
「それから、仕事の話を始めたら止めてください」
「私が?」
「私は、畑を見ると収穫量を考えてしまいます」
「では、お互いに止めましょう。私も柵の傷みを見つけると、庭師を呼びたくなります」
どちらが先に仕事を始めるか、少し怪しい。
*
休日の朝、マルタは緑のドレスを用意していた。
華やかな服ではないが、裾に細い葉の刺繍が入り、春の外出にはよく合う。歩くための靴と薄手の外套も、椅子の横へそろえてあった。
「やはり、知っていたのね」
「東の丘へ行かれることだけは」
「どうして昨日のうちに言わなかったの?」
「男爵様が、ご自分でお誘いになるべきでしょう」
髪をまとめながら、マルタは鏡越しにこちらを見た。
「初めに伺った時には、『休日に東の丘を見ていただきたい』とおっしゃいました」
「それでは視察に聞こえるわ」
「私も、そう申し上げました」
マルタは髪へ留め具を差し、左右の高さを確かめた。
「ヴェロニカ様は、曖昧に頼まれると仕事だと受け取ります、と」
「余計なことを」
「間違っておりますか?」
「……間違ってはいないわ」
以前の私なら、休日であっても地図と帳面を持って出ただろう。
「それで、男爵様は?」
「言い直す、とおっしゃいました」
「ずいぶん素直ね」
「お二人とも、似ておられますよ」
留め具の位置が決まると、マルタは鏡の前から離れた。
「どこが?」
「ご自分では、きちんと説明しているおつもりのところが」
反論しようとしたが、出かける時刻になっていた。
玄関では、フィリップ様が先に待っていた。
濃い茶色の上着に、歩きやすい革靴を履いている。手には杖も地図もなく、持っているのは小さな革の水筒だけだった。
「お待たせしました」
「いいえ。私が早く来すぎました」
「何分ほど?」
「十五分です」
「早すぎますね」
マルタの言うとおり、私たちには似ているところがあるのかもしれない。
*
東の丘へ続く道は、屋敷の裏門から始まっていた。
冬の間は雪で閉ざされていたが、今は道の両側に若い草が生え、小さな白い花が点々と咲いている。
初めのうち、私たちはエレナ様の授業について話していた。
最近は地理の問題が増えたこと。文章を書く時、以前より理由を長く説明するようになったこと。算術では、答えだけでなく途中の計算も残すようになったこと。
果樹園へ入る前で、フィリップ様が立ち止まった。
「仕事の話になっています」
「本当ですね」
「止める約束でした」
「では、ここからは禁止にしましょう」
道の脇に立つ杭へ、古い縄が結ばれていた。
私は柵の傷みを見つけかけ、意識して反対側を見る。果樹園には白い花が咲き、枝の間を蜜蜂が飛んでいた。
「何の木ですか?」
「梨です」
「収穫は――」
口に出しかけて止めた。フィリップ様が笑う。
「今、仕事へ戻りかけましたね」
「梨を見ると、去年の収穫量が気になります」
「私は、あの枝を切るべきか考えました」
「お互いさまですね」
果樹園を抜けると、道は緩やかな上りになった。
フィリップ様は最初、私より半歩ほど前を歩いていた。しばらくするとこちらの速度に気づき、並ぶ位置まで戻ってくる。
「以前も、歩くのが速いと言われました」
「どなたに?」
「妻にです。エレナにも、何度か」
道の端には昨夜の雨が残り、土の色が濃くなっている。フィリップ様は水たまりの手前で止まり、乾いた側を示した。
「奥様とは、よく歩かれたのですか?」
「春には時々。妻は果樹園の花が好きでした」
「では、この道も」
「一緒に来たことがあります」
亡くなった妻との場所へ、私を連れてきた。けれど、その記憶を隠すつもりはないらしい。
「私でよかったのでしょうか」
「あなたと来たかったのです」
答えは短かった。
フィリップ様は先へ進み、水たまりを越えたところでこちらを待った。
私は裾を少し持ち上げ、乾いた石の上へ足を置く。差し出された手を借りるほどの幅ではなかったが、彼はすぐ近くに立っていた。
丘の上には、古い石造りの四阿があった。
