第66話「気配り上手は、たまには休息対象になります」
日曜の午後。
朝比奈邸のリビングは、珍しく平和だった。
掃除機は暴走していない。
お茶会用の茶器も片づけられている。
ミナミの試作機は、リナの監査により地下ラボで封印中。
サッちゃんも、今日は朝から一度も「制圧」という言葉を使っていない。
つまり、朝比奈邸基準ではかなり安全な休日である。
そんなリビングに、メグミがやってきた。
「やっほー。今日も朝比奈邸は無事に爆発してる?」
いつもの軽い声。
いつもの笑顔。
だが、ユウトは少しだけ首を傾げた。
声は明るい。
でも、いつもよりほんの少しだけ反応が遅い。
サッちゃんが台所から顔を出す。
「メグミさん、いらっしゃいませ! 本日は爆発していません!」
「それ、報告する時点で普通じゃないんだよね」
メグミは笑って返した。
けれど、そのツッコミにも、いつもの切れ味が少しだけ足りなかった。
リナはダイニングで帳簿を閉じ、メグミを見た。
「メグミ」
「ん?」
「今日は疲れているわね」
メグミは目を丸くした。
「え、そんなことないよ?」
リナは即答する。
「否定が早い時ほど危険よ」
ユウトが思わず言った。
「それ、俺以外にも使うんだ」
「汎用性が高いわ」
「嫌な汎用性だな……」
メグミは軽く手を振った。
「いやいや、本当に大丈夫だって。ちょっと寝不足なだけ。昨日、学校のグループ連絡とか、家の用事とか、なんか細かいのが重なってさ」
ミナミが地下ラボから顔を出した。
「それ、大丈夫じゃない人の説明じゃん」
「ミナミさんに言われると、ちょっと説得力が迷子になる」
「失礼な。私は限界まで作業してから寝るタイプだから、疲労には詳しいよ」
リナが静かに言った。
「それは詳しいのではなく、悪い例よ」
サッちゃんがリビングに出てきた。
表情は真剣だった。
「メグミさん」
「な、何?」
「本日は、全力で休んでください!」
メグミは一拍置いた。
「……全力で休むって、何?」
リナがすぐに訂正する。
「全力は禁止。休息は静かに」
サッちゃんは力強く頷いた。
「では、静かに全力で!」
「もう矛盾してる」
メグミが言うと、ユウトは苦笑した。
「とりあえず、座ろうか」
◇
五分後。
リビングのソファ周辺は、なぜか休息拠点になっていた。
サッちゃんがクッションを並べる。
リナが温かい飲み物を用意する。
ミナミがホットアイマスクを持ってくる。
ユウトがテレビの音量を少し下げる。
メグミはソファの前で立ったまま、困った顔をしていた。
「いや、あの、私、そこまでしてもらうほどじゃ……」
リナがカップをテーブルに置く。
「今日は手伝い禁止」
「禁止されるほどのこと?」
「あなたはすぐに人の空気を整えようとする。今日は整えなくていい」
メグミは、少しだけ言葉に詰まった。
「そんなこと、してるかな」
「しているわ」
リナは淡々と答える。
「ユウトとサッちゃんの空気が甘くなりすぎたら茶化す。ミナミが暴走しそうになったら先にツッコむ。私が言いすぎた時は、少し軽くする。あなたは全方位に気を配りすぎる」
メグミは笑おうとした。
でも、笑う前にサッちゃんが身を乗り出した。
「メグミさん、ツッコミ筋の疲労が心配です!」
「ツッコミ筋って何?」
ユウトが即座に言う。
サッちゃんは真剣だった。
「場の空気を支える筋肉です!」
「たぶん筋肉じゃない」
ミナミがホットアイマスクを掲げる。
「ちなみに、脳波測定ヘッドギアはリナさんに禁止されたので、今回は普通のホットアイマスクです」
リナが頷く。
「成長ね」
「褒められた」
「普通の道具を普通に使うことは、評価対象よ」
「リナさんの褒め方、業務評価っぽいね」
メグミがそう言って笑った。
少しだけ、肩の力が抜けたように見えた。
サッちゃんはクッションを三つ重ねて、満足そうに言う。
「休息防壁、完成です!」
メグミがソファを見る。
「埋もれるやつだよね?」
「外部刺激からメグミさんを守ります!」
