第30話 先生の休日
雪の橋を作った翌週、次の休日が回ってきた。
朝食へ下りると、エレナ様はすでに外出着を着ていた。濃い青の外套には白い毛皮の襟がつき、足元も室内履きではなく長靴である。
「先生、今日は休み?」
「ええ」
「町へ行く?」
私は自分の席へ座り、給仕から茶を受け取った。
休日にすることは前夜のうちに決めてある。実家へ手紙を書き、読みかけの本を進め、午後にはマルタと衣装の繕い物を見る予定だった。
「エレナ様は、町へお出かけですか?」
「父上と。冬の市を見る」
「それは楽しそうですね」
パンへバターを塗っていると、向かいのフィリップ様が新聞を畳んだ。今日は彼も領内へ出る予定らしく、普段より厚い上着を着ている。
「ランフォード夫人も、ご一緒しませんか」
「私がですか?」
「今日は勤務日ではありません。娘の付き添いを頼んでいるのではなく、エレナと私からのお誘いです」
最後だけ、少し言い直すような間があった。
エレナ様はすでに来るものと決めていたらしく、果物を食べながらこちらを見ている。断れば、どうして、と聞かれるだろう。
けれど、そう考えたところで、フィリップ様の言葉を思い出した。
仕事ではない。誘われたのだ。
「では、ご一緒いたします」
「本当?」
「ええ。支度をしてまいります」
エレナ様はすぐに果物の残りを口へ運んだ。早く食べ終われば、早く出られると思ったらしい。
「慌てて飲み込まないように」
「急いでない」
「先ほどから、三つずつ食べていますよ」
「小さいから」
木苺を三つまとめて匙へ載せる。口へ入れる直前、フィリップ様が皿を自分の方へ少し引いた。
「一つずつ食べなさい」
「町が終わる」
「昼まで開いている」
「でも、早い方が長く見られる」
フィリップ様は返事に困り、私を見る。助けを求められているのだろうか。
「市へ着くまでにも時間がかかります。馬車の中で気分が悪くなると、もっと見る時間が減りますよ」
「……一つずつにする」
匙から二つが皿へ戻った。
フィリップ様が小さく息をつく。
「ありがとうございます」
「今日は勤務日ではありませんよ」
「そうでした」
礼を言うことまで仕事に含められたわけではないが、訂正せずにおいた。
*
町へ着く頃には、朝の曇り空が明るくなっていた。
大通りの両側には天幕が並び、干した果物、毛糸、木工品、冬用の靴などが売られている。焼いた栗の匂いに、菓子へ使う香辛料の甘い香りが混じっていた。
雪は道の端へ寄せられている。人が多いため、エレナ様はフィリップ様と手をつないで歩いた。反対側にはマルタがつき、私はその隣へ並ぶ。
「最初はどこへ行く?」
「手袋を買う」
「私のはある」
エレナ様がつないだ手を持ち上げる。赤い毛糸の手袋は、先月マルタが繕ったばかりだ。
「今のものは雪遊び用だ。外出用を一組、用意する」
「同じでいい」
「同じ色があるとは限らない」
父娘が立ち止まった横で、店主が色とりどりの手袋を台へ並べている。
フィリップ様は黒と茶色のものを二つ手に取った。どちらも丈夫そうだが、九歳の少女が喜ぶ色には見えない。
「エレナ、どちらがよい?」
「どっちも嫌」
「では、何色がいい?」
「青」
目の前に青い手袋がある。フィリップ様はようやくそれに気づき、少し気まずそうに店主から受け取った。
エレナ様の手へ合わせると、大きさもちょうどよかった。手首のところには小さな白い花が編み込まれている。
「これならよいか?」
「うん」
「最初から、それを選べばよかったのでは?」
「父上が聞かなかった」
店主が笑いを堪え、品物を包み始めた。
フィリップ様は代金を払いながら、私へ顔を寄せる。
「娘の物を選ぶ時は、先に本人へ聞くべきでした」
「今まで、どうなさっていたのです?」
「乳母か家政婦長に任せていました」
「では今日から、ご自分でも覚えられますね」
包みを受け取った彼は、店を離れてからエレナ様の外套を見た。
「青が好きなのか?」
「この前も言った」
「いつだ?」
「春」
半年以上前らしい。
フィリップ様は真剣に考え始めたが、思い出せないようだった。
