第18話 その時には、私はいない
三日間、私はいつもどおりに働いた。
南の橋へ届く石材の数を確かめ、領兵の冬服の仕立て上がり日を一覧へ加えた。
義母の慈善茶会については、花と菓子の見積書を義父の机へ置き、リュシアンの友人三人については、ハロルドが本人たちへ手紙を出した。
「ロベール様は、今も肉料理を召し上がらないそうでございます」
「厨房へ伝えてください」
「アンドレ様は羽毛の寝具を避けたいと。セザール様は二泊ではなく、三泊を希望しておられます」
「客室は足りますか?」
「オクタヴィア様が一室を衣装部屋としてお使いですので、少々厳しくなります」
「そのことも、リュシアン様へ」
私は話を聞くだけに留めた。
部屋を空けさせるか、ほかの客室を使うか。それを決めるのは、客を招いたリュシアンだ。ハロルドも、もう私へ判断を求めなかった。
「承知いたしました。ご本人へ確認いたします」
それで話は終わった。翌日、リュシアンは食堂で姉へ客室を空けるよう頼んだ。
「嫌よ。せっかく箪笥を入れたのに!」
「友人が泊まるんだ。元々客室なんだ、仕方ないだろう?」
「ほかの部屋を使えばいいでしょう?」
「三部屋必要なんだよ!」
「ヴェロニカのお部屋は?」
突然、自分の名が出た。
「私の部屋は、夫人用の居室です」
「でも、お客様が来る時くらい貸してもいいじゃない」
オクタヴィアお義姉様は、パンへジャムを塗りながら言った。
「あなたはリュシアンの部屋で眠ればいいでしょう?」
「寝台を共にしたくない時はどうする」
リュシアンが先に答えた。すると義母が軽く笑った。
「まあ。そんなことを言っているから、いつまでたっても子供ができないのよ」
そう言えば、未だにそんなことを言うのは義母だけだったろう。誰も困った顔をしなかった。
リュシアンは姉の衣装部屋を使うことに決め、オクタヴィアお義姉様は、運び出す服の置き場所を私へ尋ねた。
「マーサとご相談ください」
「ヴェロニカが決めてくれた方が早いわ」
「衣装庫の管理は、マーサへ任せております」
「最近本当に、そればかりね」
お義姉様は匙を皿へ置いた。
「あなた最近、みんなへ仕事を押しつけて、自分は楽をしているのではなくて?」
「……そうかもしれませんね」
答えると、お義姉様は目を丸くした。反論されると思っていたのだろう。
「では、マーサへ聞いてください」
軽く頭を下げると、その場で話を終えた。会話は長くしたくない。
あと二日。明日には一日。
そしてその次の朝、もう私がこの食堂へ来ることはないのだから。
*
前日の夜、私は執務室へ最後の書類を置いた。
机の中央には、領地の案件一覧。赤い紐は期限が近いもの。青い紐は冬まで。白い紐は来春以降。
一番上へ、ベネット宛ての引き継ぎ書を載せる。
――南の橋。石材到着予定は十日後。現場責任者は職人頭ロイス。
――北の水路。次の見回りは五日後。板のずれと土嚢の破れを確認。
――領兵の冬服。北部担当分を先に受け取る。
――木材商との契約。価格改定について当主の判断を求める。
――慈善茶会。菓子と花の費用は、当主承認待ち。
その下へ、屋敷に関する引き継ぎ書も置いた。
客室の準備――オクタヴィアお義姉様の衣装部屋――銀器庫の棚卸し――使用人の給金日――厨房の冬支度。
どこに誰の署名が必要かまで記しておいた。
机の右端には、家族宛ての封書を置く。何度か文面を考えたが、書いたのは短いものだった。
――本日をもって、私、ヴェロニカはランフォード伯爵家を離れます。
――私の個人財産は、持参品一覧に従って搬出しました。伯爵家から贈られた品は、居室内に残しております。
――領地および家政に関する書類、鍵、引き継ぎ書は、すべて執務室へ置きました。
――今後の連絡は、モラン父子公証事務所を通してください。
家を出る理由も、三年間の苦労もここに書く必要はない。そもそも説明して理解する人たちなら、ここまでにはならなかった。
封筒の表には、義父の名を書く。
机の引き出しを開け、空になっていることを確認した。底には、インクの染みが一つ残っている。最初の年、夜中に手を当てて瓶を倒した跡だ。拭いても取れなかった。
引き出しを閉め、鍵を封筒へ入れる。
これで、執務室に私の物はなくなった。
扉の外では、ベネットが待っていた。
「終わりましたか」
「ええ」
執務室の鍵を渡す。
「明日の朝、屋敷を出るまでは、あなたが持っていてください」
「その後は?」
「侯爵家の管理官へ」
「承知しました」
ベネットは鍵を上着の内側へしまった。
「若奥様」
「何です?」
「最後まで、本当に普段どおりでございましたね」
「まだ終わっていません」
「そうでした」
彼は少し笑った。
「明朝、私は西門から出ます。北部管理所の馬車が、林の先で待っているそうです」
「気をつけて」
「若奥様も」
それだけ言葉を交わし、別れた。
明日からは、彼とも同じ屋敷で働くこともない。
けれど、今夜ここで長い挨拶をすれば、足音を聞かれるかもしれない。明かりが消えないことを不審に思われるかもしれない。
最後まで、仕事の話だけでよかった。
*
自室へ戻ると、マルタが寝台の上へ服をそろえていた。
明朝着るのは、濃い灰色の外出用の服。裾が短く、馬車へ乗りやすい。外套は実家から持ってきた古いものを、マルタが一晩かけて直してくれた。