「外部刺激って、だいたいこの家の人たちなんだけど」
ユウトは小さく笑った。
「それは否定できない」
リナがクッションを一つ減らした。
「防壁ではなく、背当てで十分」
「はい!」
サッちゃんは素直に頷いた。
メグミはようやくソファに座った。
「なんか、すごいね。人に休まされるのって、変な感じ」
ユウトが温かい飲み物を手渡す。
「今日はツッコミ休んでいいよ」
「それ、私の存在意義を奪ってない?」
「奪ってない。むしろ守ってる」
メグミはカップを受け取り、少しだけ目を伏せた。
「……そういう言い方、ずるいね」
サッちゃんがすぐに反応する。
「ご主人様は時々、非常に高威力な支援発言をされます」
「サッちゃん、それは分析しなくていいから」
◇
休む側になったメグミは、思ったより忙しかった。
サッちゃんがブランケットをかけようとすると、
「いや、自分でできるよ」
と言いかける。
ミナミがホットアイマスクの説明を始めると、
「それ、電池ちゃんと入ってる?」
と確認しようとする。
リナが台所へ向かおうとすると、
「あ、洗い物手伝うよ」
と立ち上がりかける。
そのたびに、リナが淡々と止めた。
「座って」
「でも」
「座って」
「はい」
三回目には、メグミもさすがに苦笑した。
「私、そんなに動こうとしてる?」
「しているわ」
リナが即答する。
「気を遣うな、と言われても難しいでしょう。だから今日は、こちらで環境を整える」
サッちゃんも頷いた。
「メグミさん。本日は、歩行も代行できます!」
「それは怖いからやめて」
「では、物を取る係を担当します!」
「それは助かるけど、全力で飛んでいかないでね」
「低速移動で対応します!」
ユウトが言う。
「低速って宣言するほどのことじゃないんだよな」
メグミは少し笑った。
その笑いは、いつものように場を軽くするためのものではなく、少しだけ素直な笑いだった。
ミナミがホットアイマスクを差し出す。
「はい。これ、ほんとに普通のやつ。温かくなるだけ。ログも取らない」
「ログ取らないって、わざわざ言うところが怖い」
「今回は本当に取らない」
プリズミアの声が端末から軽く響いた。
プリズミア《メグミちゃん休息ログ、保存♡》
メグミはホットアイマスクを持ったまま止まった。
「保存しなくていい……」
リナが端末を見る。
「プリズミア、削除」
プリズミア《はーい。記憶には残すね♡》
「それは削除ではないわ」
ミナミが小声で言う。
「プリズミアは空気を読むようで読まないよね」
「作った人に似たのでは?」
ユウトが言うと、ミナミは少しだけ目を逸らした。
「否定しきれない」
◇
しばらくして、リビングの空気は少し落ち着いた。
テレビの音は小さく、窓から入る午後の光は柔らかい。
テーブルには温かい飲み物と、商店街で買った小さな焼き菓子。
メグミはソファに座り、ホットアイマスクを膝に置いたまま、カップを両手で包んでいた。
「なんかさ」
彼女はぽつりと言った。
「別に嫌じゃないんだよ」
誰も急かさなかった。
メグミは、カップの中の湯気を見つめる。
「みんなといるの楽しいし。ユウトとサッちゃん見てるのも面白いし、リナさんの真面目なところも、ミナミさんの危なっかしいところも好きだし」
「危なっかしいは褒めてる?」
ミナミが小さく聞くと、リナが首を横に振った。
「今は聞かない」
「はい」
メグミは少し笑って、それから続けた。
「ただ、たまにさ。私、どこに立ってるんだろうって思う時があるんだよね」
リビングが静かになった。
その言葉は重くはなかった。
でも、軽くもなかった。
「みんな、けっこう濃いじゃん」
メグミは冗談っぽく言う。
「元傭兵メイドとか、監査できるメイドさんとか、天才発明家とか、AIとか、世界大会とか。ユウトもなんだかんだ中心にいるし」
「俺は巻き込まれてるだけの気もするけど」
「でも、中心にいるよ」
メグミはユウトを見て、少しだけ笑った。
