第29話 雪の橋
私がローデン男爵家へ来て、一月が過ぎた。
朝食のため食堂へ入ると、エレナ様が窓に張りついていた。夜の間に雪が降り、庭も厩の屋根も白くなっている。
「先生、雪!」
「ええ。積もりましたね」
「今日は外?」
外へ行きたそうな雰囲気はある。けれど。
「授業は中です」
「雪なのに?」
「雪でもです」
エレナ様はもう一度庭を見た。
「前の先生は来なかった」
「私はこの屋敷に住んでおりますから」
「じゃあ、来るのね」
「廊下が通れる限りは」
「埋まったら?」
「皆で掘りましょう」
向かいの席で、フィリップ様が新聞を畳んだ。
「エレナ、まず、窓から離れなさい。額の跡がついている」
「あとで拭く」
「今拭きなさい」
「布がない」
「そこにある」
給仕が窓辺へ置いていた布を指す。エレナ様は仕方なさそうに取り、曇ったところを丸く拭いた。
「取れた」
「まだ端が残っている」
「父上、細かい」
「誰に似たのだろうな」
フィリップ様はこちらを見た。
「私ではないと思います」
「先生も細かいよ」
「では、男爵家の皆様に似たのでしょう」
エレナ様は少し考え、納得したように席へ戻った。
*
午前の授業では、冬の道について考えた。
ローデン領の地図へ、雪の深い場所を青い線で記す。北の村へ続く道、市場へ向かう街道、粉挽き小屋への細道。すべてを同じ日に除雪するだけの人手はない。
「最初にどこを通れるようにしますか」
エレナ様は地図の上へ三枚の札を並べた。
「市場」
「理由は?」
「食べ物を買うから」
「村には冬越しの蓄えがあります」
「じゃあ、こっち」
北の道へ札を移す。
「お医者様が通る」
「誰かが病気になると決まっているのですか?」
「決まってなくても、なってからだと遅い」
答えは早い。頭の回転は良い子だ。
「では、二番目は?」
「市場」
「粉挽き小屋は?」
「村に粉があるか聞く」
「なかったら?」
「先にこっち」
札がまた動く。
「答えが変わりましたね」
「聞いてから決めるから」
エレナ様は、地図の端へ小さく書き加えた。
――村に粉があるか。
「これでいい?」
「ええ。とてもよいと思います」
「父上なら?」
「夕食の時に聞いてみましょう」
「今、聞いた方が早い」
「男爵様はお仕事中です」
「先生も仕事中」
「ですから、今は私と考える時間でしょう?」
エレナ様は少し不満そうだったが、次の札を手に取った。
午後の授業を終える頃にも、雪はまだ解けずに残っていた。
「今日はここまでにしましょう」
本を閉じても、エレナ様は席を立たなかった。窓の外では、庭師が歩く場所だけ雪を除けている。
「エレナ様?」
「先生、もう仕事終わり?」
本を揃えていたら、不意に問われる。
「はい」
「じゃあ、今から庭へ来てもらうのは仕事?」
エレナ様は膝の上で手を組み、こちらを見た。
「仕事なら、いい」
「よろしいのですか?」
「来てほしい。でも、授業は終わったから」
ああ、なるほど、と思う。この子は一緒に遊びたいのだ。
「何をするつもりですか?」
「橋を作る」
「雪で?」
「うん」
一月の間に、エレナ様は私の授業時間を覚えた。
朝の二時間と午後の一時間半。その外で何かを頼む時には、これは先生の仕事かと一度考え、問いかける。フィリップ様か家政婦長から、そう教えられたのだろう。
「仕事としては参りません」
「じゃあ、来ない?」
「いいえ、私が行きたいので、ご一緒します」
「同じじゃないの?」
「少し違います」
「よく分からない」
「今は、それで構いませんよ」
すると彼女は勢いよく椅子から降りた。
「マルタに手袋を出してもらう!」
「外套も着てくださいね」
「先生も!」
「分かっています」
「長い靴も!」
「エレナ様は、私の先生になったのですか?」
「雪の時だけ!」
そういうと、マルタを呼びに駆け出した。
*
マルタに厚い外套と手袋を用意してもらい、二人で庭へ出た。
橋を架ける場所は、庭の端にある細い溝だった。夏には雨水が流れるが、今は底に薄く雪が積もっている。
「ここから、こっちまで」
エレナ様は小さな雪かきを動かす。溝の両側へ雪を積み、上から押し固めた。
「それでは真ん中が届きません」
「もっと積む」
「積みすぎると、溝が埋まりますよ」
「水が通らない」
「ええ。春になったら困ります」
