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「何とかするのがお前の仕事だろう」と言われましたので、すべてを引き継いで出ていきます。  作者: さんけい


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第19話 ヴェロニカがいない朝

 朝食は、いつもより十五分遅れて始まった。


 料理長のベルダが厨房へ姿を見せず、焼き上がったパンをどの籠へ盛るのか、若い料理人たちが迷ったためだ。卵は少し固くなり、最初に運ばれたコーヒーは、ランフォード伯爵が席に着く頃にはぬるくなっていた。


「今朝は、ずいぶん手際が悪いな」


 伯爵はカップを受け皿へ戻し、新聞を開いた。


「ベルダはどうしたの?」

「朝から姿が見えないそうでございます」


 給仕をしていた若い侍女が答えると、伯爵夫人は眉を寄せた。


「だったら、マーサが厨房へ行けばよいでしょう?」

「家政婦長も、お部屋にいらっしゃいません」

「まあ。どこへ行ったのかしら」


 伯爵夫人はパンを取り、木苺のジャムを塗った。


「それより、花屋から見本は届いたの? 今日中に決めなければ、茶会の日に白薔薇をそろえられないと言っていたでしょう」

「存じません」

「ヴェロニカへ聞いてちょうだい。見積書もあの子が持っているはずよ」


 向かいでは、リュシアンが卵の皿を押しやっていた。


「ハロルドはまだ来ないのか。客室の寝具を確認すると言っていたはずだ」

「執事も、今朝はお見かけしておりません」

「何だ、それは」


 リュシアンが椅子の背へもたれた。


「呼んでこい。ロベールたちへの返事も聞いていない」

「かしこまりました」


 侍女は動こうとしたが、今度はオクタヴィアが呼び止めた。


「その前にマーサを探してちょうだい。私の衣装をどこへ移すのか、まだ返事をもらっていないのよ。今日から箱へ詰める約束でしょう?」

「はい……」

「大きい方の箪笥は、動かさなくてよいと思うの。お客様が帰ったら、また元の部屋へ戻すのだもの。ドレスだけ運べば十分でしょう?」

「私には、分かりかねます」

「では、ヴェロニカに決めてもらって」


 侍女が困ったように食卓を見回す。

 その時、別の給仕が五つ目のカップへ茶を注いだ。細い湯気が上がっている。その席に人はいない。

 伯爵夫人が、ようやく空席へ目を向けた。


「ヴェロニカは、どうしたの?」

「まだお見えになっておりません」

「寝坊かしら。珍しいわね」


 リュシアンは鼻を鳴らした。


「昨夜も遅くまで執務室にいたのだろう。あれほど仕事を抱えるなと言っているのに」

「体調を崩したのかもしれないわ。お部屋を見てきてちょうだい」


 侍女が食堂を出ていった。

 伯爵は二杯目のコーヒーを求めたが、給仕は新しいポットの場所が分からず、いったん厨房へ戻った。オクタヴィアはパンの焼き色が濃いと言い、リュシアンはハロルドが来るまで食事を下げるなと命じる。

