第2話 いつになったら孫の顔を
北の村から届いた報告書には、水路のひびが三か所増えたとあった。
現地を見た管理人は、次に大雨が降れば一部が崩れる可能性があると書いている。水門そのものも古く、板を替えるだけでは済まないらしい。
私は地図を開き、報告書に記された場所へ印をつけた。
水路が崩れた場合、直接困るのは二十七戸。そこから水を引いている牧草地まで含めれば、影響はさらに広がる。
「資材を先に確保しておくことはできますか?」
向かいに座る家令のベネットへ尋ねると、彼は手元の帳面をめくった。
「石材は押さえられます。ただ、今月中に契約金を入れなければ、別の領地へ回されるそうです」
「いくら必要です?」
示された額は、予想より少し高い。それでも、昨日届いた四通の請求書に比べれば半分にも満たない。
「運搬費を含めて、この金額ですね」
「はい。工事を始める場合は、職人への前金が別に要ります」
「南の橋の補修費を一部回せないでしょうか」
「橋は秋まで持ちません」
「そうでしたね」
わかっていて尋ねた。
帳面を見直したところで、使える金が増えるはずもない。だが、どこかに見落としがないかと探してしまう。
ベネットも同じらしく、項目を一つずつ指で追っている。
「……王都屋敷の維持費は、これ以上減らせません。閉めている部屋が多いため、来年には壁紙や床の張り替えが必要になるかもしれません」
「今使っている部屋だけ先に直しましょう。残りは来年以降で構いません」
「馬車の修理は?」
「一台ずつにしましょう。領地用を先に」
王都で使う馬車は、塗装が少し剥げているだけだ。
義母は人目が悪いと言うだろうが、車輪の傷んだ領地用馬車を放ってはおけない。あれは医師を村へ運ぶ時にも使っている。
「……若奥様」
ベネットが声を落とした。
「昨日の請求書は、やはりお支払いになるのでしょうか」
「まだ決まっていません」
「しかし、期限が」
「今夜、リュシアン様へ相談します。お義父様にも確認していただきます」
答えると、ベネットは帳面を閉じた。彼が何を考えたかは、聞かなくてもわかる。
これまでにも同じことがあった。
義母が慈善会のために新しい茶器をそろえたいと言った時も、リュシアンが友人との狩猟に馬を三頭連れていった時も、最後には領地の予算から金が出た。
家の者は、伯爵家の金は一つだと考えている。領地の金も、王都屋敷の金も、家族の小遣いも、すべて同じ財布に入っているらしい。
足りなくなれば、私がどこかを削る。それで三年間、どうにかしてきた。
「……北の村には、まだ返事を出さないでください」
「かしこまりました」
「ただし、崩れた場合に備えて土嚢を用意するよう伝えてください。人手が要るなら、領兵を回します」
「すぐに手配いたします」
ベネットが書類をまとめ、執務室を出ていく。
次に入ってきたのは、屋敷の会計を担当している書記だった。厨房の仕入れ代、馬の飼料代、使用人の給金。確認して署名しなければならない書類は、まだ机の端に積まれている。
私は昼食までに半分を終え、残りは午後へ回した。
*
「ヴェロニカ、こちらへいらっしゃい」
昼食を終えて席を立とうとすると、義母に呼び止められた。
食堂の窓際には、午後のお茶が用意されている。
義父もまだ席を立たず、新聞を広げていた。いつもなら食後は書斎へ行く人なので、義母から何か話があるのだろう。
「はい、お義母様」
「今日は少しゆっくりできるのでしょう?」
「午後から、領兵の冬支度について打ち合わせがございます」
「またお仕事?」
義母は困ったように笑った。
「あなたは本当に働き者ね。少しくらい休まなくては、体を悪くしてしまうわ」
「ありがとうございます。打ち合わせが終われば、今日は早めに切り上げます」
「そうしてちょうだい。若いうちに無理をするものではないわ」
侍女が茶を注いだ。
義母はカップを取り、香りを確かめてから口をつけた。私にも勧めるので、向かいの椅子へ座る。
「それでね、ヴェロニカ」
「はい」
「そろそろ、《《よい知らせ》》を聞かせてもらえないかしら」
何の話かは、すぐにわかった。この一年、何度も同じことを尋ねられている。
「リュシアン様とは、仲よくしております」
