第17話 三日後
ローデン男爵家を出たあと、私たちは再びハーマン商会へ戻った。
雇用予約契約の写しは、男爵家とモラン公証事務所で保管される。私たちが屋敷へ持ち帰る書類はない。
「お話はまとまりましたか」
ハーマンが奥の部屋で待っていた。
「はい。二人とも、雇っていただけることになりました」
「それはよろしゅうございました」
彼は石材の見本と価格表を机へ出した。
「こちらが本日、お二人がお出かけになった理由でございます」
「助かります」
「ご帰宅後、詳しく尋ねられましたら、この採石場は冬前の出荷が難しいとお答えください。事実です」
「では、橋に使う石は?」
「すでに契約した商会から届きます。こちらは比較用の見本でございます」
帰りの馬車には、石材の見本が二つと、運搬路を記した地図を積んだ。
*
屋敷へ戻った時、空は暗くなり始めていた。
「ずいぶんと遅かったな」
夕食の席で、リュシアンが言った。
「採石場まで参りましたので」
「使える石はあったのか」
「品質はよいのですが、冬前の出荷が難しいそうです。橋には、予定どおり契約済みの石材を使います」
「では、わざわざ出かけた意味がなかったじゃないか」
「今後の修繕には使えるかもしれません」
「今後の話など、その時に調べればいい」
リュシアンは給仕へワインを注がせた。
「まあいい。それより、来週、友人が三人泊まりに来るから、用意をしておけ」
「伺っておりませんでした」
「今、言った」
「何日からでしょう」
「十日後だ。狩りに行くんだ」
「何泊なさいますか?」
「二泊の予定だが、天気次第では延びる」
十日後。
男爵家との雇用が始まる日は、まだ決まっていない。それでも、その頃には私はこの屋敷にいない可能性がある。
「客室の準備は、ハロルドとマーサへお伝えください」
「お前がやればいいだろう?」
何を今更とばかりに彼は言う。
「部屋と食事の手配は、二人へ引き継いでおります」
「なら、二人に指示を出せばいい」
「お客様の好みや、狩りの日程を私が存じません」
「前にも来た者たちだ」
「どなたでしょう?」
「忘れたのか? ロベールと、アンドレと、セザールだ」
「去年、ロベール様はお肉を召し上がらず、アンドレ様は羽毛の寝具をお使いになれませんでした。今も同じか、ご本人へ確認してください」
「やけに細かいな」
「準備には必要なことです」
「お前から聞いておけ」
「ですが、私は連絡先を存じません」
リュシアンは面倒そうに眉を寄せた。
「……後で書いて渡す」
「ハロルドへ直接お願いいたします」
「なぜ、いちいち俺にさせるんだ」
義母が口を挟んだ。
「ねえヴェロニカ、あなたが聞いてあげればいいでしょう? リュシアンは狩りの支度で忙しいのよ」
「私はお客様と面識がほとんどございませんから……」
「でも、あなたはこの家の夫人でしょう?」
「はい。ですから、執事と家政婦長へ仕事を戻しました」
義母は、意味が分からないというように私を見た。
「仕事を戻したからといって、何もしなくてよいわけではないでしょう」
「必要な引き継ぎは済ませております」
「……最近のあなた、少し冷たくない?」
「そうでしょうか?」
「以前なら、私たちが困る前に動いてくれたわ」
困る前に動いていたから、この人たちは何も覚えなかった。私はスープを一口飲む。
「今回は、ハロルドへお願いいたします」
リュシアンは舌打ちし、パンを千切った。
「分かった。名前と日程を書けばいいんだろう!」
「食事と寝具の希望も、お願いします」
「まだあるのか……」
「ご友人をお招きになるのでしたら、それくらいはお尋ねください」
食卓の端で、オクタヴィアお義姉様が笑った。
「リュシアンも大変ね。ヴェロニカったら、何でも書面、書面でしょう?」
「本当にな!」
お義姉様の前には、新しい宝飾店の小箱があった。
灰色の封書は、もう食堂にはない。けれど、開いたのかどうかを尋ねるつもりはなかった。
*
翌日から、ベネットたちは一人ずつ町へ出た。
最初はベネットだった。
木材商との契約更新に必要な書類を受け取りに行き、ハーマン商会の奥で、侯爵家との雇用契約へ署名した。
帰宅後、彼はいつもどおり執務室へ入り、木材の価格表を机へ置いた。
