第21話 もうベルモント夫人ではありません
オクタヴィアは、日付の下に並ぶ文を追った。
――オクタヴィア・ベルモントは、正当な理由を示さず婚家を離れ、夫からの再三の協議要請と、子供との面会提案に応じなかった。
――指定された審理にも出席せず、代理人も立てなかった。
――そのため、婚姻はすでに解消されたものとする。
紙を持つ指が止まった。
「解消ですって?!」
モラン公証人が、書状の写しを一枚めくった。
「離縁の裁定です」
「でも、私は何も聞いていないわ!」
「五通目で審理の日を知らせています」
「読んでいないもの……」
「受け取りの記録はございます」
「読まなければ、知らないのと同じでしょう?」
「手続きを行う側には、同じではございません」
オクタヴィアは、もう一度書状へ目を落とした。
――子供二人の養育権は、父であるエドモン・ベルモントに認められる。
――持ち出した品については、持参財産と認められたものを除き、期限までに返却すること。
――ベルモント家へ残した私物は、半年以内なら代理人を通して引き取ることができる。
「勝手だわ……!」
椅子が床を擦った。
「私がいないところで、こんなことを決めるなんて!」
「出席の機会は設けられています。代理人を立てることもできました」
「それを私にさせるのが、ヴェロニカの仕事でしょう?」
「ヴェロニカ夫人は、二度、返事をなさるよう勧めています」
「勧めただけよ! 具合が悪い私に、法律事務所まで行けというの?」
モラン公証人が、二通目の写しを指した。
「ベルモント邸へ戻る必要はない。王都の法律事務所で面会できる。旅費と宿泊費は先方が負担する、とあります」
「王都へ行くのだって大変でしょう!?」
「三通目では、ベルモント領までの馬車と宿を用意すると申し出ています」
「だから、行けなかったのよ!」
「では、その旨を返す必要がございました」
白い薔薇の箱が、伯爵夫人の膝から卓へ移された。
「オクタヴィア、どうしたの?」
「お母様、私、離縁されているわ」
「何ですって?」
「二か月も前に!」
伯爵夫人は書状を受け取り、同じ行を二度読んだ。
「……何かの間違いでしょう。だってあなたは、ずっとここにいたのよ」
「ランフォード家に《《滞在》》していたことと、《《婚姻が続いている》》ことは別です」
モラン公証人の言葉に、夫人が顔を上げた。
「親元で療養している娘を、夫が一方的に捨てられるものなの?」
「八か月の間に、六度の連絡がありました。協議、面会、審理のいずれにも応じておられません」
「八か月……?」
夫人は娘を見た。
「あなた、戻ってきたのは春先ではなかった?」
「だから、まだ八か月でしょう?」
「まだ?」
「病気が治るまで待ってくれてもよかったのよ。夫婦なのだから」
オクタヴィアは母親の手から書状を取り返した。
「お父様に話すわ。ランフォード家から抗議すれば、取り消せるでしょう」
赤い紐の束を追い、文書庫へ向かう。モラン公証人も六通の写しを集め、後に続いた。
*
「離縁が成立していた?」
ランフォード伯爵は、橋までの地図を広げたまま、娘の書状を受け取った。
「どういうことだ。ベルモント家は、こちらへ何も言ってこなかったぞ」
「成人したご本人へ通知されています。実家の当主へ、別に《《知らせる義務はございません》》」
「しかし、娘は当家で暮らしている」
「先方も承知しています。一通目から三通目までは、こちらの屋敷へ届けられました」
モラン公証人は、受取記録の写しを出した。
一通目はハロルド。二通目はオクタヴィア付きの侍女。三通目から五通目までは、オクタヴィア本人が受け取った印がある。六通目も、配達人と玄関番の署名がそろっていた。
「だから、そんな印、いちいち覚えていないわ」
「受け取ったことは覚えているのだろう?」
伯爵の問いに、オクタヴィアは唇を尖らせた。
「同じような手紙ばかりだったもの。私を急かして、返事をさせようとするものばかりでしょう?」
「返事を求める手紙だからな」
ヴァレール相談役は地図の端へ定規を置いた。
「それで、あなたは何をしたい?」
「離縁を取り消したいわ」
「ベルモント家へ戻るのか?」
「今すぐは無理よ。こんなことをされた後で、どんな顔をして戻れと言うの?」
「では、エドモン殿に何を求める?」
「私が落ち着くまで待って、迎えに来ることよ」
ヴァレール相談役は、モラン公証人へ向き直った。
「先方は復縁を望んでいるのか」
「望んでおりません」
オクタヴィアの指が、書状の端を強く折った。
「そんなの、今はそう言っているだけでしょう」
「エドモン殿は、離縁裁定の一か月後に再婚されています」
今度は、伯爵夫人の持っていた薔薇が卓へ落ちた。
「再婚?」
「ベルモント家の縁戚に当たるセシル夫人です。以前に夫を亡くされ、オクタヴィア様が家を出た後、オスカー様とリリアナ様の世話を手伝っておられました」
「あの女?」
オクタヴィアは立ち上がった。
「私の家へ入り込んで、私の子供たちを取ったの?」