屋根の一部には蔦が絡み、柱の間から領地を見渡せる。遠くに村の屋根があり、その向こうには春の川が光っていた。
「きれいですね」
「晴れてよかった」
四阿の中には木の長椅子が置かれている。
フィリップ様は水筒を開き、二つの小さな杯へ果実水を注いだ。さらに上着の内側から、布に包んだ焼き菓子を出す。
「用意がよいですね」
「家政婦長が持たせてくれました」
「ご自分で用意なさったのでは?」
「水筒だけです」
正直に答え、片方の杯を私へ渡す。
焼き菓子は、厨房で朝のうちに作ったものらしい。薄い生地の中に木の実が入り、まだ少し温かさが残っていた。
「こうして、用事もなく誰かと出かけるのは久しぶりです」
フィリップ様は長椅子の端へ座った。
「……私は、結婚している間もほとんどありませんでした」
「ご夫君とは?」
「出かける時には、いつも何か予定がありました」
夜会、訪問、領内の視察。
二人だけで出かけること自体が、なかったわけではない。だが馬車の中でも、次に会う相手や帰宅後の仕事を考えていた。
「では今日は、何も決めなくてよい日にしましょう」
「丘へ来ることは決めましたよ」
「もう着きました。残りは自由です」
果実水を飲み、遠くの川を見る。
風が果樹園を抜け、梨の花びらを丘まで運んできた。一枚が長椅子の背へ落ち、すぐ地面へ飛ばされていく。
「最近、食事のあとにお話しくださることが増えましたね」
「気づいておられましたか」
「数日前に」
フィリップ様は杯を両手で持った。
「初めは、何を話せばよいのか分かりませんでした」
「用事がないから?」
「ええ。仕事なら話すことはいくらでもあります」
それはよく分かる。
「でも、あなたと話したかった」
「それで、本の話を?」
「図書室でお見かけしたので」
最初の一回は偶然だったらしい。
「次の日の庭の花は?」
「前の日に、あなたが窓から見ていたので」
「旅行記の町は?」
「私が話せるものを探しました」
一つずつ、理由があった。
理由を作り、それを確かめてから声をかける。私が契約書や予定表を用意するのと、たしかによく似ていた。
「そのまま話しかけてくださっても構いませんよ」
「何もなくても?」
「ええ」
返事をしてから、自分にも同じことが当てはまると気づいた。
「私も、お話ししたい時には伺ってよいでしょうか」
「ぜひ」
フィリップ様の杯が、膝の上から少し持ち上がった。
「ただし、仕事の書類は持たずに」
「難しい注文ですね」
「私も地図を持たないようにします」
二人ともそう言ったが、自信はなかった。
それでも帰り道では、領地の話を一度もしなかった。
フィリップ様が子供の頃、果樹園で梨を盗み食いして腹を壊したこと。エレナ様が三歳の時、同じことをして、父親だけが叱られたこと。
私は実家の姉と、熟していない木苺を競って食べ、二人とも夕食を残した話をした。
*
屋敷の屋根が見える頃には、昼を知らせる鐘が鳴り始めていた。
玄関前にはエレナ様とマルタが待っていた。
「遅くない」
「ええ。約束どおりです」
「何を見た?」
エレナ様は、私と父親の手元を確かめた。
「梨の花です」
「ほかは?」
「丘から村を見ました」
それだけでは足りないらしく、今度は父親を見る。
フィリップ様は少し考えてから答えた。
「菓子を食べた」
「私のは?」
「厨房に残してある」
「ならいい」
エレナ様は先に屋敷へ戻っていった。マルタもそのあとを追いかける前に、私の外套についた白い花びらを取った。
「楽しまれましたか?」
「ええ」
「それは何よりです」
マルタは花びらを掌へ載せ、息で庭の方へ飛ばした。
「次のお休みも、空けておきますか?」
「まだ誘われていないわ」
「では、ご自分からお誘いになっては?」
そう言い残し、エレナ様を追って玄関へ入っていく。フィリップ様は少し離れたところで、執事と話していた。
呼び止めれば、まだ間に合う。けれど次の休日まで、時間はある。
私は先に屋敷へ入り、玄関の予定表を見た。
次の休日の欄には、まだ何も書かれていなかった。