「契約は済みましたか」
「はい。モラン公証人にも立ち会っていただきました」
「条件に変更は?」
「私が希望したとおり、ランフォード領の引き継ぎが終わるまでは、侯爵家の指示でこちらへ出入りできることになりました」
「よかったですね」
「はい」
ベネットは木材商の書類を開いた。
「こちらの契約も、来年から価格が上がります。今期中に必要な分を確保した方がよろしいでしょう」
「一覧へ加えてください。購入量を決めるのは、お義父様です」
「承知しました」
彼はもう、私へ判断を求めなかった。
次はハロルド。
王都屋敷で使う敷物の修繕を頼むという理由で町へ出た。戻ってくると、見本の布を三枚持っていた。
「東屋敷の使用人部屋は、南向きだそうでございます」
「もう部屋まで確認したのですか」
さすがだ。話が早い。
「間取りを見せていただきました。現在の部屋より、少々狭いようです」
「不満ですか」
「窓が大きければ、それで十分でございます」
三人目はマーサだった。
慈善茶会で使う卓布の見積もりを取りに行き、侯爵の叔母の屋敷との契約へ署名した。
「使用人は七人でございました。料理人が一人、侍女が二人、下働きが二人。それに御者と庭師」
「今の半分以下ですね」
「ええ。銀器庫も、一部屋しかございません」
「一部屋あれば十分でしょう?」
「こちらでは三部屋ございますから、少し物足りなく感じるかもしれません」
マーサはそう言いながら、どこか楽しそうだった。
「奥様は、朝食をお部屋で召し上がり、午後に一度お茶をなさるだけだそうです」
「茶会は?」
「年に二回ほど、とのことです」
「では、今より随分、静かになりますね」
「退屈しないか、少し心配でございます」
「忙しいよりいいのではないですか?」
「まあ、若奥様が、それをおっしゃいますか」
……言い返せなかった。
マルタはすでに男爵家で署名を済ませているので、これで四人全員に、次の仕事ができた。
会計係のポール、書記のニール、御者頭のジョナス、料理長のベルダには、まだ何も伝えていない。四人は調査が始まる日に侯爵家の管理官から直接、雇用継続の保証を受けることになっている。
そのほかの使用人についても、侯爵家の指示へ従う限り、給金と住まいは守られる。
家族へ阿るだけで仕事をしない者は、新しい管理者が判断する。
もうそこまで、私が決める必要はなかった。
*
夜、自室でマルタと私物の確認をした。床には、大きな旅行箱が二つ並んでいる。
「こちらが、サデライン子爵家からお持ちになった品でございます」
マルタが一覧を読む。
「冬のドレスが三着、夏物が四着。外套二枚。お母様からいただいた裁縫箱。書籍が十七冊。真珠の耳飾り、銀の首飾り、青玉の指輪……」
「指輪は置いていくわ」
「こちらは、持参品の一覧にございますよ」
「ええ。でも、今の生活では使わないでしょう?」
「売れば、しばらくの生活費になりますから入れます」
「男爵家から給金をいただけるし」
「何かあった時のために、お持ちください」
マルタは問答無用で指輪の箱を旅行箱へ入れた。
「では次に、伯爵家からいただいた物です」
結婚祝いの宝石。義母から譲られた扇。リュシアンが最初の冬に贈った毛皮の外套。誕生日に届いた腕輪。
「これはすべて置いていきましょう」
「奥様個人へ贈られた物ですけど……」
「所有権を争う余地がある物は、持っていかない方がいいわ」
後で厄介ごとの種になるのはごめんだ。
「でも、この外套は暖かいですよ」
「男爵家との契約に、冬の衣装が含まれているわ」
「すぐに仕立て上がるとは限りません」
「実家から持ってきた外套があるし……」
「あちらは、もう袖口が傷んでおります」
「マルタが直せるでしょう?」
「そりゃあ、直せますけれど……」
マルタはやや不服そうだったが、毛皮の外套を残す側へ戻した。
伯爵家の金で買ったドレスも、必要最低限を除いて置いていく。普段着は、三年間着て傷みもある。私物として認められるものだけを選んだ。
「本当に、二箱で足りるのでしょうか」
「私はこれから働きに行くのよ。夜会へ出るわけではないわ」
「エレナ様のお屋敷で、お客様をお迎えする日もあるかもしれません」
「それは、その時に考えましょう。着る服も違うでしょう?」