「そういうことを聞いているのではないのよ」
義母は声を立てて笑った。
「孫の顔よ。あなたたちも結婚して、もう三年になるでしょう?」
義父が新聞から顔を上げた。
「確かに、そろそろ跡継ぎがいてもよい頃だな」
「でしょう? リュシアンも今年で二十八ですもの。いつまでも新婚気分では困るわ」
新婚気分。
そんなものを味わった覚えは、ほとんどない。
結婚した最初の月は、それでも夫婦で夕食を取る日もあった。二月目にはリュシアンが王都へ出ることが増え、三月目からは一週間顔を合わせないことも珍しくなくなった。
領地の仕事を始めてから、私の一日は早くなった。
朝食前に報告書を読み、午前中は家令や書記と打ち合わせをする。午後は屋敷の管理か領内の視察。夕食後も書類が残っていれば執務室へ戻る。
リュシアンは、私が寝室へ入る前に戻っている日もあれば、朝になっても帰らない日もある。
「リュシアン様はお忙しい方ですから」
私がそう答えると、義母は少し眉を寄せた。
「仕事ばかりしているから、すれ違うのではなくて?」
「私の仕事のことでしょうか?」
「ええ。領地のことは家令に任せればよいのよ。あなたが毎日、帳簿とにらめっこをする必要はないでしょう」
義母の言葉に、義父もうなずいた。
「ヴェロニカは責任感が強すぎる。少し手を抜くことを覚えてもよい」
用水路の修繕を頼んだ時、義父は私へ任せると言った。診療所へ医師を増やしたいと相談した時も、好きなように進めればよいと言った。
今度は、家令へ任せて手を抜けと言う。
だが、その家令が何度申請を出しても、義父は書類を読まなかった。
「領内には、まだ急いで直すべき場所がございます」
「急ぐといっても、一日二日でどうにかなるものではないだろう」
「はい。ですから、早めに準備をしております」
「真面目ねえ」
義母はカップを戻し、私のドレスへ目を向けた。
「それに、その服も地味すぎるわ。リュシアンが帰ってきても、仕事着のような格好ばかりしているのでしょう?」
「領内へ出る日は、この方が動きやすいものですから……」
「夫を迎える時くらいは、きれいになさらなくては。男の人は、そういうものよ」
薄い青の昼着は、三年前に作ったものだ。
袖口を二度直し、裾も一度取り替えた。それでも生地は丈夫で、領内を歩く日に重宝している。
義母は、私が新しいドレスを作らないことを何度か注意し、私はそのたびに、領地の修繕が一段落したらと答えてきた。
だが一段落する日は、まだ来ない。
「王都へ行って、新しいものを仕立ててきなさいな。オクタヴィアがよい店を知っているわ」
昨日の請求書にあった店だろう。
「今は領地を離れにくい時期ですので」
「またそれね。リュシアンの妻であることも、あなたの大切な務めでしょう?」
「承知しております」
「だったら、もう少し夫のために時間を使いなさい。子供のことだって、あなた一人でできるものではないのよ」
わかっている。だからこそ、私へ言われても困る。
それでも義母に「あなたの息子が屋敷へ帰らないからです」とは言えなかった。
夫婦のことを両親へ訴えるのは、リュシアンの顔を潰す。妻として、まず本人と話すべきだと考えてきた。
何度か彼には、夕食を一緒に取りたいと伝えた。だが返事はいつも同じだった。
「予定がわかれば知らせるから」
……知らせが来たことは少ない。
「今夜、リュシアン様がお戻りになると伺っております」
「まあ、ちょうどよかったわ」
義母の顔が明るくなる。
「では今夜は、二人でゆっくり過ごしなさい。仕事は明日に回して」
「はい」
「寝室にも、花を飾らせましょう。香りの強いものは嫌いだったかしら?」
「白い薔薇なら、リュシアン様もお嫌いではないと思います」
「では、それにしましょう」
義母は満足したらしく、今度は来月の茶会の話を始めた。私は茶を飲みながら、午後の予定を頭の中で組み直す。
――領兵との打ち合わせを早める。
――冬服の見本を確認する。
――北の水路に回す土嚢の数も決めておきたい。
――夕食前には着替え、髪を結い直す。
――請求書を夫へ見せる。
――用水路の契約金についても相談する。
今夜こそ、帰宅してくれればよいのだが。




