第26話 次の当主にはなれません
セルジュ兄弟の馬車が門を出たのは、朝食を終えた直後だった。
到着した時には六つあった荷箱が、再び馬車の後ろへ積まれている。細長い釣り竿の箱も、紐を解かれないままだった。
「なあ、本当に帰るのか。今日は川へ行けるぞ」
リュシアンは玄関前まで追ってきた。
「昼食の用意は?」
「戻ってから食べればいい」
「馬は?」
「馬丁に言えば出すだろう?」
「何頭、何時に出すよう頼んだ?」
「今から決める」
セルジュは従僕から外套を受け取った。
「……帰るよ」
「せめて、次の予定を決めてからにしよう」
「次は、俺が招く。《《日と部屋と食事を決めて》》、手紙を出す」
「そんな堅苦しいことをしなくても、友人同士だろう?」
「友人を、空いている部屋へ入れて、余った食事を出すつもりはない」
セルジュは馬車へ乗り、弟へ手を貸した。
「ロベールには、何と伝える?」
「自分で手紙を書け。今度は、返事まで読めよ」
扉が閉まった。
リュシアンが石段に立っている間に、馬車は正門を抜けた。車輪の音が遠ざかる。
代わりに、街道の向こうから四頭立ての馬車が近づいてきた。
扉には、アルマンド侯爵家の紋章がある。
後ろには書記を乗せた小型馬車が二台。そのさらに後ろを、北部と南部の村長が乗った荷馬車が続いていた。
「今日は、現場へ行くのではなかったのか?」
リュシアンは、玄関へ出てきたローレン管理官へ尋ねた。
「調査結果をお伝えする日でございます」
「結果?」
「旦那様方には、十時に広間へお集まりいただくよう、昨夜お知らせしております」
「そんな手紙は読んでいない」
「お部屋へお届けし、受取票もいただいております」
馬車の扉が開いた。
最初に降りたのは、セドリック・ヴァレール相談役だった。続いてモラン公証人が書類鞄を持って降りる。
「リュシアン殿。ちょうどよい」
ヴァレール相談役は、石段の途中で足を止めた。
「ご家族を広間へ呼んでくれ。今度は、全員そろって聞いてもらう」
*
長卓の片側に、ランフォード家の四人が並んだ。
正面にはヴァレール相談役、モラン公証人、ローレン管理官が座っている。侯爵家の書記が二人、卓の端へ記録用紙を広げた。
村長二人は、少し離れた椅子に腰を下ろしていた。
「なぜ領民まで、家の話を聞くのだ」
ランフォード伯爵が尋ねた。
「領地の管理に関する裁定だからだ」
ヴァレール相談役は、アルマンド侯爵の封蝋が押された書状を開いた。
「調査で確認された事項を読み上げる。第一に、北部水路、南部橋梁、診療所、共同倉庫に関する申請が、《《長年にわたり》》当主の判断を受けず留め置かれていた」
「その後、ヴェロニカが処理したはずだ」
「《《だから》》、三年前から動いた」
相談役は北の村長へ顔を向けた。
「ヴェロニカ夫人が嫁ぐ以前、当家から返事が来たことは?」
「《《先代の家令様から、一通だけ》》でございます」
「その後は」
「若奥様がお越しになるまで、《《一度も》》」
伯爵は卓の木目へ目を移した。
「第二に、領地収入と家族の私的支出が分けられていなかった。橋の修繕費、領兵の給金、王都で購入した衣装や宝飾品が、同じ会計から支払われている」
「伯爵家の財産だ。家族のために使って何が悪い」
「領地の維持費は、領民から集めた税だ」
南の村長が帽子を膝の上で握り直した。
「橋が通れなくなれば、南の村は収穫を町へ運べません」
「橋は直しているではないか」
「ヴェロニカ夫人が、石材の契約まで済ませたからだ」
ヴァレール相談役が、赤い紐を巻いた書類を開く。
「石材は二日後に届く。受け取る数量、傷の許容範囲、支払日。すべて引き継ぎ書に残されている。ところで伯爵、明日から現場へ行き、到着までの準備をするつもりはあるか」
「ロイスとローレンに任せればよいだろう」
「では、《《あなたは何をする》》?」
「当主として、最終的な承認をする」
「何を見て承認する?」
伯爵の指が、椅子の肘掛けを叩いた。
「そのような細かな確認は、使用人の仕事だ」
「……三日間、同じ答えだったな」
相談役は書状へ戻った。
「第三に、現当主と後継者は、領地運営に必要な仕事を説明できなかった。提出された回答書にも、実際に行った職務が記されていない」
「俺は、父上を補佐していると書いた」
