第1話 義姉の一か月分
「若奥様」
朝食を終え、領内から届いた報告書に目を通していると、執事のハロルドが銀盆を持って入ってきた。
「王都の商会から、ランフォード伯爵家宛てに請求書が届いております」
「こちらへ」
盆の上には、封書が四通載っていた。どれも上等な厚紙を使い、店の名を金で型押ししてある。
王都でも名の通った帽子店、宝飾店、香水店。そして、王侯貴族を顧客に持つ仕立て店。
封を切る前から、誰の買い物か見当はついた。
一通目を開き、明細を確かめる。帽子が三つ。飾り羽根とリボンは別料金。二通目には首飾りと耳飾り。三通目は香水が六本。最後の仕立て店には、昼の訪問着二着と夜会用のドレス一着、それに外套まで記されていた。
「……お義姉様」
オクタヴィアお義姉様が王都へ出かけたのは、先月だけで五度になる。そのたびに「気晴らしをしてくるわ」と笑っていた。気晴らしにしては、ずいぶんと高くついた。
四通の合計を出して、もう一度計算する。数字は変わらない。
この額があれば、北の村の用水路を直せる。
雪解け水で崩れた土手を石で固め、ひびの入った水門も取り替えられる。資材を運ぶ荷馬車の代金まで含めても、まだ少し余るだろう。
去年、村長は古びた帽子を両手で持ち、執務室の前で何度も頭を下げたものだ。
「今年は修繕できそうにありません」
そう伝えたのは私だ。
石材の値が上がり、冬前には南の橋も直さなければならなかった。両方を行えば、領兵の給金が足りなくなる。次の修繕予算まで待ってほしいと頼むと、村長は「畑へ水が引けるうちは大丈夫です」と笑って帰っていった。
大丈夫なはずがない!
水路の土は少しずつ削れている。今年の雪解けが早ければ、春の作付けに間に合わなくなる。
それでも待ってもらった。
……オクタヴィアお義姉様の帽子とドレスは、その工事より高かった。
「お支払いは、まだでしょうか」
「三店は月末まで。仕立て店は来週までとなっております」
「わかりました。いったん預かります」
ハロルドが一礼して下がる。扉が閉じてから、請求書を四通とも机へ並べた。
北の用水路――南の橋――領兵の給金――小麦の種を買うための貸付金――冬の間に屋根が落ちた診療所。
この三年、足りない金を何へ回すか、そればかり考えてきた。
そして目の前の四枚の明細には、帽子、宝石、香水、ドレスと並んでいる。
……私は一体、この家で何をしてきたのだろう。
***
私、ヴェロニカがランフォード伯爵家へ嫁いで、三年になる。
サデライン子爵家の次女として育ったが、実家の領地は狭く、収穫も天候に左右されやすいところだった。
華やかな暮らしとは縁がなかったが、父は領地のことをよく知っていた。
――雨が三日続けば、どの道がぬかるむか。
――夏の暑さが長引けば、どの畑から水が足りなくなるか。
――冬を越す前に、どの家の屋根を直すべきか。
父は食卓でも領地の話をした。幼い私が横で聞いていると、難しいからと追い払わず、地図を広げて教えてくれた。
「領主が知らずに済ませることは、領民が困ることだと思いなさい」
母も同じだった。ドレスの仕立てや茶会の作法を教える一方で、倉庫の棚卸しや使用人の配置にも私を連れていった。
――帳面の数字だけを見てはいけない。
――冬服の傷みが早いなら、屋敷のどこかに隙間風が入っている。厨房で薪の減りが増えたなら、かまどが傷んでいるかもしれない。馬の飼料が余る月には、馬車が必要な場所へ出ていないこともある。
そうしたことを一つずつ覚えた。
そして十八の時、ランフォード伯爵家から縁談が来た。
先方が格下の家の私を望んだ理由は、聡明で《《実務に明るい令嬢》》だと聞いたからだという。
格上の伯爵家は領地も広く、王都には立派な屋敷がある。父も母も喜んだ。
「お前なら、きっとよい伯爵夫人になれる」
父の言葉にうなずいた時、私もそうなりたいと思っていた。
夫となるリュシアンは、婚約中から口数の多い人ではなかった。それでも、領地について尋ねれば答えてくれたし、私が学んできたことにも耳を傾けてくれた。
「結婚後は、好きに力を振るってくれて構わない」
彼の言葉を、その時は信頼だと思った。
*
嫁いだ翌朝、義父であるランフォード伯爵から執務室へ呼ばれた。
「領地のことは、これまで家令に任せてきた」
机の上には、数年分の報告書が積み上げられていた。
「あなたは《《実務が得意》》だそうだね。手伝ってもらえると助かる」
「もちろんです」
伯爵家の夫人になるのだから、領地の仕事に関わるのは当然だと思った。だがやがて、この地の軋みが見えてくる。
*
