第16話 二人分の契約
五日後、私はマルタを連れて屋敷を出た。
表向きの目的は、南の橋に使う石材の確認だった。
契約した商会が、新しく取引を始めた採石場を見せたいと言ってきた。場所はランフォード領の外だが、橋まで運ぶ道を考えれば、一度見ておいても不自然ではない。
「夕食には間に合うの?」
義母は朝食の席で尋ねた。
「少し遅れるかもしれません」
「では、先に始めているわね。花の見本も届く予定なのだけれど……」
「そちらは、マーサに見てもらってください」
「あなたの方が詳しいでしょう?」
「お義母様のお好みは、マーサも存じております」
「そうかしら?」
義母は不満そうだったが、それ以上は引き止めなかった。リュシアンは新聞から顔も上げない。
「石を見るだけなら、ベネットに行かせればいいじゃないか」
「運搬日と価格の話もございますので……」
「好きにしろ」
義父は、昨日届いた葡萄酒の箱についてハロルドへ尋ねていた。そして誰も、マルタが外出着を着ている理由を気にしなかった。
*
私達は町のハーマン商会で、領地用の馬車を降りた。
御者には、石材の担当者が迎えに来るため、夕刻に戻るよう伝える。商会の裏口には、紋章のない小さな馬車が用意されていた。
「こちらへどうぞ」
ハーマンが自ら扉を開ける。
「先方までは、二時間ほどです。道は悪くありません」
「帰りも、こちらへ?」
「同じ馬車がお送りします」
マルタが先に乗り、私も続いた。
町を出ると、道の両側に収穫を終えた畑が広がっていた。刈り取られた麦の根元だけが残り、遠くでは冬用の薪を積んだ荷車が進んでいる。
「奥様」
マルタが膝の上で手袋を直した。
「男爵様は、私どもの事情をどこまでご存じなのでしょう」
「モラン公証人から、必要なことは伝わっているそうよ」
「旦那様方へ知られず、お屋敷を出ることも?」
「ええ」
「それでも雇うと?」
「今日、会ってから決めるのでしょう」
私たちも、先方を見て決める。そのことを、何度も自分へ言い聞かせていた。
職を紹介してもらえるだけでもありがたい。マルタと二人で雇うと言ってくれる家は、ほかにないかもしれない。
けれど、だからといって、示された条件を何でも受け入れてはいけない。それではまた同じことになる。
「マルタ」
「はい」
「あなたへの質問には、あなたが答えてね」
「もちろんです」
「私が先に話し始めたら、止めてちょうだい」
「どのようにですか?」
「足でも踏めばいいわ」
「承知いたしました」
マルタは真面目にうなずいた。
「本当に踏むつもり?」
「奥様がお望みなら」
「……声をかけるだけにして」
「残念です」
少し笑うと、肩に入っていた力が抜けた。
*
ローデン男爵家の屋敷は、街道から林の中へ入った場所にあった。
二階建ての石造りで、ランフォード家の屋敷に比べれば小さい。玄関前に大きな噴水も彫像もない。代わりに、建物の脇には薪が屋根の高さまで積まれ、厩の前では馬丁が冬囲いの板を打っていた。
馬車が止まると、執事が玄関へ出てきた。
「ヴェロニカ・ランフォード夫人と、マルタ様でございますね」
「はい」
「旦那様がお待ちです」
マルタは自分に敬称がつけられたことに、一度驚いてまばたきをした。
通されたのは書斎だった。壁には本棚が並び、窓際の机には領地の地図が広げられている。暖炉の前には四脚の椅子が置かれ、中央の小卓に書類が二組そろえてあった。
立ち上がった男は、三十代半ばほどに見えた。
濃い茶色の髪を短く整え、華美な飾りのない濃紺の上着を着ている。右手の人差し指に、インクの跡が残っていた。
「フィリップ・ローデンです。本日は、遠いところをお越しいただきありがとうございます」
私とマルタへ、それぞれ同じように挨拶をする。
「ヴェロニカ・ランフォードでございます。こちらはマルタです」
「初めに確認しておきます」
男爵は席を勧めたあと、すぐ机の上の書類へ手を伸ばした。
「モラン公証人から、ランフォード夫人が現在の婚家を離れる準備をしておられることは聞いております。ただし、離縁の可否やランフォード家への調査について、私は関わりません」
「承知しております」
「雇用の話と、現在の婚姻問題は分けます。こちらで働いていただくことになっても、離縁に関する保証人になることはできません」
「はい」
「反対に、離縁の手続きが長引いたことを理由に、採用を取り消すつもりもありません。モラン公証人から、働くことに法的な問題はないと確認しております」
用意された条件書を、私の前へ置く。