「袖口は、これでしばらく持ちます」
「ありがとう」
「男爵家へ着いたら、新しいものを注文しましょう」
「まだ三日あります」
「商会で過ごす間に寒くなったら困ります」
机の上には、小さな鞄が二つある。着替え一組、洗面道具、手袋、財布。男爵家との契約が始まるまでに必要なものだけだ。
「今夜は眠りますか? 奥様」
マルタが尋ねた。
「少しは」
「起きられます?」
「あなたが起こしてくれるでしょう」
「もちろんです」
蝋燭を一本だけ残し、寝台へ入った。
天井の染みも、窓辺のカーテンも、三年間毎日見たものだった。
最初の夜には、リュシアンもこの部屋にいたが、翌朝には王都へ戻り、その後は自分の都合に合わせて訪れるだけになった。夫婦で暮らした部屋というより、彼が時々使う客室に近かった。
白い薔薇を飾った夜もあった。帰ると伝えてきた夫を待ち、夕食用のドレスへ着替えた。結局、友人との集まりが長引いたと、使いが来た。あの時の花瓶は、暖炉の横にあるが、伯爵家で買った物なので、残していく。
目を閉じた。
廊下を歩く足音が聞こえた。リュシアンか、夜番の使用人かは分からない。
やがて屋敷中の音が減り、暖炉の薪が崩れたが、いつ眠ったのかは覚えていない。
*
「……奥様」
肩へ手が触れた。
「四時でございます」
目を開けると、部屋は暗かった。
マルタはすでに外出着を着ている。私は起き上がり、用意された水で顔を洗った。
髪は簡単にまとめ、帽子の中へ収める。宝飾品は、小さな銀の耳飾りだけにした。
「お荷物を」
鞄を一つずつ持つ。
寝台の上には、伯爵家から贈られた外套と宝石の箱が並べてあった。箪笥の扉も開け、残した衣装が分かるようにしてある。
鏡台の引き出しには、持参品一覧と、残した品の一覧を置いた。
「忘れ物は?」
「ございません」
「あなたの部屋は?」
「昨日のうちに確認しました」
扉を開けると、廊下には、常夜灯が一つだけ残っていた。
足音を立てないよう、裏階段を使う。厨房の前まで降りると、焼いたパンの匂いがする。マーサが小さな包みを二つ持って待っていた。
「馬車でお召し上がりください」
「こんな時間から作ったの?」
「パンへ肉を挟んだだけでございます」
包みを受け取ると、まだ温かかった。
「マーサは何時に?」
「五時半に南の通用門から出ます。侯爵様の叔母君のお屋敷から、荷馬車が参ります」
「荷物は?」
「昨日、卓布と一緒に町へ出しました」
皆、同じようなことをしている。
「向こうへ着いたら、手紙をくださいね」
「若奥様も」
「ええ」
「決して、すぐに家政へ手を出してはいけませんよ」
「私は家庭教師として雇われるのよ?」
「あなた様は、頼まれる前に見つけますから」
マーサは私の外套の襟を直した。
「契約にないことはなさいませんように」
「分かりました」
「本当に?」
「努力します」
「それでは足りません」
マルタが横から言った。
「私が見ておりますよ」
「お願いいたします」
二人が私を挟んで話を決めた。
厨房の奥では、料理長のベルダが火を起こしている。こちらへ顔を出すことはなかった。まだ事情を知らない者へ、最後の挨拶はできない。
侯爵家から通知を受けた時、彼女たちがどう思うか気にはなったが、戻って説明することはできなかった。
玄関広間へは出ず、使用人通路を通って東門へ向かう。
門の前にはハロルドがいた。いつもの黒い上着を着て、鍵束を腰へ下げている。
「馬車は、森の手前で待っております」
「門まで来ないのですね」
「車輪の音で、馬丁が起きるかもしれません」
東門の小扉を開ける。冷たい風が入り、マルタが外套の前を押さえた。
「ハロルドは?」
「六時前に正面玄関から出ます。東屋敷の馬車は、侯爵家の書状を届ける名目で参りますので」
「堂々と行くのね」
「執事でございますから」
ハロルドは鞄を一つ受け取り、門の外へ置いた。
「若奥様」
「はい」
「三年間、お疲れさまでございました」
初めて、そう言われた。何か返そうとしたが、先にマルタが頭を下げた。
「ハロルド様も」
「ええ」
私は門柱へ手を置く。石は夜露で冷えていた。
「皆をお願いします」
「それは侯爵家の役目でございます」
「そうでしたね」
「若奥様は、ご自分のお仕事を」
ハロルドが門を大きく開いた。
外はまだ暗い。林の向こうに、馬車の灯りが小さく見える。
私はマルタと並んで歩き出した。
砂利道を避け、草の上を進む。外套の裾が露を吸い、少しずつ重くなった。
振り返ると、ハロルドは門の内側に立っていたが、手を振ることも、大声で別れを告げることもない。
門がゆっくり閉じ、かちり、と鍵が回る。
馬車の御者が私たちに気づき、座席から降りてきた。
「ヴェロニカ様でございますね」
「はい」
「ハーマン商会までお送りします」
鞄を預け、先にマルタを乗せる。私も踏み台へ足をかけた。
屋敷の二階には、まだ明かりも点されていない。義父も義母も、リュシアンも、オクタヴィアお義姉様も眠っている。
そして朝になれば、いつもの時刻に食堂へ集まるだろう。
義母は茶会の花を尋ね、リュシアンは客室の準備を命じ、お義姉様は、衣装の置き場所を私へ聞く。
そして、私の席が空いていることに気づくだろう。
だがその時には、私はいない。
馬車の扉が閉まり、車輪がゆっくり動き始めた。




