第64話「完璧メイドからの招待状は、なぜか予算会議になります」
今日の屋敷は平和な朝を迎えていた。
掃除機は静かに働いている。
ミナミの試作機は停止中。
床はきれいで、帳簿は無事で、メグミの靴紐も回収されていない。
朝比奈邸基準ではかなり優秀な朝なのだ。
リナはダイニングの席で郵便物を確認していた。請求書、町内会の案内、商店街のチラシ、謎の割引券。そして、その中に一通だけ、明らかに空気の違う封筒があった。
白い封筒。
厚みのある上質な紙。
封蝋の模様まで整っている。
サッちゃんが、台所からお茶を運んできた瞬間、ぴたりと止まった。
「……この紙質」
ユウトは味噌汁の椀を置きながら顔を上げる。
「紙質?」
「ただ者ではありません」
「紙で分かるの?」
「分かります。これは、折り目まで礼儀正しい封筒です」
遊びに来ていたメグミが、パンをかじりながら言った。
「封筒に礼儀を感じるの、かなり上級者だね」
ミナミは地下ラボから顔だけ出して、興味深そうに目を細めた。
「封蝋あるじゃん。すご。今どき物理セキュリティだ」
「セキュリティではなく、品位よ」
リナは差出人を確認し、静かに読み上げた。
「アリア・ベルモンド」
その瞬間、サッちゃんが完全に停止した。
お茶の盆を持ったまま、背筋を伸ばし、瞬きすらしない。
ユウトが声をかける。
「サッちゃん?」
ミナミが指を鳴らした。
「フリーズした」
メグミが軽く手を振る。
「サッちゃん、戻ってきてー」
サッちゃんは、三秒ほどしてから小さく息を吸った。
「……再起動しました」
「本当に再起動って言った」
ユウトが苦笑する。
リナは封筒を開け、丁寧に折り畳まれた手紙を広げた。
筆跡は美しく、文章は一行目から隙がなかった。
「先日の大会では、大変お世話になりました。競技ではなく、茶会として改めてお会いできれば幸いです。クララ・ヴァイスも同席予定です。どうか、普段の朝比奈邸を見せてください」
読み終えた瞬間、ダイニングの空気が少し止まった。
ユウトが素直に言う。
「アリアさんとクララさんが、うちに来るんだ」
メグミが目を輝かせる。
「すごいじゃん。世界大会の総合優勝者と、警護部門の人でしょ?」
ミナミが面白そうに笑う。
「朝比奈邸、国際交流だね」
リナは手紙の最後をもう一度見た。
「追伸もあるわ。クララさんからの伝言ね」
サッちゃんの肩が跳ねる。
「クララさんから……!」
リナは淡々と読み上げる。
「安全確認ではなく、茶会として向かう。……だそうよ」
サッちゃんは両手を胸の前で握りしめた。
「安全確認ではなく、茶会……」
ユウトが笑う。
「むしろ安心じゃない?」
「いえ。クララさんがわざわざそう言うということは、茶会そのものが高難度という可能性が」
「たぶん違う」
メグミが肩を震わせた。
「来る前から警戒してる」
サッちゃんは真剣な顔で言った。
「アリアさんとクララさんが……朝比奈邸に……。これは、再試験ですか?」
「違うわ」
リナが即答した。
「これは競技ではない。来客対応よ」
「来客対応……」
サッちゃんはその言葉を、難しい競技名のように繰り返した。
ユウトは手紙を見ながら言う。
「でも、普段の朝比奈邸を見せてください、って書いてあるね」
サッちゃんの顔が青ざめた。
「普段……?」
「うん」
「一番難しい指定です!」
メグミが噴き出した。
「普通とか普段に弱すぎるんだよね、サッちゃん」
ミナミが頷く。
「サッちゃんにとっての高難度ミッション、普通」
リナは手紙を封筒に戻し、静かに言った。
「では、準備しましょう」
サッちゃんの目が燃えた。
「はい! 最高級茶葉を手配します! 茶器も新調し、客間のカーテンを替え、玄関から応接室までの導線を磨き、庭の草花を整え、クララさん用に警備導線も――」
「予算を提出して」
リナの一言で、サッちゃんの勢いが止まった。
「予算……!」
「接遇は熱意だけでは回らないわ」
メグミが小声で言う。
「出た。リナさんの現実パンチ」
ミナミが手を上げた。
「じゃあ私は、客の緊張度を測る茶器を――」
「不要」
「まだ名前しか出してない」
「名前の時点で不要」
ユウトは苦笑した。
「とりあえず、落ち着いて考えようか」