リュシアンが身を乗り出した。
「補佐の内容を聞いている」
「……これから覚えるつもりだった」
「いつから?」
「当主になってからだ」
「領地を預かる者が、当主になった日から勉強を始めるのか」
リュシアンの前へ、本人が出した三行の回答書が置かれた。
「俺は、家の金を使い込んだわけでも、書類を捨てたわけでもない」
「後継者が《《何もしていない》》ことを、弁明には使えんよ」
ヴァレール相談役は、次の書状を開いた。
「以上の調査結果により、アルマンド侯爵は、現当主へ家督の返上を求める。ランフォード伯爵位については王家へ継承者変更を申請し、承認までの間、領地の管理権を侯爵家へ移す」
伯爵の手が止まった。
「継承者変更?」
「現当主の従弟に当たる、アルノー・ランフォードを推薦する。侯爵領西部の管理を十八年務めている」
「待て。私には息子がいる」
「その息子についても、裁定がある」
別の紙が、リュシアンの前へ置かれた。
「リュシアン・ランフォードを、伯爵位の継承者から外す」
「なぜだ!」
「回答書のとおりだ。領地に関する職務経験がなく、今後の計画もない。管理調査中に友人を招き、滞在人数すら確かめていなかった」
「客の部屋と、爵位に何の関係がある!」
「自分で招いた三人の寝台も決められない者へ、領民数千人の冬支度を任せるのか?」
リュシアンは紙を取り上げた。
「父上が退けば、俺がやる。ヴェロニカの引き継ぎ書もあるんだろう?」
「引き継ぎ書は、次の管理者が使う」
「俺の家の書類だ!」
「《《ランフォード領の》》書類だ。《《お前個人の》》持ち物ではない」
ヴァレール相談役の前で、二通の書状が重ねられた。
「伯爵が家督返上へ同意すれば、王家への申請中も、前当主一家としての待遇は保証される。拒めば、侯爵家は領地放置と財産混同について、爵位審理を申し立てる。村長、使用人、商人、公証人が証言することになる」
「人前で、この家の内情を話すというの?」
伯爵夫人が扇を開いた。
「すでに昨日、ご自分でお話しになったでしょう」
モラン公証人が、慈善茶会の受領簿を出した。
「寄付金の送り先も、購入数も決めていない。案内状へ伯爵夫人のお名前を記し、実務をヴェロニカ夫人へ任せていたことを、あなたは十六名の前で認めておられます」
「……あれは、急にいなくなったヴェロニカが悪いのよ」
「出席者一覧、食事上の注意、寄付先、必要な寝具の数まで残されています」
「最後までやらずに出ていったでしょう?」
「ですが、最後に署名する方のお名前は、伯爵夫人でした」
受領簿の末尾に、昨日の署名がある。
「寄付金は、侯爵家の管理下で診療所へ送ります。購入と配送の報告は、伯爵夫人名義で出していただきます」
「手紙を十六通も?」
「主催なさった方のお仕事です」
伯爵夫人は扇を閉じた。
「今後、私は茶会を開けないの?」
「ご自分の費用で開くことはできます。ただし、伯爵家の名と領地収入は使えません。慈善会の代表についても、次の伯爵夫人が引き継ぐか判断します」
「次の伯爵夫人……」
卓の上で、扇の骨が一本ずれた。
伯爵は二通の書状を見比べ、長く黙ったあと、家督返上の同意書へ署名した。
*
「では、私たちはどこに住むのだ」
伯爵が裁定書の末尾を読んだ。
「南の小館が用意される」
ローレン管理官が、建物の見取り図を広げた。
玄関、食堂、応接室。二階には寝室が四つある。厨房と使用人部屋は一階の奥だった。
「こちらへ、現伯爵夫妻、リュシアン様、オクタヴィア様がお移りいただけます。料理人一名、侍女二名、従僕一名、御者一名。給金と館の維持費は、前当主家の年金から支払われます」
「侍女が二人?」
オクタヴィアが見取り図を引き寄せた。
「私一人でも、二人は必要よ!」
「個人で雇い入れる場合は、ご自分の費用で」
「私の衣装部屋は?」
「寝室は四つです」
「では、衣装はどこへ置くの?」
「箪笥へ収まる分をお持ちください。残りは倉庫を借りるか、処分することになります」
「お父様!」
オクタヴィアは隣の父親を見た。
「何とか言ってちょうだい」
「うるさい! 今、私の家督の話をしているのだ!」
「私だって、この家の娘よ!」
「ですから、小館に一室用意されています」
モラン公証人が、灰色の書状を開いた。