「家庭教師としてお願いしたいのは、娘の読み書き、算術、歴史、地理、手紙の書き方です。午前中に二時間、午後に一時間半。週に五日。残りの二日のうち、一日は授業の準備、もう一日は休日とします」
「音楽と絵画は?」
「月に二度、王都から教師が来ます。あなたへ頼む予定はありません」
「社交作法は、どの程度まででしょう」
「娘が客前で困らない程度に。王宮へ出す令嬢を育てたいわけではありません」
男爵は条件書の欄を一つずつ指した。
「給金はこちら。住居と食事、冬の燃料は屋敷で負担します。衣装は職務に必要な範囲で年に二着。休暇は夏と冬に各一週間」
「授業時間外に、娘さんの付き添いを求められることは?」
「外出や来客の際にお願いする場合があります。その分は、翌週の授業時間を減らします」
「夜会への同行は?」
「ありません」
「領地や家政について、私へ仕事を頼まれる可能性はございますか」
男爵は少し考えてから答えた。
「意見を伺うことはあるでしょう。あなたに、その経験があると聞いておりますから」
「はい」
「継続して仕事を頼む時は、別の契約を作ります。担当と給金を決めます」
「家庭教師の仕事に含めることは?」
「しません」
返事が早かった。
「私がうっかり頼み始めたら、契約にありませんと断ってください」
「断ってよろしいのですか」
「そのための契約でしょう」
男爵は当然のことのように言い、次の紙を取った。
「娘には教師が必要です。母親の代わりを求めているのではありません。父親である私に足りないものを、すべて埋めていただくつもりもありません」
「お嬢様は、以前の家庭教師と何か問題が?」
「三年で三人替わりました」
男爵は指を三本立てた。
「一人目には、私が役目を広く頼みすぎました。教師と子供部屋の管理と、妻がしていた客の応対まで任せた。半年で辞めました」
「二人目は?」
「娘と合いませんでした。早く交代させるべきだったのに、慣れれば何とかなると私が一年引き延ばしました」
「三人目は、ご結婚ですか」
「聞いておられましたか」
「モラン公証人から、退職理由だけ」
「半年前に辞めました。今は通いの教師へ頼んでいますが、冬になると道が使えない日が増えます」
どうやらこの人は、自分の判断が悪かった部分を、他人のせいにしない人らしい。
「お嬢様ご本人は、住み込みの家庭教師を望んでいらっしゃいますか」
「分かりません」
「お尋ねになっていないのですか」
「尋ねました。返事をしませんでした」
男爵はそこで、わずかに困った顔をした。
「娘が黙ると、私は考える時間が要るのだと思って待ちます。どうも、待ちすぎるらしい」
「黙っている理由を尋ね直すことは?」
「……苦手です」
領地の地図を広げていた人が、九歳の娘を前にすると言葉を探せなくなる。
そのくらいの不器用さなら、理解できた。
「お会いしてもよろしいでしょうか」
「もちろんです」
男爵が呼び鈴を鳴らした。
間もなく、扉の外から小さな足音が近づいた。
入ってきたのは、灰色のワンピースを着た少女だった。父親と同じ茶色の髪を肩で切りそろえ、胸元に細い青のリボンを結んでいる。
「エレナ、こちらが先ほど話したランフォード夫人だ」
「こんにちは」
少女はきちんと膝を曲げた。
「こんにちは、エレナ様」
「先生になる人?」
「それを決めるために、お話をしに来ました」
「もう決まっているんじゃないの?」
「まだです。私もこちらで働くか考えますし、男爵様とエレナ様も私を雇うか考えます」
エレナは父親を見た。
「私も決めるの?」
「お前の教師だからな」
男爵が答えると、少女は私の向かいへ座った。
「先生も、すぐいなくなるの?」
予想していた問いだった。
「契約は、まず一年半です」
「一年半たったら?」
「お互いに続けたいと思えば、次の契約を結びます」
「辞めたくなったら、急にいなくなる?」
「辞める三か月前に伝えると、契約書に書いてあります」
「父上に?」
「男爵様と、エレナ様へお話しします」
少女は膝の上の手を見た。
「前の先生は、私に言わなかった」
「それは困りましたね」
「結婚するからって、次の日にいなくなったの」
「急に決まったのですか」
男爵が口を開きかける。私はそちらを見ず、少女の返事を待った。
「前から決まっていたみたい」
「では、教えてほしかったですね」
「うん」
エレナは一度うなずいた。
「先生は、何を教えるの?」
「読み書き、算術、歴史、地理。それから手紙の書き方です」
「……歴史は嫌い」
「どこが嫌いです?」