サッちゃんは深く頷いた。
「はい。落ち着いて、完璧なお茶会を――」
「完璧にしようとしない」
リナの訂正は速かった。
◇
十分後。
朝比奈邸のダイニングテーブルは、お茶会準備会議の会場になっていた。
リナが議長。
ユウトが調整役。
サッちゃんが過剰提案担当。
ミナミが危険提案担当。
メグミが一般人ツッコミ担当。
役割分担としては、かなり正確だった。
リナは紙を一枚出す。
「議題。茶葉、菓子、茶器、客間、警備、予算。以上」
サッちゃんが即座に手を挙げる。
「茶葉は三種必要です」
「理由は」
「アリアさん用、クララさん用、非常用です」
リナのペンが止まる。
「非常用茶葉とは何」
「想定外の緊張に備えて」
メグミが首を傾げた。
「茶葉でどう備えるの?」
「温度、香り、苦味、甘味。すべてが心を整えます」
「急に説得力あるようなこと言うね」
ミナミが面白そうに言った。
「じゃあ緊張度に応じて茶葉を自動選択するシステムを――」
「不要」
リナの声がさらに速かった。
「まだ発明名まで行ってない」
「行かなくていいわ」
ユウトはサッちゃんのメモを覗いた。
「茶器新調、客間クロス新調、花瓶新調、庭の一部整備、玄関マット更新、予備茶葉、非常用茶葉、クララさん用警備導線……結構あるね」
リナは静かに言った。
「多いわ」
「はい……」
サッちゃんはしゅんと肩を落とす。
「ですが、アリアさんに失礼があっては……」
「失礼とは、豪華にしないことではないわ」
リナは手紙をもう一度見た。
「アリアさんが見たいのは、競技用に飾った朝比奈邸ではないはずよ」
サッちゃんが顔を上げる。
「では、何をお見せすれば……?」
リナは少しだけ視線を和らげた。
「普段の朝比奈邸。あなたが帰ってくる場所としての家よ」
ダイニングが、少しだけ静かになった。
ユウトも頷く。
「俺も、いつもの朝比奈邸でいいと思う。無理に完璧にしたら、逆にサッちゃんらしくないし」
「私らしく……」
サッちゃんは小さく呟いた。
「でも、普段の朝比奈邸は、時々爆発します」
「そこは普段に含めないで」
ユウトが即答した。
メグミが笑う。
「でもまあ、飾りすぎない方が朝比奈邸っぽいよね」
ミナミも頷く。
「ありのまま。ただし試作機は出さない」
リナがミナミを見る。
「その判断だけは正しいわ」
「褒められた」
「限定的にね」
リナは紙に書き込んでいく。
「茶葉は良いものを一種類。菓子は商店街で買う。茶器は今あるものを磨く。花は庭のものを少し。客間は掃除。警備導線は通常通り。以上」
サッちゃんが目を見開いた。
「以上……!?」
「以上よ」
「少なすぎませんか?」
「多すぎるより良いわ。無理をして取り繕う方が失礼よ。続かない接遇は、相手にも負担になる」
その言葉は淡々としていた。
けれど、いつものリナらしく、実務の形をした優しさだった。
サッちゃんは少し黙り、ゆっくり頷く。
「続かない接遇は、相手にも負担……」
「ええ。迎える側が倒れそうな茶会なんて、客も落ち着かないわ」
リナは予算欄に項目を書き入れた。
来客対応費。
その横に、一瞬だけ別の言葉を書きかけて、すぐに消す。
メグミの目が光った。
「今、“交流維持費”って書こうとしなかった?」
リナのペンが止まる。
「見間違いよ」
「見間違いにしては具体的だったけど」
「見間違いよ」
ユウトが小さく笑う。
「リナも楽しみにしてるんだね」
「業務よ」
リナの声はいつも通りだった。
ただ、消したはずの文字のあたりを、ペン先が一度だけ軽く叩いた。
メグミが小さく拍手した。
「すごい。普通のお茶会になった」
ミナミが首を傾げる。
「普通って、一番難しいやつだね」
ユウトが笑う。
「最近それ、よく出るね」
サッちゃんはまだ不安そうだった。
「本当に、それで失礼ではないでしょうか」
リナは短く答える。
「失礼ではないわ。朝比奈邸として、誠実なら」
ユウトも言う。
「サッちゃんがちゃんと迎えたいって思ってるなら、それで十分伝わると思うよ」
サッちゃんの耳が、少しだけ赤くなった。
「ご主人様……」
メグミがにやりとする。
「はい、ちょっと甘くなった」
ユウトは慌てる。
「いや、今のは普通に励ましただけで」
