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第65話「完璧ではないお茶会は、少しだけ息がしやすい」



 朝比奈邸の玄関前で、サッちゃんは深呼吸をしていた。


 吸って。

 吐いて。

 吸って。

 吐いて。


「迎撃ではなく、お迎え……迎撃ではなく、お迎え……」


 隣に立っていたユウトが、少し困ったように笑う。


「うん。迎撃じゃなくて、お迎えだね」


「はい。お迎えです。茶会です。競技ではありません。審査でもありません。警護演習でもありません」


「そこまで言えるなら、大丈夫そうだけど」


「言っていないと、うっかり警護導線の説明を始めそうです」


「それはちょっと困るかな」


 客間では、リナが最終確認を終えていた。


 茶器は新調していない。けれど、丁寧に磨かれている。

 花は高価なものではなく、庭から切った季節の小さな花。

 お菓子は商店街で買ったもの。気取った高級品ではないが、箱を開けるだけで少し嬉しくなる。


 メグミが皿の配置を見て、軽く頷いた。


「普通にいい感じじゃない?」


「普通に、が一番難しいのよ」


 リナが淡々と答える。


 ミナミは少し離れた場所で、白衣のポケットを押さえていた。


 リナが視線だけ向ける。


「ミナミ」


「何も出してないよ」


「出す前の顔だった」


「読まれてる」


 その時、チャイムが鳴った。


 サッちゃんの背筋が一瞬で伸びる。


「来ました」


 ユウトが小さく頷く。


「うん。深呼吸」


 サッちゃんは目を閉じた。


 吸って。

 吐いて。


 それから、玄関扉を開けた。


 外に立っていたのは、アリア・ベルモンドとクララ・ヴァイスだった。


 アリアは、白と淡い金を基調にした上品なメイド服を着ていた。姿勢も、指先の角度も、微笑みの深さも、まるで一枚の絵のように整っている。


 クララは、落ち着いた濃紺のメイド服。装飾は少なく、動きやすさを重視した実用的な装いだった。視線は一瞬だけ玄関、廊下、窓、階段の位置を確認し、それからすぐにサッちゃんへ戻る。