 空席の前で、茶の湯気だけが細くなっていった。

 やがて、先ほどの侍女が駆け足で戻ってきた。


「旦那様、奥様」


 扉の前で足を止め、息を整える。


「若奥様のお部屋が、空になっております」

「空?」


 リュシアンが顔を上げた。


「どういう意味だ」

「お姿がございません。マルタも、部屋におりません。旅行箱も……」


 椅子の脚が鳴った。最初に立ち上がったのはリュシアンだった。


「見てくる」


 伯爵夫妻とオクタヴィアも、揃って食堂を出た。


 *


 夫人用の居室は、扉が少し開いていた。

 リュシアンが押し開けると、朝の光が箪笥の中まで差し込んでいる。扉も引き出しも開けられ、中に残された衣装が一目で分かるようになっていた。

 寝台の上には、毛皮の外套と宝石箱、扇や腕輪が並んでいる。


「あら、これ……」


 伯爵夫人が毛皮へ手を触れた。


「最初の冬に、リュシアンが贈った物でしょう?」

「そうだったか?」


 リュシアンは宝石箱を開いた。結婚祝いの首飾りと耳飾りが、布の上に収まっている。


「どうして置いていったのかしら」

「怒っているのよ」


 オクタヴィアが鏡台の前へ進んだ。


「昨日、私が仕事を人へ押しつけていると言ったから、当てつけをしているのだわ。だからって、こんな大騒ぎをしなくてもいいでしょう?」


 鏡台の引き出しには、紙が二枚置かれていた。

 リュシアンが取り上げる。一枚目には、サデライン子爵家から持参した品の一覧と、搬出した箱の数。二枚目には、伯爵家から贈られ、部屋へ残した品が記されている。


「自分の物だけ持ち出している」


 リュシアンの指が、紙の下まで進んだ。


「衣装も本も、実家から持ってきた物だけだ。伯爵家で買った物は、ほとんど残している」

「では、実家へ帰ったのね」


 伯爵夫人は安心したように言った。


「夫婦喧嘩でしばらく帰る令嬢は珍しくないわ。リュシアンが迎えに行けば済むでしょう?」

「俺が?」

「もちろんよ。ヴェロニカだって、あなたが来るのを待っているはずよ」

「勝手に出ていったのはあいつだぞ」

「だから、少し優しくしてあげればいいのよ」


 オクタヴィアは寝台の上の外套を持ち上げた。


「これ、ヴェロニカが使わないなら、私がもらってもよいかしら。まだ傷んでいないわ」

「今はその話ではない」


 リュシアンが外套を取り上げ、寝台へ戻した。


「手紙はどこだ」

「こちらには、この一覧だけでございます」


 侍女が答える。


「なら、執務室だ。あいつは何でも、あそこへ置く」


 *


 廊下へ出たところで、ランフォード伯爵が声を上げた。


「ハロルドを呼べ。屋敷の者がいなくなったというのに、執事は何をしている!」


 近くにいた下働きの青年が、慌てて頭を下げた。


「ハロルド様は、朝六時前にお屋敷を出られました」

「出た?」

「正面玄関へ馬車が参りまして……侯爵家の東屋敷からだと伺いました」

「何をしに行ったのだ」

「私どもには、何も」

「では、マーサを」

「マーサ様は五時半頃、南の通用門から」

「ベネットはどうした!」


 青年の返事が詰まった。


「西門から、お出になったそうでございます」

「皆、出たというのか?」


 伯爵の声が玄関広間へ響いた。

 会計係のポールも、書記のニールも、御者頭のジョナスも見当たらない。料理長のベルダを含め、屋敷と領地の実務を知る者が、朝六時までにそれぞれ別の門から出ていた。

 残った使用人たちは、普段の仕事を続けるよう書き置きを受け取っているだけだった。給金も住まいも保証される、午前十時まで持ち場を離れないように――その指示が誰から出たのか、封書を渡された者にも分からない。