伯爵夫人と家庭教師では、目に見える違いは必要だ。
書籍は、領地経営に関するものをすべて執務室へ残した。私が持っていくのは、実家から持参した歴史書と地図帳、子供向けの詩集、母が使っていた料理の本。
「こちらの地図は?」
「ランフォード領のものだから、残します」
「奥様がお描きになったのでしょう?」
「領地の仕事として作ったものよ」
「では、写しを取りますか」
「必要ありません」
その地図は、次の管理者が使う。
この旅行箱二つは翌朝、ハーマン商会へ送った。
表向きは、傷んだ服と書籍の修繕だった。商会から仕立て屋と製本所へ回すと記録されている。
中身はそのまま保管され、私たちが男爵家へ移る日に届けられるだろう。
*
執務室の引き継ぎも終わりに近づいていた。
ベネットが領地の案件一覧を読み、必要な返事を出す。会計係は支払いの承認を義父へ求める。大きな支出は当主の署名がなければ動かさない。
マーサは屋敷の備品台帳を作り直し、ハロルドは鍵の一覧を整えた。
「正面玄関、東門、西門、銀器庫、酒蔵、文書庫、執務室」
机の上に鍵が並ぶ。
「現在、若奥様がお持ちなのは、執務室と文書庫の予備鍵でございます」
「執務室の鍵はベネットへ。文書庫の予備鍵は、当主へ返します」
「直接お渡しになりますか」
「引き継ぎ書と一緒に封をしてください」
ハロルドは二本の鍵を別々の封筒へ入れた。
――執務室。家令管理。
――文書庫予備鍵。当主保管。
マーサも、銀器庫や衣装庫の鍵を袋へ分けている。
「若奥様がお使いになっていた家政用の鍵は、こちらへ」
「ええ」
「すべて返されるのですね」
「私の鍵ではありませんから」
最後に残ったのは、机の引き出しの鍵だった。
そこには、私が三年間使った帳面が入っている。領地の記録、修繕計画、支出の承認書、侯爵家からの質問状の写し。
原本は、あるべき棚と箱へ戻した。
重要な書類の写しは、すでにモラン公証事務所が保管している。
引き出しの中には、次に行う仕事だけを残した。
――南の橋。石材到着予定日。
――北の水路。土嚢の見回り日。
――木材商。契約更新期限。
――領兵の冬服。仕立て上がり確認。
――慈善茶会。当主承認待ち。
誰が見ても、次に何をすべきか分かる。
「これで、私がいなくても進められますね」
ベネットは帳面を閉じた。
「はい。……若奥様は、これで寂しくありませんか」
突然尋ねられ、机の上を見た。
「何がです?」
「三年間、ご自分で整えてこられた仕事を人手に渡すことが」
「……少しは」
自分でも、意外な返事だった。
何度も腹を立てた。眠る時間を削り、食事を忘れ、家族が遊んでいる間も働いた。
それでも、橋が直り、診療所に医師が増え、村から届く収穫の報告が少しずつよくなっていくことは嬉しかった。
「でも、私が抱えたままでは、この仕事は残りません」
「残します」
ベネットが言った。
「若奥様がなさったことは、きちんと次へ渡します」
「お願いします」
*
その日の夕方、ハーマン商会から小さな荷物が届いた。
男爵家のエレナから頼まれていた、川と橋の地図だった。
ローデン領の地図に、街道、村、川、古い橋が記されている。男爵からの書状には、現在の学習記録も同封されていた。
私は執務室で、エレナへ出す最初の問題を書いた。
――川の東側に三つの村があります。
――市場は西側にあります。
――雪解けの時期には、北の道が使えません。
――橋を一つ架けるなら、どこがよいでしょう。
答えを一つに決めず、考えた理由を書くよう添える。
封をしたところで、地図の筒の底から、もう一通の紙が滑り落ちた。モラン公証人の字だった。
――侯爵家は、正式な管理調査を開始する。
――三日後の午前十時、当主一家へ通知する。
――同日、ベネット、ハロルド、マーサおよび雇用保証対象者は、朝六時までに屋敷を離れること。
――ヴェロニカ夫人とマルタは、朝五時、東門よりハーマン商会の馬車へ。
――ローデン男爵家への雇用開始は、その日より三日後。
紙を読み終えた時、マルタが湯を持って入ってきた。
「奥様?」
私は書状を折り、机の上へ置いた。
「決まったわ」
「! いつですか?」
「三日後よ」
マルタは持っていた湯差しを、ゆっくり卓へ置いた。




