第28話 もう待ちたくありません
朝食の皿が下げられると、オクタヴィアは食堂の椅子を動かし始めた。
「これはオスカーの席。リリアナはこちらね」
六人掛けの卓へ、椅子がきっちり並ぶ。自分の両隣に一脚ずつ置き、満足そうに頷いた。
「夕食は六人分にしてちょうだい。子供たちが食べるのだから、香辛料は控えて。焼き菓子も要るわ」
料理人は、食材を控えた紙を持っている。
「本日の分は、四名様で用意しております」
「町へ買いに行けばいいでしょう」
「馬車は、オクタヴィア様がお使いになりますので」
「歩いて行ける距離よ」
料理人は紙へ二人分を書き足した。夫人が、食堂の入口から卓を眺める。
「ねえ、本当に二人とも連れてくるつもりなの?」
「そのために会いに行くのよ」
「寝室はどうするの。あなたの衣装箱だけで、一部屋が埋まりそうなのに」
「今夜は応接室へ寝台を入れればいいわ。明日になったら、きちんと部屋を決めるわ」
「私の衣装箱を廊下へ出すのはやめてちょうだいね」
「子供たちの部屋が要るのよ」
「だからといって、私のものを動かす理由にはならないでしょう」
夫人はそう言い残し、自分の部屋へ戻った。
オクタヴィアは侍女に、応接室を片づけるよう命じた。長椅子を壁際へ寄せ、今夜のうちに簡易寝台を二つ入れる。子供たちの荷物は、あとからベルモント家に送らせればよい、と。
玄関には、青いリボンを結んだ包みが二つ用意してある。
ベルモント家から借りた濃紺の式服を着て階段を下りると、リュシアンが応接室から顔を出した。
「帰りは何時だ」
「分からないわ。子供たちの支度もあるもの」
「明日の朝には馬車を使うぞ」
「子供たちを迎えたばかりで、出かけるつもり?」
「俺の用事には関係ない」
オクタヴィアは返事をせず、式服の裾を持ち上げて馬車へ乗った。
扉が閉まる。
食堂の卓には、六脚の椅子が残った。
*
ベルモント家の門を通った馬車は、本館の前を通り過ぎた。
「どこへ行くの?」
「面会室は、西の別棟に用意しております」
同乗してきた従僕が答えた。
「私は、この家の女主人だったのよ。本館へ入れないというの?」
「本日は、お子様方との面会でございます」
「子供たちの部屋は本館にあるでしょう。荷物をまとめなくてはならないわ」
「お荷物を移す予定はないと伺っております」
「子供たちが私と帰ると言えば、エドモンにも止められないでしょう」
従僕は膝の上へ視線を落とした。
馬車は別棟の玄関前で止まった。
通された部屋には、長卓と椅子が四脚置かれていた。窓の外には低い生垣が続き、その向こうに本館の西棟が見える。
グレイ法律事務所の代理人と、子供たちの養育係が待っていた。
「エドモンは?」
「本日の面会には出席いたしません」
「セシルも?」
「セシル夫人も同席いたしません」
オクタヴィアは椅子へ腰を下ろし、二つの包みを卓へ置いた。
「あの人たち、私と顔を合わせる勇気がないのね」
「お子様方が、ご自分のお考えをお話しになります」
「……子供が考えたことにして、あの女が言わせるのでしょう?」
代理人が懐中時計を確かめた。
「面会は一時間です。お子様方が退室を望まれた場合は、その時点で終了いたします」
「一時間も要らないわ。帰る支度をさせるだけですもの」
扉が開いた。
オスカーとリリアナが、養育係に付き添われて入ってくる。
オクタヴィアは立ち上がり、両腕を広げた。
「オスカー、リリアナ!」
二人の足が、揃って止まった。
オスカーが先に頭を下げ、リリアナもそれに倣った。オクタヴィアの腕は行き場をなくし、卓の上の包みへ伸びた。
「ほら、お土産よ。オスカーにはこちら。リリアナの分は青い包みね」
「ありがとうございます」
オスカーは礼を言ったが、包みには触れなかった。
「あとで馬車に載せましょう。二人とも、大きくなったわね。さあ、座って。帰りながら、ゆっくり話を聞くわ」
