第22話 私の仕事だけ
ハーマン商会の客間で、私たちは三度目の朝を迎えた。
階下では、店を開ける前から荷車が出入りしている。布を巻いた筒が運ばれ、木箱の蓋を打つ音が響く。ランフォード家の客室より狭い部屋だったが、この三日間、夜中に呼び出されることはなかった。
「奥様、馬車が参りました」
マルタは寝間着を畳み、小さな鞄へ収めた。私の鞄も、すでに口が閉じられている。
「朝食は?」
「下でいただけるそうです。出発は一時間後ですから、急がなくても大丈夫ですよ」
急がなくてもよい朝というものを、久しぶりに過ごした。
食堂には、焼いたパンと卵、温かいスープが二人分用意されていた。ハーマンは先に店へ出ていたが、代わりに番頭が宿泊中の費用を書いた紙を持ってくる。
「こちらでよろしいでしょうか」
三泊分の部屋代と食事代。馬車を二度使った費用も加わっている。私は一つずつ確かめ、財布から代金を出した。
「モラン先生から、調査に関する費用として請求できると伺っておりますが」
「私とマルタが泊まった分は、私どもで支払います」
「では、領収書を二通に分けます。馬車代だけは先生の事務所へ」
「お願いします」
番頭はその場で紙を書き直す。支払いを終えると、マルタがじっとこちらを見ている。
「何?」
「奥様がお支払いになるのを、初めて見ました」
「そうだったかしら」
「伯爵家では、お財布をお持ちになる必要がございませんでしたから」
屋敷の買い物なら会計係へ回し、私物は夫人用の支出から落としていた。金額を決めても、自分の財布から出すことはほとんどなかった。
「これからは、給金の中で暮らすのね」
「はい。ですから、宝石もお持ちして正解です」
ふふ、と少し得意げにマルタは微笑む。
「……まだ売らないわよ」
「もちろんです」
満足そうに彼女はパンをちぎった。
*
昼前には、ローデン男爵家へ着いた。
林の中は、前に来た時より落ち葉が増えている。玄関脇の薪には布が掛けられ、厩では冬囲いの板が半分まで張られている。
荷物を下ろす間に、家政婦長が二階の部屋へ案内してくれた。
私の部屋は西廊下の奥にある。寝台と衣装箪笥、小さな机、本棚。隣は空き部屋で、授業の準備や本の保管に使ってよいという。マルタの部屋は子供部屋に近い東側に用意されていた。
「お部屋が離れておりますが、よろしいでしょうか」
家政婦長が尋ねた。
「はい。マルタはエレナ様付きですから」
「お呼びになる時は、こちらの鈴をお使いください。夜間は当番の侍女が参ります」
机の脇に細い紐が下がっている。
「着替えの手伝いは?」
「朝は侍女が一人参ります。時間は、奥様――」
家政婦長はそこで言い直した。
「先生のご希望に合わせます」
「一人でできます。髪を結う必要がある時だけ、前日にお願いします」
「承知いたしました」
窓を開けると、枠の下から細い風が入った。冬には隙間風になりそうだ。どの職人へ頼むか考えかけたところで、口を閉じる。
「こちらの窓ですが、下の枠から風が入ります」
「昨日、私どもでも見つけました。明日、建具屋が参ります」
「そうでしたか」
あっさりと、それで済んだ。
私が職人を探す必要も、費用を比べて男爵へ承認を求める必要もない。
衣装箱は箪笥の前へ、書籍の箱は隣室へ運ばれた。マルタは自分の荷物を持ち、家政婦長と一緒に東廊下へ向かう。
「また後ほど参ります」
「ええ」
それぞれの部屋へ分かれる。これも契約どおりだった。
*
昼食後、フィリップ・ローデン男爵の書斎で正式な契約書へ署名した。
内容は、先日の雇用予約契約と同じである。授業時間、休日、給金、衣装、休暇。エレナ様の学習記録を事前に確認するという一文も、最後に加えられていた。
「お名前は、現在のものでよろしいですか」
「はい。《《まだ》》、ヴェロニカ・ランフォードです」
「《《変更が決まりましたら》》、モラン公証人から知らせていただきます」
男爵は自分の名を書き、私へペンを渡した。
――ヴェロニカ・ランフォード。
今度は、夫人として家の支出を認める書類ではなく、私が働き、私が給金を受け取るための契約だった。
「続いて、マルタさんにも署名をいただきます」
「私は、席を外した方がよろしいでしょうか」
「どちらでも構いませんが、ご本人だけで確認する時間を設けます」
私は書斎を出る。廊下の長椅子で待っていると、十分ほどしてマルタが契約書の写しを持って出てきた。
「条件は同じでしたか」
「はい。お嬢様の衣装とお部屋、外出の付き添い。給金も、先日伺った額でございました」
「何か、加えてもらったことは?」
「夜間のお呼び出しが続いた場合は、翌日の勤務開始を遅らせていただきます」
「自分でお願いしたの?」
「家政婦長様から、必要だろうと言ってくださいました」
マルタは契約書の写しを胸元へ抱えた。
「奥様のお名前は、どこにもございませんでした」
「あなたの契約ですもの」
「はい。私の契約でございます」
書斎の扉が開き、男爵が顔を出した。