「人の名前が多いとこ」
「では最初は、名前を覚えなくても分かるところから始めましょう」
「そんなところ、ある?」
「地図を使います。どの国がどこにあり、なぜ争ったのか。それが分かってから、人の名前を加えます」
「川も?」
「川も、道も、山も使います」
「橋は?」
思わず笑った。
「橋も大事です」
「先生は橋が好きなの?」
「最近、橋のことで忙しかったのです」
「変なの」
エレナの口元が少し動いた。
「明日から授業できる?」
「明日は、まだ今の屋敷で仕事があります」
「いつから?」
「モラン公証人から知らせが届いた三日後です」
男爵が補足した。
「それまでは、今の教師に来てもらう」
「雪が降ったら来ない人」
「そうだな」
エレナは考えたあと、私へ向き直った。
「来る前に、地図を送って」
「どの地図です?」
「川と橋があるもの」
「では、この領地の地図を一枚、男爵様に用意していただきます。私から、最初の問題を書いて送ります」
「問題?」
「橋をどこへ架けるか、考えてください」
「分かった」
少女は椅子を降りた。
「父上、私はこの先生でいい」
「まだ先生が決めていない」
「じゃあ、決めて」
一礼して、エレナは部屋を出ていく。扉が閉じると、男爵が額へ手を当てた。
「娘は、いつもあのように人の話を決めます」
「お父様に似たのでは?」
「私は、もう少し相談しているつもりです」
「そうでしょうか」
「……気をつけます」
少しだけ、マルタが笑った。
「次は、マルタさんの契約です」
男爵は別の条件書を、小卓の反対側へ置いた。
「ご本人に伺います。これまで、どのような仕事を?」
私は口を開きかけた。するとマルタの靴先が、私の靴へ触れる。
踏まれてはいない。だが、約束を思い出すには十分だった。
「奥様の身支度、衣装の管理、部屋の整頓、手紙の取り次ぎをしてまいりました」
マルタが自分で答えた。
「子供の世話は?」
「妹が三人おりますので、実家ではしておりました。こちらの屋敷では、子供部屋に入った経験はございません」
「縫い物は?」
「日常の繕いと、簡単な寸法直しなら」
「読み書きと計算は?」
「屋敷の備品を書き留める程度には」
なるほど、と男爵はうなずく。
「充分です。こちらでは、エレナの身の回りを中心にお願いします。今いる乳母は高齢で、階段の上り下りが難しくなっている。衣装と部屋の管理、外出時の付き添い。家庭教師の身支度は職務に含めません」
「奥様のお世話は、してはいけないのでしょうか」
「勤務時間外に互いに手伝うことまで止めません。ただし、給金を払う仕事は娘付きです」
「承知いたしました」
給金は、今よりわずかに多い。そして部屋も私とは別に用意される。
「休日は、奥様と同じ日にできますか」
マルタが尋ねた。
「はい、基本は同じ日にします。エレナの外出が重なった場合は、別の日へ移します」
「分かりました」
「ほかに希望は?」
「一つだけ」
マルタは条件書から顔を上げた。
「奥様が家庭教師を辞めることになっても、私の雇用は別に判断していただけますか」
「もちろんです」
「ありがとうございます」
今度は私の足が、マルタの靴へ触れた。彼女は澄ました顔で条件書を読んでいる。
「私も、雇う側と決めるのですよね?」
「ええ。そうだったわね」
男爵は二組の契約書を机へ並べた。
「本日署名するのは、雇用予約契約です。開始日は、モラン公証事務所から通知が届いた日の三日後。正式に働き始める際、改めて同じ条件を確認します」
「その時、私の姓が変わっていた場合は?」
「訂正書を作ります。今は現在の法的な名で署名してください」
私は契約書を初めから読み直した。
職務――勤務時間――給金――休日――退職の通知期間――領地と家政の仕事は含まれないこと。
どこにも、「必要に応じて、その他の仕事を命じる」とは書かれていない。
「……一つ、加えていただけますか」
「何でしょう」
「エレナ様へ授業を始める前に、今の学習記録を見せてください。以前の先生がどこまで進めたか確認したいのです」
「もちろんです。契約へ書く必要がありますか」
「できれば」
「分かりました」
男爵は自分で一文を書き加え、私へ読ませた。そのあと、二枚の契約書へ署名する。
――ヴェロニカ・ランフォード。
今は、今の姓を書いた。
その下には、家庭教師としての給金と、私が受け持つ時間が記されている。
隣ではマルタが、自分の契約書へ自分の名を書いた。
そして二枚の書面を、男爵が一枚ずつ受け取った。




