42 一つの、闘いの終わり
ダンジョン採掘者の中で、指に怪我を負っている者は多くいた。彼らの中にはすでに風邪と同じ症状が出ている者も存在し、集められたのは村にある治療院だ。万一のときのために、治療院には事前に話をつけていた。
黒喘病の恐ろしいところは、始まりはただの風邪のようにしか見えないこと。
軽い風邪のような症状が数日続き、高熱を発症する。最終的には呼吸をすることができず、死に至る。初めの症状が軽すぎること、またあまりにも病状が急激に悪化するため、対処の使用がなかった。……病にさえも、私は騙されていたのだ。
新たな風邪の症状を持つ者の報告は日に日に増えていく。なのに、まだ薬が完成しない。
――薄暗い研究室の中で、私はただ静かに、拳を握りしめた。
(病の感染源は判明した……幸い、隔離もできている。これ以上、ファリス村に被害は広がることはない。でも……!)
朗らかな顔で笑う白髪の男を思い出す。彼の手には、しっかりと傷がついていた。
それに彼以外にも、苦しんでいる人がいる。
「あと一歩なのに……!」
未完成でも、薬として渡すべきだろうか。ここで諦めて、最後の可能性を捨てる方が確実なのだろうかと、答えが出ない問いに苦しんでいたとき――ふいに、ドアが開いていることに気がついた。
「……様子を見に来た」
「ルー……。うん、大丈夫。大丈夫だから」
「大丈夫な顔色には見えない。……カーテンをあけた方がいい」
「やめて!」
わずかにカーテンを開いたまま、ルーは、ぴたりと手を止めた。
「……少し、集中したくて。陽の光を見たら、時間が……」
時間を、認識してしまうから。
「……そうか」
ぱさりと、彼がカーテンから手を放すと、また部屋が薄暗くなる。
「ごめんなさい、意味がわからないことを言っているわね。ユフィ? それともグレイに頼まれたの? 大丈夫。もうそろそろこの部屋から出ようとは思ってると伝えて」
「……頼まれたわけじゃない。俺の意思だ」
「頼りない義母さんを、慰めに来てくれた?」
普段なら言うはずもない軽口が、口からこぼれる。言葉にまで思考が回らなくなっているのかもしれない。
「……よければ、見せてくれないか? メモ書きでも、なんでもいい。毒については、少し得意なんだ。毒と薬はよく似ているから」
「ふふ、何それ……」
あまりのわけがわからなさに笑ってしまう。
でも、心は冷たいままだ。
「別に、いいよ。そこら辺にあるの、全部そうだから」
カーテンの隙間から、細い光が落ちている。文字程度ならば問題なく読めるだろう。
机の上に散らばった私の走り書きのようなそれらをルーは集めて、一枚ずつ確認していく。
「これは、すべてリッカが?……個人でするレベルの研究ではないな……」
「それでもだめなのよ。結局、どれだけ時間をかけても、私は間違っていて……」
「間違ってはいない。間違いなく、これで正しい。少なくとも、俺にはそう読み取れる」
はっきりと、ルーは告げた。それだけでなんだかじわりと目頭が熱くなってしまったけれど、子供に慰められたところで意味はない。そうだったらいいけど、と自嘲的に笑おうとしたとき、ルーは作りかけの薬へと手を伸ばした。
さすがにそれには止めようと声を上げようとしたが、ルーの方が一歩早かった。
混ぜ合わせた後のフラスコの口を持ち上げ、軽く揺らす。
「正しい。けれども一つだけ足りない」
どこからか生み出された赤い炎が、フラスコの中をふわりと泳ぐ。
鮮やかな炎が、暗い部屋の中をほのかに灯した。
「ルー……魔法を、使えるの……?」
「少しだけな。使えるようになったばかりだ。しかし、俺の目は見ないでもらえると助かる」
ルーの最後の言葉なんて、私はまったく耳に入っていなかった。
どうしても、どうしても最後のピースが埋まらなくて苦しんでいたはずのものが、フラスコの中で完成に近づいていく。
「『トメロンの花』『竜の涙』『レッドドラゴンのツノ』。すべて赤の色素を持っている。同じ属性同士は、互いに反発する。だからこそ魔力を含んだ炎でないと、正しく混じり合わない」
窓を一つ閉め忘れていたのだろう。はたり、はたりと、静かな風を、私は頬で感じた。
瞬きすらできず、ただ、凝視して。
「……薬の配分はお前が得た答えを見て、やっと理解できる程度だが。――魔術の基礎ならば」
瞬間、激しい風が部屋の中を通り抜けた。風はカーテンをひるがえし、暗い室内に太陽の光が差し込む。それはモノクロの世界が、色鮮やかに変化していくようで。
輝くような、目が眩むほどの眩しさの中、そこには一つの薬ができあがっていた。
「……っ!」
今にも泣き出しそうな私に向かってゆっくりと振り向いたルーは、幼い子供を見るかのように、優しげに微笑んでいた。
私はすぐさまできた薬を抱えて、診療所に走った。
たどり着くと、すでに高熱が出始めている患者もいた。
「リッカ様! つ、つい先程、急激に体調が変化する者が出始めて……!」
「どいて! 私が薬を投与する! 伝えているけれど、黒喘病は空気感染よ! 患者が出す飛沫に注意して! 口は必ず口布で覆って!」
付けていた口布をさらにきつく絞ってくくり、素早く薄い手袋をはめる。できた薬を水で割って、飲みやすくしたものを高熱で苦しむ患者に呑ませていく。「苦しくても、無理やりにでも呑みなさい!」と叱咤した。もたもたしていたら、意識を失ってしまい、薬すらも飲めなくなる。
どれくらいの時間がたったのだろう。まるで戦場の中にいるように時間が過ぎ、ベッドに横たわる患者たちの額に当てた布タオルを何度も変えた。次第に彼らの額から、汗が滲み、少しずつ熱が引いていく。熱が引くときは、汗が出るものだ。
ここまでくれば、峠を越えたということだ。それでもまだ安心はできない。彼らの汗を拭き、こまめに様子を確認し、求められれば水をやる。飛び込んだときは太陽の光が真上にあったはずなのに、いつしか日は落ち、また、朝がやってきて――。
患者たちが、すっきりとした顔で目を覚ます。彼らは自身の状況の変化に驚き、互いに顔を見合わせていた。
ああ、もう大丈夫だ――。そう思ったとき、私はゆっくりと視界が変化していく。
そして、深い闇の中に、意識が吸い込まれていった。
「――リッカ様!?」
床に倒れた衝撃が、強かに体を打つ。
たくさんの、私を呼ぶ声がする。もうそんなことすら気にならなかった。




