第13話 この家を出る人たち
侯爵家への回答書を送った三日後、ハーマン商会から布地の見本が届いた。
南の橋を渡る職人へ支給する外套に使える、丈夫な毛織物だという。木箱の底には、見本とは別に、細く折った紙が入っていた。
――明日、午後二時。
――前回と同じ部屋でお待ちしております。
――屋敷の雇用記録をご持参ください。
差出人の名はない。私は紙を暖炉へ入れ、火が端から文字を消すまで見届けた。
持参する雇用記録は、すでにマーサが整えている。
使用人の氏名、年齢、勤続年数、給金、担当。家族を屋敷の外に持つ者については、住まいと扶養人数も加えた。
全員分を持ち出す必要はない。
モラン公証人からは、家の状況が変わった時に責任を押しつけられる可能性が高い者、現在の実務を知りすぎている者を先に挙げるよう言われていた。
ベネット、ハロルド、マーサ、それにマルタ。
そのほか、会計係のポール、文書庫を管理する書記のニール、御者頭のジョナス。厨房では料理長のベルダが、慈善茶会を含む屋敷の支出をよく知っている。
誰も、何か悪いことをしたわけではない。
それでも家族が責任を問われた時、自分たちの代わりに誰かを差し出そうとするあの人達の姿は想像できた。
――家令が報告しなかった。
――家政婦長が勝手に買った。
――執事が書状を止めた。
――会計係が数字を間違えた。
それは、私自身が、いつか言われるかもしれない言葉でもある。
*
翌日、屋敷を出る理由には、橋で働く職人の防寒具の件を挙げた。
「職人の外套のことまで、お前がいちいち決めるのか」
朝食の席でリュシアンが言った。
「工事はひと月ほどかかりますから。川沿いは冷えます」
「そんなもの、職人が自分で用意するものだろう」
「今回は、防寒具を用意する条件で、近隣の職人へ来てもらっています」
「なら、商会に選ばせればいいじゃないか」
夫はそこで話を終えた。この日、義父は侯爵家へ送った回答について何も言わず、義母は慈善茶会の花を何色にするか迷っている。
「白だけでは寂しいでしょう? でも赤を入れると、少し派手かしら」
「飾る部屋の広さを確認してから、庭師と相談なさってください」
「あら、あなたも見てちょうだいよ」
「今日は町へ参りますので……」
「じゃ、帰ってからでいいわ」
帰宅後の仕事が一つ増えた。
以前なら、いつ花を見ればよいか《《考えた》》だろう。今は予定表へ「義母、花」とだけ書き加えた。時間が余れば見る。それでよい。
屋敷を出る前、ハロルドに町から戻る時刻を伝えた。
「夕食前には戻ります」
「かしこまりました」
彼は玄関扉を開けたあと、声を落とした。
「……若奥様。先日、侯爵家へ出した回答について、旦那様から何かお尋ねはございましたか」
「いいえ」
「私にも、まだ何も」
「侯爵家からの連絡を待っているのでしょう」
「そうでございましょうか……」
ハロルドは納得していないようだった。
彼は屋敷へ届く書状も、家族が出かけた時刻も、客がどの部屋へ通されたかも知っている。私が来る前から、義父たちが面倒な話をどのように避けてきたかも見てきたはずだ。
「……ハロルド、今日、戻ったら少し話したいことがあります」
「私と、でございますか」
「ええ。ベネットとマーサにも」
ハロルドの目がわずかに細くなった。
「承知いたしました」
*
ハーマン商会の奥の部屋には、モラン公証人とヴァレール相談役が待っていた。
机の上には地図が二枚広げてある。一枚はアルマンド侯爵家の直轄領、もう一枚は王都とその周辺の貴族屋敷を記したものだった。
「回答書は読んだ」
ヴァレール相談役は挨拶を終えると、すぐに本題へ入った。
「全く呆れたものだ。当主も後継者も、自分が《《何をしていないか》》全く理解しておらん!」
「義母君も、慈善茶会の支出を把握しておられませんな」
モラン公証人が書類の束を軽く叩いた。
「一方、家令と家政婦長の回答は、実に具体的でした。日付と保管場所まで記されている」
「二人とも、仕事をしてきた者ですから」
「だから先に守らねばならない」
ヴァレール相談役が言った。
「正式な調査へ入れば、ランフォード家は使用人へ責任を負わせるかもしれん。調査中に解雇し、記録を持ち出したと騒ぐ可能性もある」
「ベネットたちは、書類を持ち出しておりませんが……」
「事実は関係ないのだ。追い詰められた者は、使える言い訳を使う」
私は鞄から雇用記録の写しを出した。
「ではこちらが、先に保護すべきと考えた者たちです」