その間に、エレナ様は向かいの菓子屋へ目を向けている。店先では焼きたての林檎菓子が並べられ、上から白い砂糖が振られていた。
「食べるか?」
「うん」
「先ほど朝食を終えたばかりだが」
「町で食べるのは別」
それは私にも少し分かる。
四人で店へ入り、窓際の卓を囲んだ。エレナ様には小さな林檎菓子、私とマルタには木の実入りの焼き菓子。フィリップ様は何も頼まないと言っていたが、料理が届く頃には温かい肉入りのパンを追加していた。
「父上も食べるの?」
「朝食が少なかったんだ」
「私には、急ぐなって言った」
「急いではいない」
エレナ様は自分の菓子を切りながら、父親の皿を見ていた。
フィリップ様は肉入りのパンを半分に分け、その一つを娘の皿へ載せる。
「食べるか?」
「少しだけ」
「半分だ」
「父上の少しは大きい」
そう言いながら、エレナ様は拒まなかった。
窓の外を荷車が通り、車輪が固まった雪を砕いていく。店内には焼き上がりを知らせる鈴が鳴り、奥から新しい菓子が運ばれてきた。
私は木の実を練り込んだ生地を一口食べた。温かく、少し甘い。
ランフォード家にいた頃、町へ出る日は仕事の日だった。商会で見積もりを取り、職人と話し、帰りの馬車でも書類を読んだ。菓子屋へ入ることがあっても、義母の茶会へ出す品を選ぶためで、自分の分を頼んだ覚えはほとんどない。
「お口に合いませんか?」
フィリップ様に尋ねられ、手元を見る。菓子を持ったまま、しばらく動きを止めていたらしい。
「いいえ。とてもおいしいです」
「では、もう一つ頼みましょうか」
「まだ一つ目を食べているところです」
皿には半分以上残っている。
「すみません。エレナが食べるのを見ていると、足りないのではないかと思ってしまって」
「父上は、すぐ多くする」
「足りないよりよいだろう」
「多いと残る」
今度はエレナ様の方が正しかった。フィリップ様も分かっているのか、追加を頼むために上げかけた手を下ろした。
食事を終え、次は本屋へ向かった。
店先には子供向けの本が何冊も平積みにされている。動物の物語、王国の伝説、星の図鑑。その中に、川と橋を描いた新しい本があった。
古い石橋から吊り橋まで、絵を交えて作り方を説明している。
エレナ様は別の棚でマルタと絵本を見ていた。私は橋の本を手に取り、中身を確かめる。文字は難しすぎず、今の授業にも使えそうだった。
「それは、娘に向いていますか」
隣からフィリップ様の声がした。
「ええ。少し難しい箇所もありますが、長く読めると思います」
「では、買いましょう」
「授業用でしたら、私が――」
「私が贈ります」
フィリップ様は本を受け取ろうとしたが、その時、エレナ様がこちらを振り返った。
「何を見てるの?」
「まだ内緒です」
「私の?」
「内緒ですよ」
エレナ様が近づいてくる前に、私は本を元の山へ戻した。店員が事情を察し、同じ本を一冊、卓の下へ隠してくれる。
その後、エレナ様が星の図鑑を開き始めたため、フィリップ様は店員と何やら小声で話していた。
私はその隙に、反対側の会計台へ回った。
橋の本は、授業用とは別に自分で一冊買うことにした。エレナ様が読み終えたあと、いつでも手元へ置けるように贈ればよい。
店員は先ほど隠した本とは別の一冊を包み、私の鞄へ入れてくれた。
*
本屋を出てしばらく歩いたところで、エレナ様が急に足を止めた。
「手袋がない」
「どちらだ?」
「右」
左手には赤い手袋がある。右手は袖の中へ引っ込められていた。
マルタと一緒に外套のポケットや買った品の袋を確かめたが、見つからない。菓子屋では両手ともつけていたはずなので、本屋か、その途中で落としたらしい。
「私が戻って探します」
フィリップ様は持っていた荷物をこちらへ渡した。
「三人は、あの飲み物の店で待っていてください」
「私も行く」
「人が多い。二人で動けば、今度はお前を探すことになる」
エレナ様は不満そうに父親を見た。それでも、自分が迷子になる可能性までは否定できなかったらしい。
「見つからなかったら?」
「新しい手袋を使う」
