第31話 春になっても
庭の雪が消えた。
エレナ様と作った橋は、ずいぶん前に崩れた。中に入れた板は庭師が倉へ戻し、今では溝の両側に、少し黒ずんだ雪が残っているだけだ。
「先生、橋なくなった」
「雪で作りましたから」
「板はあるよ」
エレナ様は窓から庭を見下ろし、溝のあった場所を指した。今日は朝から雨が降り、細い水が庭の端へ向かって流れている。
「では、板を渡せばまた橋になりますね」
「雪の橋じゃない」
「春の橋にしましょう」
「春は、何で作るの?」
窓硝子を伝った雨粒が、二つに分かれた。
「まず、庭師に尋ねましょう。勝手に板を持ち出すと困ります」
「父上にも?」
「庭の持ち主は、男爵様ですから」
「でも、作るのは庭師」
そこまで考えてから、エレナ様は授業用の帳面を開いた。
今日の課題は、雪解けで増えた川の水を、どの畑へ先に引くかだった。冬の道と同じく、人手も水も足りない。すべてを同時には行えない。
エレナ様が最初の札を地図へ置いたところで、授業室の扉が叩かれた。
「失礼いたします」
入ってきた執事は、銀盆に一通の封書を載せていた。
「先生宛てに、モラン公証事務所から届いております」
「ありがとうございます」
灰色の封蝋には、公証事務所の印が押されている。
エレナ様は地図から顔を上げた。
「手紙?」
「仕事に関する書類でしょう」
「今、読む?」
急ぎの場合は、封の表へその旨が記されている。今回は何もなかった。
「授業が終わってからにします」
「大事じゃないの?」
「大事なものほど、落ち着いて読むのですよ」
封書を机の端へ置くと、エレナ様は何度かそちらを見た。けれど、次の札を持つ頃には、また水路の方へ関心が戻っていた。
*
午前の授業を終え、エレナ様がマルタと昼食へ向かってから、私は封を切った。
中にはモラン公証人からの書状と、婚姻裁定所の印が入った証明書が一枚あった。
離縁が正式に認められた。
本日をもって、私はランフォード伯爵家の籍を離れる。持参金と私物の返還手続きも終わり、これ以降、ランフォード家の負債や契約に対する責任を負うことはない。
そして名前は、実家のものへ戻る。
――ヴェロニカ・サデライン。
証明書の下には、モラン公証人の短い手紙が添えられていた。
――ローデン男爵家へは、こちらからも通知します。
――雇用契約の名義変更が必要です。
――内容と期間は、双方の希望がない限り変更されません。
最後の一文を確かめ、書類をそろえた。
三年間書き続けた姓が、今日からなくなる。
ランフォードの名で作った契約書、署名した支出、出した手紙は、そのまま残る。それらを書いた時の私まで消えるわけではない。
けれど次に自分の名を書く時は、サデラインになる。
指で証明書の端を押さえていると、廊下から足音が近づいた。今度はマルタが、昼食の時間を知らせに来た。
「奥様、そろそろ――」
机の上の封蝋を見つけ、言葉が止まる。
「決まったのですか!」
「ええ。今日からサデラインよ」
「では、もう……」
マルタは室内へ入り、証明書を読む。途中で一度鼻をすすり、最後まで読み終えてから、元の位置へ戻した。
「おめでとうございます、ヴェロニカ様」
「ありがとう」
「ご実家へも知らせが?」
「同じものが届いているはずよ」
マルタは袖口で目元を押さえた。
「泣くことではないでしょう」
「嬉しいのでございます」
「なら、昼食の前に顔を直してちょうだい。エレナ様に心配されますよ」
鏡を見ると言って、マルタは急いで部屋を出ていった。
*
午後、私はフィリップ様の書斎へ呼ばれた。
机の上には、新しい契約書が二通置かれている。紙も書式も、最初に署名したものと同じだった。
「正式な通知を受け取りました」
「私のところへも届きました」
「では、まずこちらをご確認ください」
フィリップ様は一通を私の前へ向ける。変わっているのは名前だけだった。
授業時間、休日、給金、衣装代、休暇。辞職する場合は三か月前に伝えること。雇用主側から契約を終える場合にも、同じ期間を置く。
どの項目も、以前と同じ場所にある。
「期間も変更しておりません」
「はい」
「名前を書き替えるための再契約です。ほかに加えたい条件はありますか」
最初にここへ来た日と、同じ尋ね方だった。
私は契約書をもう一度読み、頁を戻した。
「ございません」