 アリアが静かに頭を下げた。


「本日はお招きいただき、ありがとうございます」


 クララも短く頷く。


「安全確認ではなく、茶会として来た」


 サッちゃんは、胸の前で手を握った。


「はい。茶会として……茶会として……」


 背後でメグミが小声で言う。


「暗示みたいになってる」


 ユウトが慌てて咳払いをした。


「ようこそ、朝比奈邸へ。今日はゆっくりしていってください」


 アリアはユウトに向き直り、柔らかく微笑んだ。


「ありがとうございます。競技ではない形でお会いできることを、楽しみにしておりました」


 クララは一拍置いて言う。


「私もだ」


 それだけの言葉なのに、サッちゃんの肩がまた少し上がった。


 リナが玄関まで出てくる。


「お越しいただきありがとうございます。客間へご案内します」


 アリアはリナを見て、穏やかに目を細めた。


「椎名リナさんですね。準備の気配が、とても整っています」


 リナの動きが、ほんの少しだけ止まる。


「……通常対応です」


 メグミが小声でユウトに言う。


「今の、リナさんに効いたね」


「うん。たぶん」


 リナの視線が飛んできたので、二人は同時に黙った。


     ◇


 客間に通されたアリアは、最初に茶器ではなく、部屋全体を見た。


 磨かれたテーブル。

 庭の花。

 商店街のお菓子。

 壁際に置かれた、少し古いけれど手入れされた棚。


 アリアは静かに息を吐いた。


「とても落ち着きます」


 サッちゃんは驚いたように顔を上げた。


「本当ですか? 最高級茶器ではありませんし、茶葉も一種類で、客間のクロスも新調していませんが……」


 リナが小さく咳払いする。


「説明は不要よ」


 アリアは微笑んだ。


「茶器よりも、使う人が丁寧に扱っていることが分かります。花も、ここに咲いていたものなのですね」


 ユウトが頷く。


「庭の花です。リナが、これが一番いいって」


 リナは視線を逸らした。


「季節感と費用対効果を考えただけよ」


 アリアは穏やかに言う。


「優しい設計ですね」


 リナは返事をするまでに、一拍かかった。


「……業務です」


 メグミが小さく笑う。


「逃げた」


「聞こえているわ」


 クララは客間の入口近くで、一度だけ周囲を見た。


 サッちゃんが緊張する。


「やはり、警備導線に問題が……?」


 クララは首を横に振る。


「問題はない。ただ、独特だ」


「独特、ですか」


「要塞ではない。だが、守る意思が多層にある」


 ユウトが首を傾げる。


「守る意思?」


 クララは淡々と続けた。


「玄関、客間、庭、台所。防衛線ではなく、生活線として整っている」


 リナの目が少しだけ動く。


「生活線……悪くない表現ね」


「警備だけでは、この家は説明できない」


 クララはリナを見る。


「この家は、運用で守られている」


 リナは少しだけ沈黙した。


「評価として受け取るわ」


「評価だ」


 短いやり取りだった。

 けれど、妙に噛み合っていた。


 ミナミが小声でメグミに言う。


「リナさんとクララさん、会話の圧が似てる」


「短文なのに重いよね」


「聞こえているわ」


 リナが言うと、クララも静かに頷いた。


「聞こえている」


 メグミは両手を上げた。


「はい、すみません」


     ◇



 サッちゃんは茶器を運び、いつもより少しだけ慎重な手つきで紅茶を注いだ。


 手は震えていない。

 だが、説明は長かった。


「本日の茶葉は、予算、香り、入手性、継続性を考慮し、リナ監修のもと選定しました。過剰な高級感よりも、朝比奈邸の日常に馴染むことを重視し――」


「サッちゃん」


 リナが静かに言う。


「説明は短く」


「はい!」


 サッちゃんは姿勢を正す。


「本日の紅茶です!」


 メグミが肩を震わせている。


「短くなりすぎた」


 アリアは楽しそうにカップを見つめた。


「選定理由まで聞けるお茶会は、初めてです」


 サッちゃんの顔が赤くなる。


「申し訳ありません!」


「いいえ。とても丁寧です」


 クララはカップを手に取り、一口飲んだ。


「温度、適切」


 サッちゃんが目を輝かせる。


「ありがとうございます!」


 リナが小声で言う。


「競技ではないわ」


「はい……!」


 ミナミはポケットに手を入れようとした。


 リナが無言で見る。


「出してないよ?」


「出す前の顔だった」


「今日二回目」


「必要なら三回目も見るわ」


 ユウトは商店街で買った菓子を皿に取り分けた。


「よかったら、これもどうぞ。近くの商店街のお店のものです」


 アリアは一口食べて、少し目を見開いた。


「……温かい味ですね」


 サッちゃんが首を傾げる。


「温かい、ですか?」


「はい。誰かの生活に近い味がします。競技会場では出せない味です」


 サッちゃんは、その言葉を受け取るように黙った。


 クララも菓子を一つ食べる。


 そして、二つ目を取った。


 メグミが目ざとく気づく。


「クララさん、気に入ってます?」


 クララは二秒ほど沈黙した。


「栄養補給として適切だ」


 リナが言う。


「気に入ったのね」


「……否定はしない」


 メグミが小さくガッツポーズをした。


「勝った」


「何に?」


 ユウトが聞くと、メグミは笑った。


「硬い人が二個目に手を伸ばす瞬間って、なんか勝った気がする」


 クララは真顔で三つ目を見た。


 リナがそっと皿をクララの近くへ寄せる。


「補給しやすい位置に置いておくわ」


「助かる」


 この二人は、やはり短い。


     ◇


 穏やかな時間が流れ始めた、その時だった。


 テーブルの下で、ぴ、と小さな音がした。


 リナの表情が変わる。


「ミナミ」


 ミナミは即座に両手を上げた。


「置いただけ! 起動したのは偶然!」


 メグミが椅子から少し身を乗り出す。


「何を置いたの?」


「緊張度測定カップ」


「だから茶会に持ち込むものじゃないって言ったよね」


 リナが低い声で言う。


「回収しなさい」


「待って。数値が出てる」