「私はさ、みんなが楽しそうならいいなって思うし、空気が重くなったら軽くしたいし、変な方向に行ったらツッコみたい。でもたまに、自分がいなくても回るんじゃないかなって思う時がある」
サッちゃんが目を見開いた。
「そんなことはありません!」
声が少し大きくなり、サッちゃんは慌てて口元を押さえる。
「す、すみません。休息中でした」
メグミは小さく笑った。
「そういうとこ、サッちゃんらしいね」
ユウトは少しだけ間を置いてから言った。
「メグミがいると、助かるよ」
メグミはカップを見つめる。
「ツッコミ役として?」
「それもある」
「あるんだ」
「かなりある」
ユウトは少し笑ってから、真面目な声に戻した。
「でも、それだけじゃない。メグミがいると、俺も少し普通でいられる気がする」
メグミの表情が、少しだけ変わった。
ユウトは続ける。
「サッちゃんたちといると、どうしても毎日がすごいことになるだろ。だから、メグミが普通に笑って、普通にツッコんでくれると、助かる。ここがちゃんと日常なんだって思える」
サッちゃんも頷いた。
「メグミさんがいると、朝比奈邸の空気が軽くなります。私が力みすぎた時も、メグミさんが笑ってくださると、少し戻れます」
リナは静かにカップを置いた。
「あなたは調整役をしすぎる。でも、役割があるから居場所があるわけではないわ」
メグミはリナを見る。
リナの声は、いつも通り淡々としていた。
「何かをしているから、ここにいていいのではない。ここにいていいから、たまたま役割が生まれているだけよ」
メグミは、何も言わなかった。
ミナミが少しだけ照れたように頭をかく。
「まあ、私もメグミちゃんがいると助かるよ。暴走前にツッコまれると、たまに正気に戻るし」
「たまになんだ」
「うん。たまに」
メグミは少し笑った。
その笑いは、さっきよりずっと柔らかかった。
「そっか」
短い返事だった。
でも、それで十分だった。
◇
その後、メグミはようやくホットアイマスクをつけた。
サッちゃんがそっとブランケットをかける。
今度は、過剰な防壁ではなく、軽く肩にかかるくらい。
ミナミは照明を少しだけ落とす。
リナは温かい飲み物を手の届く位置に置く。
ユウトはテレビを消した。
メグミはソファに深く沈んだ。
「なんか、これ……負けた気がする」
ユウトが小さく聞く。
「何に?」
「みんなの優しさに」
サッちゃんは真剣に言った。
「勝敗ではありません。休息です」
メグミはホットアイマスクの下で笑った。
「サッちゃんに正論言われた……」
リナが静かに言う。
「回復には受容が必要よ」
「リナさん、それ、休むにも業務感ある」
「事実よ」
「でも、ありがと」
リナは一瞬だけ黙った。
「……業務よ」
メグミは笑った。
「うん。そういうことにしとく」
しばらくすると、メグミの呼吸が少しずつゆっくりになった。
完全に眠っているわけではない。
でも、目を閉じ、肩の力を抜いて、ちゃんと休んでいる。
サッちゃんは小声で言った。
「ご主人様。メグミさん、ちゃんと休めています」
「うん。よかった」
リナはブランケットの端を軽く整えた。
「たまには、こちらが整える番よ」
ミナミが小声で言う。
「じゃあ次は、ツッコミ疲労測定器を――」
メグミはホットアイマスクを外さないまま、低い声で言った。
「作らなくていい」
全員が止まった。
ユウトが笑う。
「戻った」
サッちゃんが嬉しそうに拳を握る。
「メグミさん、通常運用復帰です!」
「いや、今日はもう休ませて……」
メグミの声は、少し眠そうだった。
ユウトは頷く。
「うん。今日はそのまま休んで」
メグミは小さく息を吐いた。
「……じゃあ、そうする」
朝比奈邸のリビングに、静かな時間が戻る。
いつも気を配って、笑って、ツッコんで、場を軽くしてくれる人が、今日は何もしなくていい。
それだけのことが、少しだけ特別だった。
気配り上手は、たまには休息対象になる。
そして朝比奈邸は、そういう人をちゃんと休ませられる場所でありたかった。
【第66話・完】




