第32話 お母様の好きだった菓子
その日は朝から、屋敷の中に林檎の匂いがしていた。
厨房の近くを通ると、煮た果物の甘さに、焼いた砂糖と香辛料の香りが混じっている。
朝食にはまだ早い時刻だったが、料理長はすでにかまどの前へ立ち、長い柄の匙で鍋をかき回していた。
食堂へ入ると、エレナ様の席には教本がなかった。
「今日は授業なし?」
「午前だけ、お休みにしましょう」
「父上とお菓子を作るから」
エレナ様は朝食用のパンをちぎりながら、厨房の方を見た。濃い青のリボンで髪を結び、服の上には、すでに小さな前掛けをつけている。
フィリップ様は隣で茶を飲んでいたが、今日は新聞を開いていなかった。
「……今日は妻の命日です」
静かな言葉だった。
「生前、妻は林檎の焼き菓子をよく作りました。亡くなった次の年から、私とエレナで同じものを作っています」
「そうでしたか」
私は皿の横へナプキンを置いた。
「では、今日は授業室を使いません。午後の授業についても、明日へ回して構いませんよ」
「午後は、いつもどおりでよい」
「無理をしなくてもよいのですよ」
エレナ様は首を横へ振り、パンへ林檎のジャムを塗った。匙を動かす手つきが、いつもより丁寧だった。
「お菓子は昼までにできる」
「では、午後から授業をしましょう」
「うん」
話が決まると、エレナ様はジャムの瓶をフィリップ様へ渡した。
私は朝食後、図書室で午後の準備をするつもりだった。家族だけで過ごす日なら、食事の時間も少しずらした方がよいかもしれない。
*
部屋へ戻り、机の上の本をまとめていると、扉が二度叩かれた。
「ヴェロニカ様、少しよろしいですか」
入ってきたマルタは、腕に白い布を何枚も掛けていた。エレナ様と厨房へ入るため、本人も仕事用の前掛けをつけている。
「ええ。何かあった?」
「午後まで、お部屋にいらっしゃいますか」
「午前は図書室へ行こうと思っているわ」
読みかけの本を鞄へ入れると、マルタは扉の脇へ布を置いた。
「昼食は、どちらで?」
「今日は家族で過ごす日でしょう。私の分は部屋へ運んでもらおうかと」
「……誰かに、そう頼まれましたか?」
鞄の留め具へ伸ばした指が止まった。
「頼まれてはいないけれど、邪魔をするわけにはいかないでしょう?」
「では、エレナ様に尋ねてからお決めください」
「わざわざ聞けば、あの子は断りにくくなるわ」
マルタは白い布の中から、子供用の前掛けを一枚取り出した。林檎の果汁らしい染みが、裾にいくつも残っている。
「エレナ様は朝から、ヴェロニカ様が林檎を召し上がるか、三度お尋ねになりましたよ?」
「あなたに?」
「料理長と家政婦長にもです」
布を畳み直し、マルタは私の机へ目を向けた。午後の授業に使う地図と、読みかけの本が別々に積んである。
「ヴェロニカ様は、ご自分が下がれば皆が困らないと考えてますね?」
「今日は、そういう話では……」
「以前も、最初は小さなことからでした」
穏やかな口調だったが、こちらを見る目は昔から変わらない。私が何かを決めてしまったあとでは、簡単に引き下がらない。
「エレナ様の気持ちは、エレナ様に決めていただいてください」
「……分かったわ」
「では、私は厨房へ戻ります」
マルタは一礼したあと、白い布を抱え直した。そして扉を開く直前、こちらを振り返る。
「林檎は、お好きですね?」
「ええ」
「それだけ伺えれば結構です」
廊下へ出ると、布の端を揺らしながら厨房の方へ歩いていった。
*
午前の半ばに、エレナ様が図書室へ来た。
両手に粉がつき、青いリボンの端にも白いものが飛んでいる。後ろにはマルタが立ち、床へ粉を落とさないよう布を持っていた。
「先生、林檎は好き?」
「好きですよ」
「お菓子も?」
「ええ」
エレナ様は手の粉を前掛けで拭こうとした。マルタがすぐに布を差し出し、指の間まで拭かせる。
「今、作ってる」
「よい匂いがしていました」
「先生も来る?」
その問いが出るまで、マルタは何も言わなかった。私は開いていた本へ栞を挟む。
「ご一緒してもよいのですか?」
「うん。食べるだけでもいい」
