第14話 次に知らせる人々
三日後、ハーマン商会から雇用条件書が届いた。
ベネット、ハロルド、マーサ。それぞれの名が表に記された封書と、マルタへ宛てた薄い封筒が一通。
中身は本人以外が開かないよう、すべてモラン公証事務所の封蝋で閉じられている。
屋敷へ届いたのは毛織物の見本箱だった。封書は箱の二重底へ収められていたため、受け取ったハロルドにも、執務室へ運ぶまでは分からなかったらしい。
「随分、念の入ったことですな」
箱の底板を戻しながら、彼が言った。
「見つかれば、皆さんが困ります」
「私どもより、若奥様がお困りになるでしょう」
「それは、どちらもです」
昼のうちに三人へ封書を渡し、その夜、返事を聞いた。
*
ベネットは北部管理所の条件書を、端から端まで二度読んでいた。
「来春までは副管理官。その後は、現在の管理官が退任した場合に、正式な管理官として審査を受ける……」
「すぐに役目を継げるとは書かれていません」
「当然です。侯爵家の直轄領ですから」
給金は現在より一割多い。住居は管理所に隣接する官舎が用意され、妻や子供がいる場合も入居できる。
ベネットには妻も子供もいない。十年以上前に妻を亡くし、それ以来、屋敷の使用人部屋で暮らしていた。
「一つ、条件をつけることはできますか?」
「どのような?」
「侯爵家がランフォード領の管理へ入る場合、引き継ぎが終わるまでは、こちらの仕事を手伝わせていただきたいのです」
私は条件書を見た。
「北部管理所へ移る日が遅れるかもしれません」
「構いません」
「次の管理者が決まれば、あなたが残らなくても」
「若奥様から引き継いだものを、途中で放り出したくありません」
ベネットは条件書を机へ戻した。
「それに、この領地の者は、私の顔を知っています。侯爵家の方だけで話を進めるより、間へ入れる者がいた方がよいでしょう」
「分かりました。希望として書き加えていただきます」
「では、お受けします」
署名はハーマン商会で行うことになっている。ベネットは受諾の欄へ印をつけ、封書へ戻した。
*
ハロルドも、東屋敷の執事職を受けると決めた。
「こちらは、現在の使用人が六名。年に数度、侯爵家のお客様が宿泊なさる程度なのですね」
「今より静かな屋敷です」
「それは、ありがたいことでございます」
彼は冗談なのか本気なのか分からない調子で答えた。
「ですが、ハロルドが抜ければ、こちらの屋敷は」
「後任を決めるのはランフォード家か、侯爵家です」
「若奥様ではないのですね」
「ええ」
ハロルドはしばらく条件書を眺め、受諾の印をつけた。
「この家へ奉公して十四年になります」
「長かったですね」
「先代の執事から、『旦那様は《《穏やかな方》》だから、仕えやすい』と聞きました」
義父は確かに穏やかだ。
怒鳴ることも、使用人へ手を上げることもない。
「穏やかであることと、責任を取ることは、別の話でございました」
ハロルドは封筒を閉じた。
「気づくまで、少々かかりすぎました」
「あなたの責任ではありません」
「そう言っていただけるうちに、移ることにいたします」
*
マーサは、受諾の返事と一緒に、残る使用人たちの名簿を持ってきた。
「この中で、侯爵家の雇用保証をいただける者はどなたでしょう」
「会計係、書記、御者頭、料理長。そのほかの者も、調査後に仕事が必要なら引き継ぐと伺っています」
「解雇される者は?」
「横領や盗みが見つからない限り、今のところは」
「おもねるばかりで仕事をしない者もおります」
マーサは遠慮なく言った。
「それは、新しい管理者が判断することになるでしょう」
「……そうですね」
彼女は軽くうなずきながら名簿を畳んだ。
「私が全員を選ぶことではありませんものね」
「ええ」
「若奥様も、それを覚えてくださいませ」
「まあ、マルタと同じことを言うのね」
「毎日お側にいる者の方が、よく分かるのでございましょう」
マーサも条件を受けた。
*
残るマルタの封筒に入っていたのは、雇用条件書ではなかった。
――ヴェロニカ・ランフォード夫人と同じ雇用先を希望する旨、承知した。
――今後紹介する家には、二名を同時に雇用できることを条件とする。
――ただし、職務と給金については各人が個別に契約し、ヴェロニカ夫人がマルタの保証人となる必要はない。
その三点を確認する書面だった。
「これなら、ご不満はありませんか」
マルタが尋ねる。
「ありません」
「本当に?」