最初に気づいたのは、屋敷へ届く野菜の量だった。
厨房には大勢の使用人がいるのに、領内から運ばれる野菜が妙に少ない。料理長へ尋ねると、不足分は町の市場から買い足しているという。
「伯爵家の菜園では足りないのですか」
「菜園の水はけが悪くなっております。もう何年も前から、半分ほどしか使えません」
庭師へ話を聞けば、排水溝が土で埋まったままになっていた。修繕の申請は三度出したが、返事がなかったという。
翌週、領内の村を回った。
道は雨のたびに泥へ沈み、橋の欄干は腐っていた。共同倉庫の屋根からは水が入り、濡れた穀物を捨てた村もある。
診療所には医師が一人しかおらず、薬草を乾かす棚は壊れていた。領兵の詰所では、冬服の支給が二年遅れていた。
報告が上がっていなかったわけではない。
どの村にも申請書の控えが残っていた。村長たちは代替わりするたびに同じ願いを書き、返事を待っていた。
伯爵家の執務室にも書類はあった。
……ただ積まれていただけだった。
「お義父様、北の村の水路は早急に修繕が必要です」
「そうか。では、あなたに任せよう」
「南の橋も、この冬を越せないかもしれません」
「それも頼む。あなたは本当にしっかりしているね」
義父は穏やかな人だった。怒鳴ることも、無理を押しつけることもない。
私が相談へ行くたびに、感心したように褒めてくれた。
*
義母も優しかった。
「ヴェロニカが来てくれて、本当に助かったわ。私には難しいことばかりで」
そう言って、茶会や慈善会の招待状をこちらへ回した。
屋敷の修繕費が足りないと相談すれば、
「あなたなら、どこを節約すればよいかわかるでしょう?」
と微笑んだ。
*
夫のリュシアンにも何度か相談した。
「領地を一緒に見て回りませんか。村長たちも、次期当主であるあなたに会いたがっています」
「父がまだ当主だ。私が出る必要はないだろう」
「ですが、いずれはあなたが引き継ぐのですから……」
「その時になれば考える。それに、お前は《《そのために》》嫁いできたのではないのか」
婚約中に言われた「好きに力を振るってくれて構わない」は、私へ領地を任せるという意味ではなかった。
――自分は関わらないから、私が勝手に処理してよい。
そういう意味だった。
それでも、仕事を放り出すわけにはいかなかった。
水路を放っておけば畑が枯れる。橋が落ちれば、村から町へ作物を運べなくなる。医師が倒れれば、冬を越せない者が出る。
領民にとって、誰が申請を読んだかは問題ではない。
直るか、直らないか。薬が届くか、届かないか。春に種をまけるか、まけないか。
必要なのは、それだけだ。
*
最初の一年は、不要な支出を減らした。
使われていない王都屋敷の客室を閉め、維持費を抑えた。古くなった馬車をすべて新調するという計画は取りやめ、修理できる二台を残した。
宴会用に毎年買い替えていた銀器も、磨けばまだ使えた。倉には一度しか使われていない食器や敷物が積まれており、台帳にも載っていなかった。
二年目には、農作物の運搬路を見直した。
遠回りをして町へ運んでいた村には、隣領との境にある古道を使えるよう交渉した。共同倉庫も三か所直した。
三年目に入って、ようやく税収が少し戻った。
この春には、領兵の冬服を全員分そろえる予算も確保できた。診療所には若い医師が一人増えた。菜園の排水溝も直り、今年は厨房で使う野菜の半分を屋敷内で賄えるという。
北の用水路も、次の予算で修繕できるはずだった。そのために残していた金がある。
……だが、オクタヴィアお義姉様の買い物代を払えば、ほとんど消える。
***
机の上の呼び鈴を鳴らすと、ハロルドがすぐに戻ってきた。
「旦那様は、今夜お戻りになりますか」
「リュシアン様からは、夕食までには戻ると連絡がございました」
「では、帰宅されたらお話ししたいと伝えてください」
「かしこまりました」
請求書を封筒へ戻す。これは、私が勝手に決めてよい支出ではない。
オクタヴィアお義姉様は、ランフォード家の娘だ。王都で何を買い、誰が代金を払うのか。それはまず当主である義父と、次期当主のリュシアンが決めるべきことだった。
これまで私は家の者が放り出した仕事を拾ってきた。領地の修繕も、使用人の配置も、家計の立て直しも。拾わなければ、誰かが困るからだ。
けれど、帽子も宝石も香水も、放っておいて領民が飢えるものではない。
夕方には、夫へ請求書を渡そう。家の金をどう使うつもりなのか、今度こそきちんと聞かなければならない。
そう考えながら、北の村から届いた報告書を開いた。
水路のひびは、先月より長くなっていた。