モラン公証人が一人ずつ確認する。
「まずベネット。家令、勤続十六年」
「彼は、領地の実務を最もよく知っています」
「ハロルド。執事、十四年」
「屋敷への出入りと書状を管理しています」
「マーサ。家政婦長、二十二年」
「彼女は使用人の雇用と屋敷の備品の全てを」
「マルタ。あなたの側仕え、六年。……彼女はあなたの実家から連れてきたのですか?」
「いいえ。嫁いだ時に、こちらで付けられました」
「では、ランフォード家との雇用契約になりますな」
「はい」
会計係、書記、御者頭、料理長についても説明する。その間にヴァレール相談役は、直轄領の地図へ四つ印をつけた。
「ベネットには、北部管理所の副管理官の席がある。今の管理官が来春に退く予定だ。まず補佐として入り、仕事を見て決める」
「領地を離れることになりますね」
「ランフォード領へ置いたままでは、調査が始まった時に逃げ場がない」
次に、王都近郊の地図を指す。
「ハロルドは、侯爵家の東屋敷で執事を探している。来客の少ない屋敷だが、書状と人の出入りを管理できる者が要る」
「年齢は問題になりませんか?」
「四十六なら、執事としては働き盛りだろう」
マーサには、侯爵の叔母が暮らす小さな屋敷の家政婦長の席が用意できるという。今の家政婦長が娘の出産を手伝うため、冬前に故郷へ戻るらしい。
「この三人には、現在と同額以上の給金を保証する」
ヴァレール相談役は、残る一人の名へ指を置いた。
「マルタはどうする」
「本人の希望を、まだ聞いておりません」
「あなたについていくつもりでは?」
モラン公証人に言われ、返事が少し遅れた。
「彼女はそう言うかもしれません」
「あなたの職が決まっていないのに?」
「ですから、まだ尋ねていないのです」
「……先に尋ねなさい」
ヴァレール相談役は杖の柄へ両手を重ねた。
「行き先を決めてから選ばせるのでは遅い。本人の人生だ」
「はい」
分かっていたつもりだった。
けれど、マルタに私と一緒に来ると言われれば、断りにくくなる。働き口も住まいもない私が、彼女の暮らしまで背負えるのか。それを考えて、つい、話を先へ延ばしていた。
それも、私一人で決めようとしていたのだ。
いけない、と改めて長い間についてしまった癖に気付く。
「ほかの四人については、調査開始後も領地へ残る必要がある」
モラン公証人が会計係たちの名を示した。
「ただし、侯爵家から雇用を引き継ぐ用意があると書面で保証します。現在の当主に解雇されても、給金が途切れない形にする」
「本人たちへ、いつ伝えればよいでしょう」
「まず四人だ」
ヴァレール相談役が、ベネット、ハロルド、マーサ、マルタの名を順に叩いた。
「今夜、意思を確認しろ。受けるなら、三日後にモランの事務所から雇用条件書を送る」
「屋敷へ届けば、見つかります」
「ハーマン商会で預かる。署名もそこで行う」
「退職日は?」
「まだ決めない。侯爵家から合図が出るまで、今の仕事を続けてもらう」
「それでは、四人に秘密を抱えさせることになります」
「もう巻き込まれているぞ」
老人の声は厳しかった。
「知らないまま責任だけ負わせる方が悪いものだ」
私は四人の名が書かれた紙を見た。
「……分かりました」
「全員を連れてくる必要はない。あなたが説明し、本人の返事を書いて持ってくればよい」
「私を通して決めてよいのですか?」
「条件書を読んで署名するのは本人だ。ヴェロニカ殿は、選べるように話すだけだ」
選べるように――それなら、私にもできる。
*
屋敷へ戻ったのは、夕食の一時間ほど前だった。
義母へ花の見本を見せ、白を中心に薄桃色を加えることになった。料理長からは、慈善茶会の献立について相談を受けた。会計係から、衣装箪笥の支払いが済んだと報告があった。
そのようにいつもの仕事を終えたあと、私は執務室へベネット、ハロルド、マーサを呼んだ。
マルタには扉の外に人を近づけないよう頼んである。
三人がそろうと、まず鍵をかけた。
「……これから話すことは、まだ誰にも伝えないでください」
ベネットの手が膝の上で重なる。マーサは一度、ハロルドを見た。
ハロルドだけは姿勢を変えず、私の言葉を待っている。
「侯爵家は、ランフォード家の領地運営について、正式な調査を考えています」
「やはり」
ハロルドが小さくうなずきながら言った。
「気づいていたのですか」
「質問状を読めば、橋だけの話ではないと分かります」
「旦那様たちは、そうお考えではないようですが」
「《《だから》》調べられるのでしょう」