「ええ。あなたの給金を、私が払うわけではないと分かりました」
「初めから、そう申し上げております」
マルタは嬉しそうに署名欄を指でなぞった。
「でもまだ、雇ってくださる家は決まっていないのよ」
「探してくださるのでしょう?」
「そう書いてあります」
「でしたら、十分です」
四人分の返事を一つの封筒へまとめる。これで、私が出た時に最も危険な立場になる人たちには、次の場所ができた。
まだ移る日は決まっていない。明日も全員、この屋敷でいつもどおり働く。
けれど、選ぶことはできるのだ。それだけで、同じ屋敷の廊下が昨日までとは少し違って見えた。
*
翌日、私は四人の返事を持ってハーマン商会へ向かった。
今回はモラン公証人だけが来ていた。
「どうです、全員、受けましたか」
「ベネット、ハロルド、マーサは。マルタも、私と同じ家で働くことを希望しております」
「では、正式な署名の日を決めましょう。四人同時に屋敷を出せば目立ちますから、一人ずつ別の日に」
「理由はどうします?」
「ベネットは木材の契約。ハロルドは屋敷で使う備品。マーサは布地。マルタはあなたの使いでよいでしょう」
屋敷の者が町へ用事に出ることは珍しくない。
「署名が済んだ書面は、侯爵家とモラン事務所で一部ずつ保管します。本人へ渡すのは、退職の直前です」
「屋敷へ置かないのですね」
「当然です」
モラン公証人は四人分の返事を鞄へ収めた。
「さて、次です」
「領民への連絡でしょうか」
「侯爵家が調査へ入るなら、領地側の証言が必要になります」
私は村ごとの記録を開いた。
「北の村長は、水路の申請を三年前から出しております。控えも村に残っています」
「先日の視察に立ち会った方ですな」
「はい」
「ほかには?」
「南の村長です。橋の傷みについて、二年前から報告を出しています。荷馬車の通行を制限した日付も記録しているはずです」
「なるほど。二人とも、あなたへ好意的ですか?」
「おそらく」
「それだけでは困りますね」
モラン公証人は眼鏡をかけた。
「侯爵家が必要としているのは、《《あなたを褒める者》》ではありません。いつ申請し、誰へ渡し、どのような返事を受けたかを《《話せる者》》です」
「二人とも、その点は正確です」
「では、侯爵家の管理所から正式に呼び出します。名目は水利と橋梁に関する聞き取りです」
「調査のことは伝えないのですか?」
「呼ばれた理由を先に教えれば、村中へ広がるでしょう。それはよろしくない。あと、医療や領兵の状況を話せる者は?」
「診療所の医師と、領兵長です。ただ、最初から人数を増やしすぎない方が……」
「私もそう思います。まず村長二人。必要なら後から呼びましょう」
北と南の村長の名、連絡先、屋敷を通さず通知を届けられる方法を書く。北の村へは、侯爵家の管理所から直接使者を出せる。南の村へは、橋の職人を通して封書を渡すことになった。
「これで領地側は動かせます」
モラン公証人は次の紙を取り出した。
「もう一つ。オクタヴィア夫人の婚家です」
「ベルモント伯爵家ですね」
「夫君のお名前は」
「エドモン・ベルモント様です」
「最後にランフォード家へ書状が届いたのは、いつです?」
「私が把握している範囲では、三か月ほど前です。子供たちについて話し合いたい、という内容だったと聞きました」
「書状を読んだのですか」
「いいえ。お義姉様が食事の席で話していました」
「返事は?」
「出していないと思います」
「これも、思います、では足りませんな」
モラン公証人はペンを置いた。
「屋敷へ届いた書状の記録はありますか」
「ハロルドが管理しております」
「差出人と受取人、届いた日だけでよい。内容を調べる必要はありません」
「はい、確認します」
「先方では、すでに手続きが進んでいる可能性があります」
「え、離婚のですか?」
「離婚、別居中の生活費、子供との面会、母親による養育放棄。八か月も返事がなければ、何もせず待っているとは限りません」
「……お義姉様は、正式な離婚は成立していないと言っています」
「オクタヴィア夫人が知らないだけかもしれない」
思わずはっとして、私はモラン公証人を見た。ありうる。あのお義姉様なら。ただ……
「本人が知らないまま、離縁が成立することができるのですか?」
「定められた通知を無視し続ければ、裁定が出ることはあります。特に、子供を残して家を出た場合は」
「では、エドモン様は……」
「そこはまず、先方の代理人へ確認します」