「僕たちは、今日はお話をするだけだと聞いています」
「ええ。馬車の中で話せばいいでしょう」
「馬車には乗りません」
オクタヴィアはリリアナを見た。
「長い道のりで疲れるのが嫌なのね。でも、馬車には柔らかな敷物を用意してあるわ。今夜はお母様と一緒に眠りましょう」
リリアナは、隣に立つオスカーの袖をつかんだ。
「帰りません」
「リリアナ?」
「ここにいます」
「ここは、もうお母様の家ではないのよ。だから、お母様が迎えに来たの」
オスカーが、妹の半歩前へ出た。
「やめてください。ここが、僕たちの家です」
「オスカー……? あなたまで何を言っているの。エドモンに何か言われたの?」
「父上からは、自分で決めてよいと言われました」
「子供が決めることではないわ」
「それなら、どうして今まで迎えに来なかったのですか」
オクタヴィアの手が、青い包みから離れた。
「……お母様は具合が悪かったのよ。ランフォード家へ戻って、少し休む必要があったの」
「二、三日で戻ると言いました」
「そのつもりだったわ」
「お母様は僕が熱を出した時も、帰ってきませんでした」
「そのことは聞いているわ。大変だったのでしょう?」
「その時、父上が手紙を出しました。返事はなかったと聞きました」
「私は、あの家でゆっくり休ませてもらえなかったのよ。ヴェロニカが、私にばかり気を遣わせて――」
「僕は、お母様に会いたかったです」
オクタヴィアの言葉が止まる。オスカーは、卓の縁を見ていた。
「熱が下がれば帰ってくると思いました。寝台から起きられるようになった日も、玄関まで行きました。でも、お母様は来ませんでした」
「だ、だから、今日来たでしょう」
「もう八か月たってます」
「そんな、八か月なんて、長い人生の中では短いものよ」
「お母様には短くても、僕たちには長かったです」
リリアナが、オスカーの袖を握ったまま口を開いた。
「三つ眠ったら、お母様が帰ると思っていました」
「ごめんなさいね。寂しかったでしょう?」
「三つ眠っても帰らなかったから、もう三つ数えました。そのあとは、毎朝、今日は何日か聞きました」
「もう大丈夫よ。これからは一緒にいられるわ」
「お手紙も来ませんでした」
「あなたたちからも来なかったでしょう?」
リリアナが顔を上げた。
「私、お母様がどこにいるかも知りませんでした」
「エドモンが教えなかったのね」
「お父様は、お母様にお手紙を出していました」
「大人同士の話と、子供への手紙は別でしょう。あなたたちが会いたいと書いてくれれば、お母様だって――」
「私は、会いたいって、毎日言いました!」
リリアナの指に力が入り、オスカーの袖に皺が寄った。
「そんな時、セシル小母様が、何度も一緒にいてくれました。夜も、眠るまでいてくれました」
「……あの女が、あなたたちに取り入ったのよ」
「セシルお母様の悪口を言わないでください!」
「お母様? ですって!?」
オクタヴィアは椅子を押し、立ち上がった。
「あの人を、お母様と呼んでいるの?」
リリアナの肩が跳ねた。オスカーが妹を背中へかばう。養育係も椅子から立った。
「ちょっと! 私が母親でしょう! たった一月で、あの女が母親になれるはずがないわ!」
「……セシルお母様は、お母様がいなくなった日から、ずっと僕たちのそばにいました」
「あなたたちを奪うためよ!」
「僕たちが、そばにいてほしいと頼みました」
「そんなはずはないわ。あなたたちは、私の子供なのよ!」
オクタヴィアは、リリアナへ手を伸ばす。リリアナは反射的に一歩下がる。
伸ばした指は、オスカーの肩の前で止まった。
「ねえ、南の小館には、二人の席も用意してあるの。応接室には寝台を二つ入れたわ」
「僕たちの部屋はないのですか」
「今夜だけよ。明日になったら決めます」
「明日になったら、誰の部屋をもらうのですか」