ベネットの声は乾いていた。
「若奥様は、いつから侯爵家へ?」
「北の水路の工事を諦めることになった夜から、方法を探していました」
「私どもへ仕事を渡し始めたのも」
「私がいなくなっても、領地を止めないためです」
マーサが息を吸った。
「いなくなる、と」
「私は、この家を出るつもりです」
三人とも、しばらく動かなかった。
扉の向こうから、廊下を歩く足音が聞こえる。マルタが誰かへ声をかけ、別の方向へ案内した。
「離縁なさるおつもりなのでございますか? 若奥様」
マーサが尋ねた。
「ええ。そのための手続きも、これから進めます」
「旦那様は」
「まだ知りません」
「では、今日のお話は? その話では――」
「今日は、皆さんの今後についてです」
侯爵家から示された職を、一人ずつ説明した。
勤務地、役目、給金。正式な調査が始まるまでは、ランフォード家で働き続けること。受けるかどうかは、本人が決められること。
ベネットは北部管理所の名を聞き、何度かうなずいた。
「ああ、以前、あちらの管理官とは水利の会合で会ったことがあります」
「引き受けますか」
「……少し考えさせてください」
「もちろんです」
マーサは侯爵の叔母の屋敷について、使用人の人数と部屋数を尋ねた。
「今の半分ほどだそうです」
「それではずいぶん、小さなところですね」
「ですが給金は、今より少し上がります」
「まあ、仕事は減って、給金は増えるのですか」
マーサは困ったように笑った。
「……それは何だか、落ち着きません」
「断っても構いませんよ」
「いいえ。ありがたいお話です。ただ、こちらの使用人たちが……」
「残る者にも、侯爵家から雇用を引き継ぐ保証が出ます」
「全員でございますか?」
「真面目に働いている者は」
「でしたら……」
マーサはそこで言葉を切り、目元を指で押さえた。
「失礼いたしました」
「今夜中に決めなくてもいいのですよ」
「いいえ。お受けいたします。若奥様が、そこまで考えてくださったのなら……」
ハロルドは、特に質問もせず、すぐにこう言った。
「なるほど、東屋敷の執事でございますね。承ります」
「すぐに決めてよいのですか」
さすがに即答されるとは思わなかった。
「……私は、若奥様がお嫁入りになってから、旦那様方がどれほど物事をお任せしてきたか見てまいりました」
ハロルドはいつもの調子で言った。
「ですからいずれ必ず、この日が来ると思っておりました」
「私が出ていくと?」
「いいえ」
初めて、彼の口元がわずかに動いた。
「《《若奥様がお倒れになる日》》でございます」
「……そうですか」
「《《出ていかれる方で、安心いたしました》》」
何と答えればよいか分からず、私は手元の紙を揃えた。
「と、とにかく、三日後、正式な条件書が届きます。それを読んでから、もう一度決めてください」
「承知いたしました」
私は三人を部屋から出したあと、マルタを呼んだ。
「若奥様、皆様へとうとうお話しになったのですね」
「ええ」
「私のことも?」
椅子を勧めたが、マルタは座らなかった。
「あなたには、まだ再雇用先が決まっていないの、だから」
「結構です。私は若奥様についてまいります」
「何が結構なの? 行き先も仕事もないのよ」
「では、二人分の仕事があるところをお探しください」
あまりに迷いなく言うので、彼女を凝視したまま、なかなか返事ができなかった。
「家庭教師が侍女を連れていくことを許す家ばかりではないわ」
「侍女でなくても構いません。子供部屋付きでも、洗濯でも、縫い物でもいたします。私はもともとそういう者です」
「給金が下がるかもしれないわ」
「今度は《《ヴェロニカ様が》》私の給金を払うわけではないでしょう」
「それはそうだけれど……」
「でしたら、《《雇う方と私が》》決めます」
モラン公証人と同じことを言われた。
「あなたも、私が一人で決めすぎると思っていた?」
「はい」
マルタはきっぱりとうなずいた。
「若奥様は、何でも一人で決めて、終わってから私どもへ知らせます」
「……今回は先に話したでしょう?」
「ですから、先に申し上げております。私はヴェロニカ様とご一緒します」
どうやら、決意は固いようだった。
机の上には、四人の名を書いた紙がある。
ベネットの横には保留。マーサとハロルドの横には承諾。
マルタは私の手からペンを取り、自分の名の横へ小さく書いた。
――若奥様と同じ雇用先を希望。
ペンを戻し、私はインクが乾くまで紙の端を押さえていた。