モラン公証人はベルモント伯爵家の名を紙へ記した。
「あなたからは、決して直接連絡してはいけません」
「それはなぜです?」
「ランフォード家が、娘の《《婚姻問題へ介入した》》と受け取られます。こちらは侯爵家の調査に必要な《《事実確認》》として問い合わせます」
「義姉の夫が、ランフォード家の調査に必要でしょうか」
「オクタヴィア夫人の生活費を、なぜランフォード家が負担しているのか。その法的な理由があるかを確認します」
「正式な取り決めはありません」
「それも、先方の認識と同じかは分かりません」
――離縁していない。
――生活費の取り決めはない。
――子供に会うための手続きもしていない。
確かに、それはすべてお義姉様と義父たちが話していたことだ。先方へ確かめた者はいない。
「書状の記録を確認したら、こちらへ知らせてください」
「分かりました」
「返事が来るまで、オクタヴィア夫人には何も尋ねないように」
「はい」
モラン公証人はその場で、二通の書状を書いた。
一通はアルマンド侯爵家の北部管理所へ。村長二人への聞き取りを依頼するもの。
もう一通は、ベルモント伯爵家が以前使っていた王都の法律事務所へ。エドモン様の代理人が現在も同じか、確認するためのものだった。
封蝋が固まると、二通ともハーマン商会の主人へ預けられた。
*
私は屋敷へ戻ると、夕食後にハロルドへ書状受取簿を持ってきてもらった。
「ベルモント伯爵家、または代理人から届いた書状を確認したいのです」
「オクタヴィア様宛てのものでございますか」
「ええ。差出人と日付だけで構いません」
ハロルドは一度、私を見たが、何も尋ねない。去年の冬から現在までの頁をめくる。
「こちらです」
オクタヴィアお義姉様が戻ってきた翌月から、書状は六通届いていた。
一通目は、エドモン・ベルモント様本人から。二通目と三通目は、ベルモント伯爵家の家令。
四通目以降は、王都のグレイ法律事務所からだった。
「この三通は、すべて法律事務所から?」
「はい」
「返書の記録はありますか」
「オクタヴィア様のお名前では、ございません」
義父や義母の名も探した。一通もなかった。
「お義姉様は、受け取っているのですね」
「すべて私がお渡ししております」
「開封は?」
「そこまでは存じません。ただ、最後の書状をお持ちした際には、『また《《同じ話》》でしょう』とおっしゃっておられました」
同じ話。
何についてだったのかは、尋ねなくても想像できた。
「この頁の写しを取ってください」
「差出人と日付だけでよろしいでしょうか?」
「はい。内容には触れないで」
「かしこまりました」
*
翌朝、食堂へ入ると、オクタヴィアお義姉様は新しい衣装箪笥の話をしていた。
「でも、鏡の位置が少し低いのよ。職人に直してもらおうかしら」
「それじゃ、またお金がかかるのではない?」
義母が心配そうに言う。
「そのくらい、少しくらいなら大丈夫でしょう。ねえ、ヴェロニカ?」
「見積もりを取って、お義父様へご相談ください」
「またそれ?」
お義姉様は頬を膨らませた。
「家族の物を少し直すだけなのに、本当に面倒ね」
その手元には、一通の封書が置かれていた。見覚えのある灰色の封蝋。書状受取簿に記されていた、グレイ法律事務所のものだ。
「……それは、今朝届いたのですか?」
何気なく尋ねると、お義姉様は封書をうるさそうに指先で押しやった。
「昨日よ! また向こうからだわ」
「お子様のことですか?」
「さあ。まだ読んでいないわ」
「六通目では?」
「ヴェロニカ、あなた数えているの?」
お義姉様の声が尖った。
「いいえ。ただ、以前にも届いていたと思いましたので」
「ああそう。あの人たち、私を急かしてばかりなのよ。子供に会いたいなら、こちらへ来いですって」
「お子様たちが、こちらへ?」
「違うわ。私が向こうの町まで来いと言うの。ひどいでしょう?」
西部のベルモント領まで、馬車なら数日はかかる。確かに簡単な距離ではない。
「会いに行かれるおつもりは?」
「そんな! 今は無理よ! せっかく少し元気になったところなのに」
「では、返事だけでも」
「返事をしたら、また話が進んでしまうでしょう?」
お義姉様は封書を裏返した。
「私が落ち着くまで待つのが、家族というものよ」
義母が、そうね、と同意した。私は茶を一口飲み、ハロルドが作った受取簿の写しを思い出した。
書状は六通。
返事は、一通もなかった。