「それは、帰ってから皆で相談すればいいでしょう」
「学校はどうなりますか?」
「こちらから通うには遠いから、新しい教師を探すわ」
「いつ探したのですか?」
「これからよ」
「養育係は?」
「小館に侍女が二人いるわ」
オスカーは背中へ回した手で、リリアナの手を握った。
「つまりお母様、そちらでは、僕たちが食べるものも、着るものも、勉強することも、まだ何も決まっていないのですね」
「でも、家族なのだから、一緒に暮らし始めてから決めればいいのよ」
「僕たちは、ここで暮らします」
「今はそう思っているだけよ。お母様と一晩過ごせば、きっと――」
「一晩でも行きたくありません」
「オスカー!」
「また、帰ると言われるからです」
オクタヴィアの口が開いた。
オスカーは妹の手を握ったまま、こちらを見ている。
「僕たちはお母様が帰ってくると思って、ずっと待ちました。今度は迎えに来ると言われて、また待つのも嫌です」
リリアナが、兄の後ろから顔を出した。
「もう約束なんかしないで」
「リリアナ、お母様は今度こそ――」
「約束されると、待ってしまうの」
リリアナの声が震えた。
「私ももう、お母様を待ちたくはありません」
養育係が二人のそばへ寄った。
「お話は、これでよろしいですか」
オスカーが頷く。
「お待ちなさい。まだ一時間たっていないわ」
「僕たちは戻ります」
「二人とも!」
オスカーとリリアナは扉の前で立ち止まり、揃って頭を下げた。
「さようなら、お母様」
扉が閉まるまで、二人は振り返らなかった。
*
面会室に残った二つの包みを、オクタヴィアは自分で抱えた。
「子供たちをもう一度呼んでよ……」
「本日の面会は終了しました」
「少し興奮しているだけよ。昼食を取れば落ち着くわ」
「お二人は、セシル夫人と食事をなさいます」
「あの女と?!」
「《《ご家族での》》昼食です」
別室では、侍女が待っていた。
借りていた濃紺の式服を脱がされ、ランフォード家から着てきた旅行着へ袖を通す。ベルモント家の紋章が入った式服は丁寧に畳まれ、衣装箱へ収められた。
「それは、子供たちに会う時のために取っておいて」
「本日限りでお返しいただくことになっております」
「次の面会があるでしょう……?」
侍女は衣装箱の蓋を閉じ、金具を留めた。
*
帰りの馬車には、オクタヴィアと二つの包みだけが乗った。
南の小館へ着いた頃には、食堂の窓から灯りが漏れていた。
「遅かったわね。料理が冷めてしまうでしょう」
夫人が、すでに卓についている。六人分の皿と椀が並び、オクタヴィアの両隣には、小さめの杯が置かれていた。
リュシアンが玄関の方を見た。
「子供たちは?」
オクタヴィアは二つの包みを抱えたまま、食堂の入口に立っていた。
「来ないわ」
「では、明日は朝から馬車を使えるな」
「料理も二人分、余ってしまったじゃないの」
夫人は料理人を呼んだ。
「そちらの席は片づけてちょうだい。狭くて仕方がないわ」
「待って……」
侍女の手が、リリアナのために用意した杯の上で止まった。
「そのままにして」
「来ないのでしょう?」
「今日は来ないだけよ」
オクタヴィアは、青い包みを抱え直した。
「今日は疲れていたの。明日になれば、きっと――」
――約束されると、待ってしまうの。
耳に残るリリアナの声が、そこで言葉を止めた。
オクタヴィアは食堂へ入らず、二つの包みを抱えて階段を上がった。
寝室には、運び込まれた衣装箱が六つ積まれている。寝台までの細い隙間へ入り、包みを置こうとしたが、卓の上にも帽子箱と小箱が重なっていた。
置く場所のない包みを、もう一度胸へ抱える。
「オスカー…… リリアナ……」
呼ぶたび、声が細くなった。
オクタヴィアは衣装箱の間へしゃがみ込み、二つの包みへ顔を伏せた。
階下では、余った椅子が二脚、壁際へ戻された。




