第36話 もう一人分
結婚式から、半年が過ぎた。
秋も深まり、庭の梨は収穫を終えていた。春に白い花をつけていた枝には、今は黄色くなり始めた葉が残っている。
その朝、食堂へ入った途端、焼いた肉の匂いが鼻についた。
料理長が用意した朝食は、いつもと同じだった。卵、薄く切った燻製肉、焼きたてのパン。それなのに、燻製肉の皿を見ると胃が縮む。
「下げてもらえる?」
給仕へ頼み、代わりに果物と薄い茶を出してもらった。向かいでは、フィリップが新聞から顔を上げている。
「具合が悪いのか?」
「少し食欲がないだけよ」
「医師を呼ぼう」
フィリップはもう新聞を畳んでいた。
「一度朝食を残しただけで?」
「昨日の夕食も、あまり食べていなかった」
「見ていたのね」
果物を一切れ口へ入れる。酸味のある林檎は食べやすかった。
フィリップは執事を呼ぼうとしたが、隣のエレナが先に袖を引いた。
「父上、今すぐ呼ぶの?」
「ああ」
「お母様に聞いてから」
エレナは私の皿へ目を向けた。林檎は食べているので、倒れるほど悪いとは考えていないらしい。
「今日は授業できる?」
「できますよ」
「なら、朝は林檎にする?」
心配の仕方が、フィリップより現実的だった。
「そうしましょう。昼には、いつもどおり食べられるかもしれません」
「医師は?」
「二、三日続いたらお願いします」
フィリップは納得していない顔で新聞を開いた。けれど同じ行から先へ、なかなか目が動かなかった。
*
朝食後、部屋へ戻ると、マルタが待っていた。
手にはエレナの秋物の一覧を持っている。丈を直す服について相談に来たらしい。
「今朝のお食事を、ほとんど召し上がらなかったそうですね」
「もう伝わっているの?」
「料理長が心配しております」
マルタは一覧を卓へ置いた。
私が椅子へ座ると、向かいへは来ず、まず窓を少し開けた。部屋に残っていた朝食の匂いが外へ流れていく。
「いつからですか?」
「何が?」
「匂いが気になるようになったのは」
昨日の夕食では、魚の香草焼きが食べにくかった。数日前には、朝の茶も少し苦く感じた。
月の日付を考え、返事が止まる。マルタは卓の上の暦をこちらへ向けた。
「ヴェロニカ様」
「……まだ、分からないわ」
「ええ。ですから、分かる方に診ていただきましょう」
先ほどフィリップには、二、三日待つと言ったばかりだった。
「男爵様には?」
「診察を受けてから話すわ」
「承知しました。では、私が家政婦長へ頼みます」
マルタは一覧を畳み、衣装の話を始める気配もなく立ち上がった。
「エレナの仕事は?」
「午前中は家政婦長様が見てくださいます」
「勝手に交代を頼んだの?」
「これから頼みます」
扉へ向かったマルタが、取っ手へ手を掛ける。
「ご心配でしたら、一緒に来てください」
「そうするわ」
「では、先に男爵様へ見つからないようになさってください。今朝から廊下を二度通っておられます」
書斎へ戻ったはずのフィリップが、こちらの様子を見に来ているらしい。
「三度目に来たら?」
「私がお引き止めします」
「何と言って?」
「ヴェロニカ様は、衣装の確認中です、と」
間違いではない。卓の上には、エレナの衣装一覧が置かれている。
マルタはそれを一枚だけ残し、残りを抱えて部屋を出ていった。
*
医師が来たのは、その日の午後だった。
診察を終えると、年配の女医は暦を確かめ、春の初め頃になるだろうと話した。
体調に問題はない。食べられるものを少しずつ取り、疲れた時には休むこと。馬車での長い移動は控えた方がよいが、普段どおりの生活をして構わないという。
医師を見送ったあと、窓辺の椅子へ座った。
扉の外から、低い話し声が聞こえた。マルタとフィリップである。
「診察は終わったのですか」
「はい。ただし、中へ入られる前にお尋ねください」
「自分の妻の部屋だが」
「ヴェロニカ様のお部屋でもございます」
扉が二度叩かれた。
「ヴェロニカ、入ってもいいか?」
「ええ」
フィリップはすぐに入ってきた。後ろでマルタが一礼し、扉を閉める。
「医師を呼んだと聞いた」
「マルタから?」
「家政婦長からだ。何かあったのか」
椅子を勧める前に、フィリップは私の前へ立った。朝から心配していたのだ。先延ばしにする理由はなかった。
「春頃に、子供が生まれるそうよ」
「子供?」
同じ言葉を繰り返したあと、フィリップは立ったまま動かなくなった。
「ええ」
「私たちの?」
「ほかに誰の子供だと思ったの?」
やっと椅子へ座ったものの、今度は膝の上で手を組み、こちらの顔と腹部を交互に見る。
「医師は、何と?」
「順調ですって。疲れたら休むようにと言われたわ」
「授業は休んだ方がいい」
「必要になれば休みます」
フィリップの口が開きかけるが、先に手を上げて止めた。
「今から全部やめるつもりはありません。授業室までは歩けるし、椅子にも座れます」
「だが、無理は」