「オクタヴィア様が家を出たのは、八か月前です」
「二、三日だけ、実家で休むつもりだったのよ」
「衣装と宝飾品を馬車へ積み、お子様方には二、三日で戻ると告げた。ベルモント家の使用人は、そのように証言しています」
「本当に具合が悪くなったのよ!」
「帰れないという返事が、先方へ届いたことはございません」
オクタヴィアは父親の机へ両手をついた。
「お父様。すぐにベルモント家へ行って。セシル夫人を追い出して、子供たちを連れ戻してちょうだい」
「なぜ私が、ベルモント家の夫人を追い出せるのだ」
「私の子供たちがいるのよ!」
「お子様方との面会についても、回答が来ています」
モラン公証人が、別の書状を父娘の間へ置いた。
「面会は一度、ベルモント領で行う。代理人と養育係が同席する。ランフォード家へお子様方を預ける予定はない、とのことです」
「一度だけ?」
「裁定後も、オクタヴィア様から面会の申し出がなかったためです」
「だって、離縁されたと知らなかったのよ」
「三通目には、オスカー様が高熱を出したことも、リリアナ様が夜に母親を探していたことも書かれています」
オクタヴィアの口が少し開いた。
「あれは…… ずっと前の手紙でしょう?」
「七か月前です」
「今は元気なの?」
「先方の報告では」
「《《なら、よかったじゃない》》」
伯爵夫人が娘の腕へ手を添えた。
「まずは会いに行きましょう。顔を見れば、子供たちも母親を思い出すわ」
「ベルモント領まで何日かかると思っているの? 今の体では無理よ」
「では、いつ行くの?」
「もう少し元気になってから」
「医師を呼びましょう」
「大げさにしないで。横になっていればよくなるの」
伯爵夫人の手が離れた。
「では、私にどうしろと言うの?」
「お母様から、エドモンへ手紙を書いて。子供たちをこちらへ連れてくるように」
「先方は連れてこないと返事をしているのでしょう?」
「そこを何とかするのが家族でしょう!」
文書庫の隅で、リュシアンが顔を上げた。友人へ出す手紙は、まだ二行しか進んでいない。
「ちょっと待て、姉上は、ベルモント夫人ではないのか?」
「今その話をしているのよ!」
「では、あの部屋をずっと使うのか?」
「この期に及んで部屋の話?」
「友人が三人来るんだ。いつ帰るのか分からないと、部屋を決められない」
「帰る家を奪われたのよ。実家にいるに決まっているでしょう!」
伯爵の前にあった地図が、二人の手で少しずつ押され、南の橋の部分が卓から垂れた。
「待ちなさい」
伯爵夫人が娘と息子の間へ入る。
「オクタヴィアがここで暮らすなら、衣装部屋も必要でしょう。南の客室を、お客様用にすればよいわ」
「日当たりが悪いと姉上が言った部屋だぞ」
「お客様は三日でしょう?」
「まだ返事が来ていない!」
「では、早くお出しなさい」
白い薔薇を持った侍女が、文書庫の入口で注文票を抱え直した。
ヴァレール相談役が、卓から垂れた地図を引き上げる。
「家族の話は、別室でしろ。こちらは橋の確認を続ける」
「まだ終わっていないわ!」
オクタヴィアが六通目を突き出した。
「この裁定を何とかしてちょうだい」
「モラン。取り消せるのか」
伯爵も同じものを公証人へ押しつけた。
「書状を読まなかったことを理由に、裁定を取り消すことはできません」
「では、どうすればいい」
「オクタヴィア様は、現在の身分に従って暮らすことになります。ベルモント家へ残した私物の引き取り、持ち出した品の確認、お子様方との面会。必要な手続きは私どもで文面を整えられます」
「それを、あなたが全部してくださるの?」
オクタヴィアがすぐに尋ねた。
「お決めいただいた内容を書面にいたします」
「では、うまく決めてちょうだい」
「私物を引き取りますか?」
「何が残っているか覚えていないわ」
「一覧を先方へ求めます。お子様との面会は?」
「こちらへ来てもらいたいの」
「ベルモント領での面会を受けるか、お断りするかです」
「どうして、その二つしかないの?」
「先方が提示した条件だからです」
モラン公証人は新しい便箋を取り出した。
「まず、どちらになさいますか」
オクタヴィアは母親を見た。伯爵夫人は、侍女から花屋の注文票を受け取っている。
「お母様」
「面会でしょう? 行った方がよいわ」
「簡単に言わないで。旅をするのは私なのよ」
「では、お断りなさい」
「子供を捨てた《《みたいになる》》じゃない!」
伯爵夫人は、注文票の客室欄へ数字を書き入れた。
「自分で決めてちょうだい。私も今、決めることがあるの」
モラン公証人が、便箋の上部へ日付を書いた。その下を空け、オクタヴィアの前へ置く。
「お名前からお願いいたします」
オクタヴィアはペンを取り、長年使ってきた名を書いた。
オクタヴィア・ベルモント。
モラン公証人の指が、最後の姓の下で止まった。
「ベルモント家へ出す書状には、そちらのお名前は使えません」
「では、何と書くの?」
「裁定後の名義は、オクタヴィア・ランフォードです」
紙の上で、ベルモントの名に一本の線が引かれた。