「ベルモント家から持ち出した衣装、宝飾品、家具については、十日以内に一覧と照合します。先方の所有と認められた品は返却。オクタヴィア様の私物は、その後に小館へ運びます」
「どうして今、それまで決めるのよ!」
「今の屋敷は、次の当主一家が使用するからです」
「私は子供たちを連れてくるかもしれないのよ。部屋が足りないでしょう?」
「お子様方をランフォード家へ預ける予定はないと、先方から回答が来ています」
「でも、面会をすれば気が変わるかもしれないわ」
「面会を受けるかどうかのお返事は、明日までです」
オクタヴィアは母親へ顔を向けた。
「ねえお母様、一緒に行ってくださるでしょう?」
「……私には、寄付のお礼状が十六通あるのよ」
「書き終わってからでいいわ」
「小館へ移る荷物も決めなければならないでしょう!」
二人の間で、見取り図が引っ張られた。紙の端が裂け、二階の小さな寝室が途中で切れた。
ローレン管理官は、もう一枚同じ図面を取り出した。
「写しはございます」
*
最後に、モラン公証人がリュシアンの前へ白い書類を置いた。
「ヴェロニカ夫人との離縁についてです」
「今、その話まで必要なのか?」
「ランフォード家の継承が変わります。婚姻上の立場も、同時に整理します」
書面には、ヴェロニカが求める条件が記されていた。
――婚姻の解消。
――持参財産の返還。
――双方の連絡を代理人経由に限ること。
――ランフォード家から贈られた品について、所有権を求めないこと。
「生活費も慰謝料も求めていないのか?」
伯爵が紙をのぞき込んだ。
「はい。代わりに、領地管理官と会計責任者の職務を担っていた期間について、侯爵家から功労金が認められました。こちらは、前当主家の私有財産から支払われます」
「ちょっと、なぜ私たちが払うの?」
伯爵夫人が尋ねた。
「仕事を任せた方々だからです」
「ヴェロニカは家族だったのよ」
「家族へ頼めば、二年半、毎日働かせても給金が要らないと?」
伯爵夫人の口が閉じる。リュシアンは離縁同意書を卓へ戻した。
「俺は同意しない!」
「では、婚姻裁定所で審理を行います」
モラン公証人は、別紙を上へ重ねた。
「夫婦の生活状況、夫君が屋敷へ戻った日数、家政と領地の分担、子供を持つことについての経緯。使用人とご実家の方々にも証言していただきます」
「そんなことまで、他人に話させるつもりか?」
「審理を求めるなら必要です」
「ヴェロニカは、どこにいるんだ!」
「お知らせできません」
「夫の俺にも?」
「離縁を申し立てられた当事者ですから」
「帰って話し合えば済むだろう? 南の橋のことも、まだ聞いていない」
「橋はローレン管理官が引き継ぎます」
ヴァレール相談役が答えた。
「ヴェロニカ夫人は、すでに別の仕事を始めている」
「仕事?」
「家庭教師だ」
「何だって? 伯爵家の夫人だった者が、家庭教師に?」
「自分で雇用契約を読み、自分の給金を受け取っている。少なくとも彼女に関しては、これまでよりは本人の仕事がはっきりしている」
リュシアンは同意書の最初から最後まで目を通した。
「署名しなければ、審理になるのだな」
「はい」
「署名すれば?」
「署名すれば、本日付で婚姻裁定所へ提出します。正式な解消は、裁定所の確認後です」
伯爵が、息子の前へペンを押した。
「書け! これ以上、審理を増やすな」
「父上……?」
「私の家督だけでも、王都へ持ち出されるかもしれんのだぞ!」
リュシアンは父親を見たあと、ペンを取った。
最初に日付を書く。その下へ、リュシアン・ランフォード。
モラン公証人とヴァレール相談役が証人欄へ署名し、書面が二通に分けられた。
一通は公証事務所へ。もう一通は、ヴェロニカへ届けられる。
玄関の鐘が鳴った。
ローレン管理官が時計を確かめる。
「次期当主候補の家令と家政婦長が到着しました。屋敷と使用人部屋の確認を始めます」
「ちょっと…… もう来たの?」
夫人の手から、二階の見取り図が卓へ落ちた。
「王家の承認には、まだ時間がかかるのでしょう?」
「領地の引き継ぎは、本日からです」
玄関広間の記名簿へ、新しい名が書き込まれた。
――アルノー・ランフォード家家令。
来訪目的の欄には、入居準備と記されていた。