「私からもありません」
「では、こちらへ署名を」
フィリップ様からペンを受け取る。
――ヴェロニカ・サデライン。
久しぶりに書く姓は、一文字目の幅を少し取りすぎた。それでも書き直さず、最後まで続ける。
フィリップ様も隣へ署名し、二通の契約書を重ねた。
「一通は貴女のもとへ。もう一通はこちらで保管します」
「ありがとうございます」
「呼び方も、変えた方がよいでしょうか」
これまで屋敷の者は、私を先生と呼ぶ者もいれば、ランフォード夫人と呼ぶ者もいた。
「ヴェロニカでもサデラインでも、どちらをつけた先生であれば構いません。もう、夫人ではなくなりましたから」
「家政婦長へ伝えます」
「お願いいたします」
契約書を受け取り、書斎を出ようとしたところで、扉の外に影が動いた。
エレナ様が立っていた。
「父上、終わった?」
「ああ」
「新しい契約?」
私の手元へ目を向ける。
「私の名前が変わりましたので、作り直したのです」
「前のは終わった?」
「古い名前の契約は終わりました」
答えると、エレナ様は眉を寄せた。
「じゃあ、先生もどこかへ行くの?」
「行きませんよ」
「名前が変わったから?」
最初の教師は結婚を理由に、次の日から来なくなった。その時も、名前と契約が一度に変わったのだろう。
私は契約書を持ったまま、廊下の長椅子へ座った。エレナ様にも隣を空ける。
「私の名前は、今日からヴェロニカ・サデラインになりました」
「先生じゃなくなる?」
「先生は続けます」
エレナ様は座らず、こちらの前に立っている。
「いつまで?」
「今の契約が終わるまでです」
「終わったら?」
その問いは、最初に会った時にも聞かれた。
あの時は、お互いに続けたいと思えば新しい契約を結ぶ、と答えた。まだ働いてもいない家で、それ以上の約束はできなかった。
今は、答えられる。
「私は、次の契約もお願いしたいと思っています」
「いつまで?」
「少なくとも、来年の春まではここにおります」
エレナ様は、私の手にある契約書を見た。
「書いてある?」
「今の契約には、春までと書いてあります」
「そのあとも?」
廊下の窓から、雨に濡れた庭が見えた。雪の橋を作った溝には水が流れ、土の間から細い草が出始めている。
「来年の春になったら、次の契約を結びましょう」
「今、決めていいの?」
「男爵様が雇ってくださるなら」
「父上ー!」
エレナ様が書斎へ振り返る。フィリップ様は扉のところに立ち、こちらの話を聞いていた。
「私は、ぜひお願いしたいと思っています」
「じゃあ、決まり」
「契約は、まだ先だ」
「忘れるかもしれない」
エレナ様は書斎へ入り、フィリップ様の机から小さな予定帳を持ってきた。
春の頁を開き、空いている欄へ書く。
――先生の次の契約。
「これで忘れない」
「ずいぶん先の予定だな」
「父上は、青も忘れた」
冬の市で、好きな色を忘れていたことを指しているらしい。
フィリップ様は反論せず、予定帳の日付を確かめた。
「では、来年の春に三人で話しましょう」
「三人?」
「お前の教師だからな」
最初の契約を決めた日と同じ言葉だった。
エレナ様は予定帳を閉じ、ようやくこちらへ向き直った。
「先生」
「はい」
「サデライン先生?」
「ヴェロニカ先生でも、どちちでもよいですよ」
少し考えてから、エレナ様はうなずいた。
「じゃあ、ヴェロニカ先生」
「ええ」
今度は、名前が変わっても何もなくならなかった。
*
夕食の席には、いつもより料理が一品多く並んでいた。
鶏肉を香草と一緒に焼いたものと、春先の豆を煮たスープ。その横には、普段は出さない葡萄酒の瓶も置かれている。
「今日は何かあるの?」
エレナ様が瓶を見る。
「サデライン先生の離縁が成立した」
「じゃ、先生が、来年もいるお祝い」
「それも含めよう」
フィリップ様は給仕へ、私の杯にも葡萄酒を注ぐよう頼んだ。
「契約はまだなのでは?」
「先に祝っても問題はないでしょう」
「一年以上近く早いですよ」
杯へ赤い酒が注がれる。
エレナ様の前には葡萄の果汁が置かれた。三人で杯を持ち上げると、彼女だけが先に言った。
「春になっても、先生がいますように」
「おりますよ」
「次の春も」
「はい」
エレナ様は満足して、果汁を一口飲んだ。
窓の外では、細い雨がまだ降っていた。雪のなくなった庭に、春の水が流れていた。