「しません」
しばらく考えたあと、フィリップは小さくうなずいた。
「では、毎朝確認する」
「何を?」
「体調を」
「食事の席で見ていたでしょう」
「聞いた方が確かだ」
それなら構わない。
ただし一日に何度も尋ねるようなら、マルタか家政婦長に止めてもらうことにする。
フィリップは椅子の肘掛けへ手を置き、息を吐いた。
「嬉しい」
「ええ。私も」
差し出された手へ、自分の手を重ねた。
最初に求婚された時より、フィリップの手は温かかった。
「エレナには、いつ話す?」
「夕食の前に、三人で話しましょう」
「どう思うだろう」
「まず、部屋をどこにするか聞くと思うわ」
「そんなに早く?」
「あなたの娘ですよ」
フィリップは少し考え、否定できないと分かったらしい。
*
夕食前、エレナを小広間へ呼んだ。
卓の上には、今日の授業で使った地図が置かれている。マルタは端へ寄せた本を棚へ戻し、窓際に控えていた。
「何の話?」
エレナは私とフィリップの間の椅子へ座った。
「お母様、病気だった?」
「病気ではありません」
「じゃあ、何?」
フィリップが話し始めようとしたが、私を見て止まる。先に伝えるのは、私の役目だと思ったらしい。
「春になった頃、この家に赤ちゃんが増えます」
「赤ちゃん?」
エレナの目が、私の腹部へ下りた。
「今、いるの?」
「ええ。まだ、とても小さいけれど」
「弟? 妹?」
「生まれるまで分かりません」
エレナは椅子から降り、すぐ私の隣へ来た。
腹部へ触れてよいか迷ったのか、手は服の少し手前で止まっている。
「まだ動きませんよ」
「いつ動く?」
「もう少し先です」
エレナは手を下ろし、今度は父親を見た。
「部屋は?」
「まだ決めていない」
「乳母は?」
「これから探す」
「名前は?」
三つ目の質問で、フィリップは私へ助けを求めた。
「名前は、生まれてからでも遅くありません」
「何も決まってない」
「今日、分かったばかりですから」
エレナは小広間を見回した。隣の部屋。空いている客室。自分の部屋からの距離。頭の中で屋敷の間取りを動かしているらしい。
「部屋! 私の隣は?」
「夜に泣くかもしれないぞ」
「起きたら見に行く」
「赤ちゃんは、まず眠らせてあげてください」
エレナは少し不満そうだったが、別のことを思いついた。
「授業は?」
「しばらくお休みする時期があると思います」
「先生をやめる?」
手が、私の袖をつかむ。
「やめません。お休みした分は、体調が戻ってから相談しましょう」
「赤ちゃんが生まれても?」
「ええ」
袖をつかんだ指は、まだ離れなかった。
「お母様は、赤ちゃんのお母様になるの?」
「そうですよ」
「私のは?」
私はエレナの手へ、自分の手を重ねた。
「もちろん。あなたのお母様も続けます」
「両方?」
「二人分です」
エレナはその答えを聞き、袖から手を離した。
窓際では、マルタが棚の本を並べ直している。すでにきれいに収まっているのに、橋の本だけを一度抜き、また同じ場所へ戻した。
「マルタ」
エレナが呼ぶ。
「はい」
「赤ちゃんの服、作れる?」
「作れますよ」
「青?」
「弟か妹か分かってからでもよいでしょう」
「青は、どっちでも着られる」
自分の好きな色を、そのままきょうだいにも着せるつもりらしい。
「では、青い布も用意しておきましょう」
「私も縫う」
「まず、針を曲げずに縫えるようになってからでございますね」
エレナはマルタの隣へ行き、どの布がよいか話し始めた。フィリップは置いていかれた形で、私の隣へ座っている。
「なあ、私は、何をすればいい?」
「乳母を探してください」
「分かった」
「一人で決めないでね」
「よし、候補を三人ほど選び、一緒に会おう」
この家では、誰か一人へ全部を任せる必要はない。
授業の予定は私とエレナで考える。乳母はフィリップと探す。衣服はマルタが見て、家政婦長と相談する。
料理長は、明日から匂いの弱い朝食を用意すると言っていた。
それぞれが、自分の仕事を持っている。
*
夕食の席へ移ると、エレナはいつものように私の隣へ座った。
食卓には三人分の皿と杯が並んでいる。
スープが運ばれる前に、エレナが席を立った。食器棚の小さな引き出しを開け、来客用の白い席札を一枚取り出す。
「何をするの?」
尋ねても、返事はなかった。
エレナは自分の席へ戻り、鉛筆で何かを書いた。文字を乾かすように二度振り、私とフィリップの皿の間へ置く。
――弟か妹。
「まだ食事はできませんよ」
「分かってる」
「椅子も要らないだろう」
「今は札だけ」
フィリップが席札を手に取ろうとすると、エレナはすぐ元の場所へ戻した。
「そこ」
「なぜ真ん中なんだ?」
「三人で見るから」
給仕がスープを運んできた。
エレナは自分の匙を取り、白い席札が倒れていないか確かめる。
三人分の皿の間に、まだ誰も座らない一人分が増えた。
END