「本日の授業は、午後の一時間半だけにしましょう」
「すぐ始めてもよろしいのですか」
「娘が朝から待っています。ですが、荷解きもありますから、明日に延ばしても構いません」
「地図の答えを見せていただくだけなら」
「では、それでお願いします」
男爵は机の端に置かれた呼び鈴へ手を伸ばしたが、鳴らす前に廊下を走る音が近づいた。
「エレナ」
扉が開き、丸めた地図を抱えたエレナ様が入ってくる。
「走っていない」
「今、足音がした」
「最後の三歩だけ」
男爵は娘の靴を見た。
「廊下では歩きなさい」
「はい。先生、これ!」
地図の端が、私の前へ伸びた。
「まず、教室へ参りましょう。こちらは男爵様のお仕事の部屋です」
「父上も聞きたいと思う」
「聞きたいが、私は午後の手紙を片づける」
男爵は机の上の束を示した。
「終わったら、夕食の時に教えてくれ」
「分かった」
エレナ様は地図を抱え直し、今度は歩いて廊下へ出た。
教室は一階の南側にあった。大きな机が一つと、小さな机が一つ。壁には王国の地図が掛けられ、棚には読本と計算板が並んでいる。
エレナ様は大きな机へローデン領の地図を広げた。
「ここ」
川の中ほどに、青い丸がついている。
「どうして、そこへ橋を架けるのです?」
「三つの村から、だいたい同じくらいだから」
「市場までは?」
「この道を使う」
指が南へ動いた。川沿いの道を通り、西側の街道へつながっている。
「雪解けで北の道が使えない時は?」
「こっち」
今度は南へ大きく回る道だった。距離は増える。
「でも、冬だと遠くなる」
「そうですね」
「だから、本当は二つほしいわ」
地図の北側に、もう一つ小さな丸がある。
「橋を一つ架ける問題でしたね」
「一つなら青。でも、次に作るなら赤」
赤い丸は、北の村と市場を結ぶ道の途中にあった。
「二つ目を架けるお金がない場合は?」
「冬だけ、渡し舟を出す」
「冬の川は凍りませんか」
エレナ様の指が止まった。
「……凍ったら、舟は出ない」
「では、ほかの方法を考えてみましょう」
「先生は答えを知っている?」
「いくつか考えられます。けれど、どれにもお金と人手が要ります」
「橋を架けるだけじゃないの?」
「架けたあとも直します。大水の後には橋脚を調べ、板が傷めば取り替えます。橋までの道も必要です」
エレナ様は青い丸を見た。
「面倒」
「ええ。橋は面倒です」
「先生は、面倒なのに好きなの?」
「人が渡れるようになるのは、好きですよ」
青い丸の横へ、必要になる道と、近くの村から出せる人手を書き加える。エレナ様は別の紙を取り、私の書いたものを写し始めた。
一時間半が過ぎたところで、廊下から時計の音が届いた。
「今日はここまでです」
「まだ赤い方をしていない……」
「明日にしましょう」
「少しだけ」
「授業は、終わりです」
エレナ様が壁の時計を見る。
「本当に終わるの?」
「三時半までと、契約書にございます」
「前の先生は、夕食までいた……」
「私は三時半までです。続きは明日の午前に」
少女はしばらく地図を見たあと、赤い丸の横へ小さく『明日』と書いた。
「忘れないで」
「はい」
私も忘れないよう、授業記録へ書き留めた。
*
部屋へ戻ると、机の上に封書が一通置かれていた。モラン公証事務所の封蝋で閉じられている。
家政婦長の書き置きには、男爵家の使者が町から持ち帰ったとある。私は外套を脱ぎ、椅子へ掛けてから封を切った。
――ランフォード家への管理調査は、予定どおり開始されました。
――あなたの所在は、当面、本人の同意なく伝えることはしません。
――リュシアン・ランフォード殿より、あなたへ書状が預けられています。返書は当事務所を通すよう、先方へ通知済みです。
中には、夫の字で宛名を書いた封筒と、離縁協議の申立書が入っていた。
先に、夫からの手紙を開く。
――何を考えている。すぐに戻れ。
――父上も母上も、侯爵家の者に一日中質問されている。姉上まで騒ぎ出し、屋敷の仕事がまるで進まない。
――お前が集めた書類なのだから、お前が説明するのが筋だろう。
――不満があるなら、帰ってから聞く。
最後まで目を通すと、元の折り目に沿って畳む。
隣の申立書には、すでに私の名とランフォード家の名が記されている。
――求めるものは、婚姻の解消。持参財産の返還。今後の連絡を、双方の代理人を通すこと。
そこにはモラン公証人の書き置きが添えられていた。
――内容を確認し、望むなら署名を。
私は机の引き出しから、ローデン男爵家で用意してくれたペンを出し、申立書へ、今日の日付を書く。
その下へ、ヴェロニカ・ランフォードと署名した。
リュシアンへの返書には、一行だけ記す。
――今後のご連絡は、モラン公証事務所を通してください。
申立書と返書を封筒へ入れたところで、廊下を歩く足音が止まった。
「先生、夕食です」
扉の向こうから、エレナ様の声がする。
「今、参ります」
封筒を机の端へ置き、私は食堂へ向かった。