「では、お手伝いしましょう」
エレナ様はすぐ廊下へ出た。歩くたびに、前掛けの裾から粉が少しずつ落ちる。
マルタは私の隣へ来ると、小さな声で言った。
「ご本人が決めました」
「ええ」
「ヴェロニカ様も、ご自分でお決めになりましたね」
「……それくらいはできるわ」
答えると、マルタは何も言わずに布で床の粉を拭いた。
*
厨房では、フィリップ様が生地を伸ばしていた。
上着を脱ぎ、シャツの袖を肘まで上げている。長い麺棒を両手で押しているが、生地の中央だけが薄くなり、端は指ほどの厚さが残っていた。
「父上、また真ん中だけ」
「端まで伸ばしている」
「こっちは厚い」
エレナ様が指で生地の端を押すと、へこみがそのまま残る。フィリップ様は麺棒を持ち上げ、左右を見比べた。
「去年よりはよい」
「去年は破れた」
「破れたところへ、別の生地を載せた」
「二枚になった」
調理台の隅では、料理長が口を挟まないよう忙しそうに鍋を磨いていた。肩が少し震えている。
「サデライン先生も、作られますか?」
フィリップ様は空いている麺棒を指した。
「毎年お二人で作っておられるなら、私は林檎を切りましょう」
「それでは助かります」
「先生、薄くして」
エレナ様から小さな包丁を渡された。
煮た林檎は、すでに大きな鉢へ移されている。柔らかくなった実を木の匙で分け、厚さの違うものだけ包丁でそろえていく。
隣ではフィリップ様が、端の厚い生地を何度も伸ばしていた。
力を入れすぎたらしく、今度は端が調理台へ貼りつく。
「父上、取れない」
「粉を足せばよい」
「最初に言われた」
エレナ様は粉の壺を取り、指先で生地の下へ振り入れた。
フィリップ様が端を持ち上げると、生地の一部が長く伸び、少しだけ裂けた。
「破れた」
「小さい」
「去年と同じ」
私は林檎を切りながら、顔を下へ向けた。
声を出せば二人に聞こえる。それでも口元が緩み、包丁を動かす手が少し遅くなった。
「笑っておられますね」
フィリップ様に見つかった。
「申し訳ありません」
「今日、二度目です」
「一度目はいつですか?」
「雪の橋です」
言われて、庭の溝へ片足を落とした姿を思い出した。
「今回は、生地が破れただけですよ」
「橋よりは被害が少ない」
「父上、まだ焼いてない」
エレナ様は裂けた場所へ小さな生地を載せる。去年と同じ二枚重ねになったが、フィリップ様は何も言わず、指で縁を押さえた。
マルタは焼き型へ薄く油を塗り、エレナ様の手が届く場所へ並べた。以前からこの屋敷で働いていたように、料理長と道具を受け渡している。
「ヴェロニカ様、こちらの林檎を一つ残してください」
「飾り用?」
「奥様へお供えする分でございます」
厨房の窓辺には、小さな皿が用意されていた。
フィリップ様が伸ばした生地から一番形のよい部分を切り、エレナ様が林檎を載せる。周りを折り込むと、掌ほどの小さな菓子ができた。
「これは、お母様の分」
「一番先に焼くのですか?」
「最後。焦げないように見るから」
エレナ様は小さな型を、自分の前へ大事そうに置いた。
残りの生地は、大きな一つの菓子にする。中央が薄く、縁は場所によって高さが違う。林檎も均等には並んでいない。それでも焼き上がる頃には、厨房いっぱいに甘い匂いが広がった。
料理長がかまどから鉄板を出す。
縁の一部は濃く焼け、反対側は淡い色のままだった。
「できた!」
「今年は破れていない」
「裏は?」
エレナ様が覗こうとすると、料理長が熱い鉄板を高く持ち上げた。
「冷めてからでございます、お嬢様」
「裏も焼けてる?」
「焼けておりますとも」
小さな菓子も、隣で形を崩さずに焼けていた。
*
午後の茶は、小広間で用意された。
暖炉脇の棚には、若い女性の肖像画が飾られている。淡い色の服を着て、椅子へ座った女性の膝に、幼いエレナ様が抱かれていた。
肖像画の前へ、小さな林檎菓子が置かれる。
エレナ様は皿の向きを何度か直し、林檎が多く見える方を絵へ向けた。
「お母様は、甘いものが好きだった」
「よく作っておられたのですか?」