「でも、春には雪が解ける」
「橋もなくなりますね」
「……本当だ」
雪の橋は、長く使うには向かないらしい。
二人で雪を運んでいると、屋敷からフィリップ様が出てきた。外套の前を留めながら、私たちの足元を見る。
「何をしているんだ?」
「橋」
「……それは雪の山ではないのか?」
「まだ途中」
エレナ様は雪かきを一本差し出した。
「父上もする?」
「私はこれから、厩へ行くところだ」
「橋の方が近い」
「距離の話ではない」
そう答えながらも、フィリップ様は雪かきを受け取った。
「どこへ積めばいいんだ?」
「真ん中」
「真ん中を埋めたら、水が通らないのじゃ?」
「だから、橋にして」
「その方法を考えているところではなかったのか?」
「父上が考えて」
目を瞬かせながら、フィリップ様は私を見た。
「いつも、こうなのですか?」
「考える相手が増えましたね」
私は軽く微笑む。
「先生は分かる?」
「今、考えております」
「二人とも分からないの?」
エレナ様は少し驚いたようだった。
「大人でも、すぐには分からないことがあります」
「父上は領主なのに」
「領主でも、だ」
「橋、あるでしょう?」
「あれは石工が作った」
「父上じゃないの?」
「私は金を払い、場所を決めた」
「じゃあ、作ってない」
エレナ様の中で、父親の評価が一つ下がったらしい。
そのせいか、フィリップ様は溝の両側を見てから、黙って雪を中央へ積み始めた。何度も雪かきで押さえ、大きな山を作る。
「これなら渡れるぞ」
だが自分で上へ片足を載せた途端、雪が崩れた。長靴が溝の底へ落ち、外套の裾に雪がかかる。
「父上」
「……柔らかかったな」
「橋じゃない!」
「渡る前までは橋だった」
「渡れないなら違う」
「厳しいな」
エレナ様は崩れた雪を指した。
「下も通れない」
「そうだな」
「ただ積んだだけ」
「そのようだ」
あまりに素直に認めるので、声を立てて笑いが出た。
ずいぶん久しぶりだった。もしかしたら、向こうの家に居た頃はずっと忘れていたことかもしれない。
フィリップ様が溝に片足を入れたまま、こちらを見る。
「……笑うところですか?」
「申し訳ありません。ですが、エレナ様の言うとおりです」
「先生も、父上の橋は駄目だと思う?」
「橋としては」
「橋としては、か」
フィリップ様は雪のついた裾を払い、溝から足を抜く。最後には、庭師から短い板を二枚借りた。
溝へ渡した板の上に雪を薄く載せ、両脇を固める。木はほとんど見えなくなり、白い道が反対側まで続いた。
「できた!」
エレナ様が先に渡る。今度は崩れない。
「雪の橋ですね」
「板の橋だろう?」
「雪が上にある」
「中は板だ」
「見えないから、雪!」
フィリップ様は少しの間、反論しようとしたがやめた。
「先生は?」
「雪の橋でよいと思います」
「二対一」
エレナ様がもう一度、橋を渡った。
「父上も」
「……私が乗れば、また壊れるぞ」
「端を歩けば大丈夫」
「今度は先に言ってくれ」
フィリップ様が慎重に片足を載せる。橋は少したわんだが、今度は向こう側まで渡れた。
「できた」
「ああ」
「父上も作った」
「板を運んだのは庭師だが――」
「雪を積んだ」
「それなら、少しは作ったな」
日が傾き、庭の雪が青くなり始めていた。
*
屋敷へ戻ると、マルタが暖炉の前に三人分の布を用意していた。エレナ様の帽子を脱がせながら、フィリップ様の濡れた外套へ目を向ける。
「旦那様は、雪の中で転ばれたのですか?」
「橋が崩れた」
「父上が作ったから」
「作っている途中だった」
「ただ積んだだけ」
マルタが口元を押さえた。
「皆に言うな」
「はい、私は誰にも申しません」
「もう料理長が見てる」
食堂の入口に、温かい飲み物を運んできた料理長が立っていた。
フィリップ様は諦めたように肩を落とすと、外套を脱いだ。
「明日には、屋敷中が知っているな」
「父上の橋のこと?」
「そうだ」
「じゃあ、明日はもっと丈夫なのを作る」
「私は参加しないぞ」
「先生は?」
「明日の午後も授業があります」
「終わったら?」
「その時に決めます」
「来たい?」
「ええ。今日と同じくらい雪が残っていたら」
エレナ様は満足して、湯気の立つ杯を両手で持った。
「じゃあ、解けない方がいい」
窓の外には、小さな白い橋がまだ残っていた。