 ミナミの端末に表示された数値を見て、ミナミが一瞬だけ目を丸くした。


「……あれ?」


 サッちゃんが固まる。


「私の緊張度ですか?」


「いや」


 ミナミは端末をアリアの方へ向けた。


「アリアさんの緊張度が、けっこう高い」


 部屋が静かになった。


 サッちゃんが驚いてアリアを見る。


「アリアさんが……?」


 アリアはカップを持ったまま、少しだけ困ったように微笑んだ。


「どうやら、隠しきれていなかったようですね」


「アリアさんも、緊張されるのですか?」


「もちろんです」


 アリアは静かにカップを置いた。


「競技の場なら、私は何をすべきか分かります。手順も、所作も、評価基準も。ですが、競技ではない時間に招かれることには、あまり慣れていません」


 サッちゃんは、言葉を失った。


 アリア・ベルモンド。

 完璧な接遇を体現するメイド。


 その人も、競技ではない時間に緊張する。


「私だけでは、なかったんですね」


 サッちゃんが小さく言った。


 アリアは頷く。


「ええ。だから今日は、学びに来ました」


「学びに……?」


「あなたが守っている場所を、知りたかったのです」


 サッちゃんの胸の奥が、少しだけ熱くなった。


 リナはミナミから緊張度測定カップを回収しながら言う。


「測定機器を持ち込んだことは後で処理するわ」


「処理って何?」


「反省会よ」


「やさしい言い方なのに怖い」


 ユウトは苦笑しながらも、アリアの言葉に少し安心していた。


 完璧な人にも、緊張はある。


 それが分かるだけで、サッちゃんの肩の力が少し抜けた気がした。


     ◇


 お茶会が少し落ち着いた頃、クララがリナに言った。


「あなたは戦わない」


 リナは紅茶のカップを置く。


「ええ。少なくとも、サッちゃんたちのようにはね」


「だが、防衛線を作っている」


 リナの指が、カップの持ち手で止まった。


「私は予算と導線を見ているだけよ」


「それが防衛線だ」


 クララは淡々と続ける。


「戦う者が動けるように、壊れる前に直す。足りなくなる前に揃える。混乱する前に流れを作る。直接戦わなくても、守っている」


 リナはしばらく黙っていた。


 ミナミも、メグミも、ユウトも、自然と口を挟まなかった。


 リナはやがて、少しだけ視線を逸らす。


「……評価として受け取るわ」


 クララは頷いた。


「評価だ」


 サッちゃんはそのやり取りを見て、嬉しそうに微笑んだ。


「リナは、朝比奈邸の秩序を守ってくれています」


 リナはすぐに言う。


「業務よ」


 アリアが静かに微笑む。


「業務という言葉に、ずいぶん温度があるのですね」


 リナは黙った。


 メグミが口元を押さえる。


「今日、リナさんに刺さる言葉が多い」


「聞こえているわ」


 リナはいつもの声で言った。


 けれど、その声は少しだけ柔らかかった。


     ◇


 お茶会の終盤。


 アリアはカップを置き、サッちゃんに向き直った。


「サーシャさん」


 サッちゃんは背筋を伸ばす。


「はい」


「今日のお茶会は、競技会で言う完璧とは違います」


 サッちゃんの肩が小さく跳ねた。


 けれど、アリアの表情はとても穏やかだった。


「ですが、とても息がしやすいです」


 サッちゃんは瞬きをした。


「息が……しやすい」


「はい。競技では、私は完成度を求めました。乱れのない所作、揺らがない対応、評価される接遇。それは大切です」


 アリアは客間をゆっくり見渡す。


「でも、ここでは少し違います。ここでは、帰ってきた人が力を抜けることが大切なのですね」


 サッちゃんは、何も言えなかった。


 完璧ではない。

 でも、息がしやすい。


 それは、世界大会で見たアリアの完璧さとはまるで違う価値だった。


 そしてたぶん、朝比奈邸がずっと守ってきたものだった。


 ユウトが小さく頷く。


「そうだといいなって、思ってます」


 アリアは柔らかく笑った。


「十分に、そう感じました」


 サッちゃんは胸の前で手を握る。


「アリアさん。私は、まだ完璧ではありません」


「ええ」


「でも、朝比奈邸のメイドとして、ここを守っていきたいです」


「それは、とても強い答えだと思います」


 アリアの言葉は、競技の採点ではなかった。


 だからこそ、サッちゃんの胸に静かに届いた。


     ◇


 お茶会は終わりの時間になった。


 玄関で、アリアが丁寧に頭を下げる。


「本日はありがとうございました。また、お邪魔してもよろしいでしょうか」


 サッちゃんは目を見開いた。


「もちろんです!」


 クララも短く言う。


「次は、菓子を持参する」


 メグミがにやりとした。


「それ、かなり仲良くなるやつですね」


 クララは少しだけ考えた。


「そうなのか」


「そうです」


 リナが静かに言った。


「来客対応費を調整しておくわ」


 メグミがすぐ反応する。


「友達予算じゃなくて?」


「来客対応費よ」


 プリズミアの声が端末から響く。


プリズミア《分類タグ:友達♡》


「削除」


 リナが即答した。


 アリアは小さく笑った。


「朝比奈邸は、にぎやかですね」


 ユウトは苦笑する。


「だいぶ」


 サッちゃんは少しだけ照れながら、でも嬉しそうに言った。


「はい。少し騒がしいですが、ここが朝比奈邸です」


 アリアとクララが帰った後、玄関にはしばらく静かな空気が残っていた。


 サッちゃんは扉を見つめていた。


 ユウトが隣に立つ。


「お疲れさま」


「ご主人様」


「ん?」


「朝比奈邸らしく、できたでしょうか」


 ユウトは迷わず頷いた。


「うん。すごく朝比奈邸らしかった」


「それは、褒め言葉でしょうか」


「もちろん」


 サッちゃんは、ほっとしたように笑った。


 完璧ではない。

 けれど、帰ってきた人が力を抜ける場所。


 朝比奈邸のお茶会は、少し騒がしく、そして不思議なくらい温かかった。


【第65話・清書版】


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