「いっぱい作ったって、父上が言った」
フィリップ様は大きな菓子を切り分けていた。
「一度に作りすぎて、屋敷中へ配っていました。私が食べ切れないと言っても、次の日には別のものを焼いていた」
「父上は太った?」
「少しだけだ」
エレナ様は切り分けられた菓子の大きさを見比べ、一番大きな皿を自分の前へ引く。マルタが温かい茶を配る。自分の仕事を終えると、扉の近くへ下がろうとした。
「マルタも食べる?」
エレナ様が声をかける。
「後ほど、使用人の食堂でいただきます」
「料理長が、たくさんあるって言ってた」
「ええ。そちらを楽しみにしております」
マルタは私と目が合うと、ほんの少し顎を引いた。
私は今、エレナ様から直接、この席へ呼ばれていた。菓子を一口食べる。縁は少し硬かったが、中の林檎には香辛料がよく合っていた。
「おいしいです」
「本当?」
「ええ。林檎がたくさん入っています」
エレナ様は満足して、自分の皿から大きな一口を切った。しばらくして、肖像画へ目を向ける。
「先生」
「はい」
「新しいお母様が来たら、この絵は外すの?」
フィリップ様の持っていた菓子切りが、皿の縁へ当たった。小さな音がして、刃先が止まる。
「どうして、そう思ったのですか?」
「前に、友達の家で外したって聞いた」
「そのお家では、そう決めたのですね」
エレナ様は肖像画を見たまま、次の言葉を待っている。
「この絵は、エレナ様のお母様の絵です。エレナ様が置いてほしいなら、ここにあってよいと思います」
「新しいお母様が嫌だって言ったら?」
「二人で話してください」
茶器の蓋が少しずれた。マルタが音を立てないよう、指先で元へ戻す。
「家族が増えても、前のお母様がいなくなるわけではありません。好きだった菓子も、誕生日も、覚えていてよいのですよ」
「新しいことも?」
「ええ。新しい思い出は、別に増やせます。棚のように」
エレナ様は棚の肖像画と、卓の上の菓子を交互に見た。
「同じ棚?」
「置けるなら」
「いっぱいになったら?」
「棚を増やしましょう」
エレナ様はそれで納得したらしく、残っていた菓子を口へ運んだ。
フィリップ様は菓子切りを皿へ置いた。先ほどから、自分の分にはほとんど手をつけていない。
「先生も、来年作る?」
「招いてくださるなら」
「じゃあ、来年も来て」
エレナ様が言うと、フィリップ様もこちらを見た。
「私からもお願いします」
「来年の命日にも、ですか?」
「はい。あなたがよろしければ」
教師として手伝ってほしい、という言い方ではなかった。
「では、来年も林檎を切ります」
「生地もお願いします」
「それは、お二人の役目でしょう」
フィリップ様は少し笑い、自分の皿の菓子を切った。
*
夕方、自室へ戻ると、マルタが朝の前掛けを畳んでいた。
林檎の汁がついたものは洗濯へ回し、きれいな布だけを棚へ戻している。
「楽しかったですか?」
前掛けの端をそろえながら尋ねられた。
「ええ」
「男爵様は、来年もと?」
「エレナ様とお二人でね」
マルタは畳んだ布を棚へ置き、次の一枚を広げた。
「お嬢様が先におっしゃいました」
「そうよ」
「男爵様は、ご自分の言葉で重ねられました」
私は机の上へ午後の教本を置いた。
「同じことを確認なさっただけでしょう」
「仕事の確認なら、契約書へ書かれる方です」
「命日の菓子まで契約へ加えませんよ」
「ええ。ですから、お仕事ではございません」
マルタは前掛けを小さく畳み、棚の一番下へ収めた。
「ヴェロニカ様も、そのつもりでお返事なさってください」
「……来年、林檎を切ると答えただけよ」
「本日は、それで結構です」
棚の扉が閉じる。私の服を片づけていた頃とは違い、マルタは自分の仕事へ戻るため、すぐ扉へ向かった。
「明日は朝から授業でございますね」
「ええ」
「エレナ様は、焼き菓子の作り方を授業にすると張り切っておられました」
「算術でしょうか」
「分量を二倍にする問題を作るそうです」
今度は私が、明日の授業を考える番だった。
マルタが出ていったあとも、部屋には薄く林檎の香りが残っていた。