「赤い方も好き」
「分かっている。行ってくる」
フィリップ様は人混みの中へ戻っていった。
私たちは通りの角にある飲み物の店へ入り、温めた果汁を三つ頼んだ。エレナ様は窓際に立ち、父親が戻る方角を見ている。
「父上、見つけられる?」
「一度通った道ですから、大丈夫ですよ」
「物を探すの、下手だよ」
「そうなのですか?」
エレナ様はうなずき、両手で杯を包んだ。
「眼鏡もよく探してる」
「男爵様は眼鏡をお使いでしたか?」
「読む時だけ。頭にあるのに探す」
その姿を思い浮かべると、フィリップ様には申し訳ないが、少し笑ってしまった。
ほどなく、店の前に彼の姿が現れた。右手には赤い手袋がある。雪で濡れた様子もなく、無事だった。
「本屋の卓の下に落ちていた」
「よかった」
「次からは、外したらポケットへ入れなさい」
フィリップ様は娘の右手へ手袋をはめた。手首まで引き上げ、外套の袖を上からかぶせる。
「父上が持っててもいい」
「私がなくしたら、もっと困るだろう」
「うん」
ためらいなく肯定され、フィリップ様はしばらく娘の手を持ったまま黙った。
「そこは否定してくれてもよいのだが」
「でも、眼鏡も探す」
「眼鏡とは違う」
エレナ様はもう杯へ口をつけている。
私は空いている椅子を勧めた。フィリップ様にも温かい果汁を一杯頼む。探し回ったため、額に少し汗をかいていた。
「ありがとうございます」
「これは私からです」
「休日なのに、気を遣わせましたね」
「休日ですから、自分で頼んだのです」
そう答えると、フィリップ様は杯を持ち上げた。
「では、いただきます」
飲み物を飲み終えたあとは、寄り道をせず屋敷へ戻った。
*
夕食後、フィリップ様はエレナ様を小広間へ呼んだ。
暖炉の前の卓には、昼間に買った包みが一つ置かれている。
「エレナ。今日は、これを」
「何?」
「開けてみなさい」
エレナ様が紐をほどく。
現れたのは、川と橋の本だった。
「橋の本」
「気に入ったか?」
「うん。先生と読む」
嬉しそうに頁を開くのを見て、鞄へ入れた自分の包みを思い出した。
同じ本を二冊持っていても困りはしない。一冊は授業室へ置き、もう一冊はエレナ様の部屋へ置けばよい。けれど、贈る時期は変えた方がいいだろう。
そう考えていると、マルタが私の鞄を持って小広間へ入ってきた。
「奥様。先ほど本屋から、こちらが鞄の底へ移っていたようでございます」
包みが卓へ置かれる。フィリップ様がそれを見た。
「本ですか?」
「ええ。その……」
「先生も買ったの?」
エレナ様はすぐに紐をほどいた。
止める間もなく、もう一冊の橋の本が卓へ並ぶ。表紙も大きさも、まったく同じだった。
エレナ様は二冊を見比べ、それから私と父親を順に見る。
「同じ」
「そうですね」
「二人とも、これがよいと思ったのですね」
フィリップ様は少し安心したようだったが、エレナ様はもう一度二冊を重ねた。
「二人とも、私のことを同じくらいしか分かってない」
「気に入らなかったか?」
「気に入った。でも、二つある」
エレナ様は上の本を持ち上げ、裏表紙まで確かめた。
「こちらは授業室へ置きましょう。もう一冊は、エレナ様のお部屋へ」
「先生のは、部屋」
「なぜです?」
「父上より、先生の方が少し分かってるから」
フィリップ様の手が、卓の上で止まった。
「同じ本を買ったのだが」
「先生は中を読んでから買った」
「私もランフォード夫人に聞いた」
「聞いただけ」
エレナ様は私の本を胸へ抱え、父親から贈られた方を授業室へ持っていくと決めたらしい。
フィリップ様は反論を諦め、椅子の背へ寄りかかった。
「次は、自分で中を読む」
「そうして」
「次も贈ることは決まっているのか?」
「決まってる。春」
何があるのか尋ねると、エレナ様は自分の誕生日だと答えた。
フィリップ様はすぐに日付を言えた。青が好きだということは忘れても、誕生日は覚えている。
エレナ様も、それ以上は父親を責めなかった。
二冊の橋の本は、翌朝、一冊が授業室の棚へ、もう一冊がエレナ様の枕元へ置かれた。