「どうして私へ知らせなかった!」


 伯爵が怒鳴ると、青年はさらに頭を下げた。


「私が起きた時には、もう……」

「執務室を開けろ」

「鍵は、ベネット様がお持ちでございます」

「予備があるだろう」

「文書庫の予備鍵は旦那様へ返すと、一覧にございましたが……」

「受け取っておらんぞ!」

「封をして、執務室へ置いたと」


 伯爵は自ら廊下の奥へ向かった。

 執務室の扉には鍵が掛かっている。取っ手を二度引き、拳で扉を叩いたが、中から返事があるはずもない。


「壊して開ければよいでしょう」


 リュシアンが言った。


「待ちなさい」


 伯爵夫人が止める。


「重要な書類がある部屋よ。扉を壊して、何かあったら困るでしょう?」

「では、どうするんだ」

「ヴェロニカへ聞けば……」


 口にしてから、伯爵夫人は廊下の端を見た。

 そこにも、ヴェロニカはいなかった。


 *


 午前十時。

 玄関広間の大時計が一度目の鐘を鳴らすと同時に、門の外から馬車の音がした。

 黒い馬車が二台。後ろには、侯爵家の管理所の印をつけた荷馬車が続いている。

 先頭の馬車から降りたのは、ダリウス・ローレン領地管理官だった。次にセドリック・ヴァレール相談役が杖を手に降り、二台目からエドガー・モラン公証人が現れる。

 三人を応接室へ通すよう、伯爵は命じた。


「その前に、こちらを」


 ローレン管理官は玄関広間で、紋章入りの書状を差し出した。


「本日午前十時をもって、アルマンド侯爵家は、ランフォード伯爵家の領地および家政に関する正式な管理調査を開始いたします」

「正式な……?」

「先日の質問書は、事前確認です。今後、大きな支出、新規契約、所有財産の搬出には、侯爵家管理所の承認が必要となります。領地、王都屋敷、当屋敷の文書と鍵は、調査終了まで管理所がお預かりします」


 伯爵は書状を受け取ったまま、三人の顔を見比べた。


「これは、ヴェロニカが出ていったことと関係があるのか?」

「ヴェロニカ夫人が退去なさることは、承知しております」

「知っていたのか!」


 リュシアンが前へ出た。


「いつからだ。妻をどこへやった」

「退去先をお伝えすることはできません」


 モラン公証人が答えた。


「今後、ヴェロニカ夫人への連絡は、私どもの事務所を通してください」

「俺は夫だぞ」

「存じております」

「なら、妻がどこにいるか教えろ」

「ご本人が、直接の連絡を望んでおられません」


 リュシアンの口が開いたまま止まった。


「まあ、待ってください」


 伯爵夫人が二人の間へ入る。


「何か《《行き違い》》があったのでしょう。家族で話せば済むことですわ。ヴェロニカは《《少し疲れている》》だけです。あの子は真面目ですから、考えすぎてしまうところがあって」

「三年間、ほとんど休まず働いたという証言は受けております」


 ローレン管理官は手元の書類をめくった。


「それを『少し疲れている』と呼ぶかどうかも、調査で確認いたしましょう」

「でも、私の衣装はどうなるのです?」


 オクタヴィアが尋ねた。


「客室を空けなければならないのです。マーサまでいなくなってしまって、誰に頼めばよいのかしら」

「オクタヴィア様の衣装と、当家の管理調査にどのような関係が?」


 オクタヴィアは答えず、母親のそばへ下がった。

 ヴァレール相談役は、懐から一本の鍵を出した。


「まず、執務室を確認する」

「その鍵を、どこで?」


 伯爵が尋ねる。


「ベネットから預かった」


 老人は廊下の奥へ進み、執務室の鍵を開けた。

 机の上には、赤、青、白の紐で分けられた書類が並んでいた。その右端に、ランフォード伯爵の名を書いた封筒がある。

 モラン公証人が封筒を取り、伯爵へ渡した。


「ヴェロニカ夫人からです」


 伯爵はその場で封を切った。


 ――本日をもって、私、ヴェロニカはランフォード伯爵家を離れます。

 ――私の個人財産は、持参品一覧に従って搬出しました。伯爵家から贈られた品は、居室内に残しております。

 ――領地および家政に関する書類、鍵、引き継ぎ書は、すべて執務室へ置きました。

 ――今後の連絡は、モラン父子公証事務所を通してください。


 伯爵夫人は、読み終えた夫の手から手紙を取った。リュシアンが横からのぞき込み、オクタヴィアも最後の一行を読む。


「これだけ?」


 リュシアンが言った。


「理由も書かずに、勝手に出ていったのか」

「理由なら、三年間に何度も聞いていたはずだ」


 ヴァレール相談役が赤い紐の束を手元へ引き寄せた。

 紐を解くと、一番上に南の橋の書類が現れた。


 ――石材到着予定、十日後。

 ――現場責任者、職人頭ロイス。

 ――受取後、当主承認。


「では、最初から始めよう」


 ヴァレール相談役は、その一枚をランフォード伯爵の前へ置いた。


「十日後に届く石材を確認し、受け取りを承認するのは誰だ」



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