リナがペンを置く。
「否定が早い時ほど危険ね」
「リナまで」
◇
会議はまとまりかけていた。
茶葉は一種類。
お菓子は商店街。
茶器は磨く。
花は庭。
客間は掃除。
ミナミの装置は不採用。
かなり健全な結論だった。
しかし、健全な結論は、ミナミの好奇心を止めるものではない。
「というわけで」
ミナミは白衣のポケットから、小さなカップを取り出した。
「緊張度測定カップ、試作してみた」
リナが目を細める。
「なぜ」
「茶会で緊張しすぎると、カップを持つ手が震えるでしょ? それを測る」
メグミが顔をしかめた。
「発想は分かるけど、茶会に持ち込むものじゃない」
ユウトも頷く。
「前回の試作三号の後に、よく新しい試作機出せたね」
「これは走らないから安全」
リナが低く言う。
「安全の基準を下げないで」
サッちゃんはカップをじっと見つめた。
「しかし、自分の緊張を把握できるなら、有用かもしれません」
「サッちゃん、そこで食いつくの?」
メグミが驚く。
サッちゃんは真剣な顔でカップを持った。
カップが、ぴ、と鳴る。
ミナミの端末に数値が表示された。
「緊張度、競技決勝前比……一三二パーセント」
「そんなはずは!」
サッちゃんが叫んだ。
ユウトが目を丸くする。
「アリアさんたちが来る方が緊張してるんだ……」
「い、いえ! これは機器の誤差です!」
ミナミが端末を見ながら首を振る。
「いや、わりと正確」
プリズミアの声が端末から軽やかに響く。
プリズミア《恋愛イベントではないのに、糖度も緊張度も上昇中♡》
サッちゃんが真っ赤になる。
「糖度は関係ありません!」
リナはカップを取り上げた。
「測定機器を茶会に混ぜないで」
ミナミが不満そうに言う。
「でもデータ取れるよ?」
「茶会は実験場ではないわ」
「朝比奈邸はよく実験場になるけど」
「ならないようにしているの」
メグミが小声でユウトに言う。
「リナさんの努力、だいぶ重いね」
「うん。ありがたいね」
サッちゃんはまだ赤い顔で、胸に手を当てていた。
「アリアさんとクララさんを迎えるだけで、ここまで緊張するとは……」
リナが少し考え、紙に新しい項目を書いた。
「では、サッちゃんの担当を追加するわ」
「担当、ですか?」
「深呼吸係」
サッちゃんは真剣に聞き返した。
「深呼吸係……?」
「あなたが一番必要な係よ」
ユウトが笑う。
「じゃあ俺も一緒にやるよ。深呼吸」
サッちゃんが目を見開く。
「ご主人様も……?」
「うん。緊張したら、一緒に」
サッちゃんの顔が、さっきとは別方向に赤くなった。
「それは、その……緊張が下がるのでしょうか。上がるのでしょうか」
メグミが口元を押さえる。
「はい、茶会前から甘い」
リナが淡々と言う。
「糖度管理も必要ね」
プリズミア《任せて♡》
「任せない」
リナの即答で、ダイニングに笑いが広がった。
◇
夕方。
準備会議が終わり、手紙はサッちゃんの前にそっと置かれていた。
サッちゃんは、その文面をもう一度見つめる。
「アリアさん、クララさん……本当に朝比奈邸に来てくださるんですね」
ユウトは隣に立った。
「楽しみ?」
サッちゃんは少しだけ考えた。
「怖いです」
「正直だね」
「でも、楽しみです」
その言葉に、ユウトは柔らかく笑った。
「うん。それでいいと思う」
リナは会議用の紙をまとめながら、淡々と付け加えた。
「怖いなら、準備はできる。楽しみなら、迎えられるわ」
サッちゃんはゆっくり頷いた。
「はい。朝比奈邸らしく、お迎えします」
その言葉は、少しだけ落ち着いていた。
最高級の茶器も、過剰な導線も、非常用茶葉もない。
あるのは、磨いた茶器と、商店街のお菓子と、庭の花。
そして、少し騒がしくて、少し危なっかしくて、けれどちゃんと帰ってこられる朝比奈邸。
アリアとクララに見せるのは、そこだった。
ミナミがこっそり手を上げる。
「じゃあ私は、目立たない茶会サポート機を――」
全員が同時に言った。
「作らなくていい」
メグミが笑う。
「息ぴったり」
サッちゃんも、少しだけ笑った。
完璧なメイドと、強いメイドがやってくる。
でも、迎えるのは世界大会の会場ではない。
ここは朝比奈邸だ。
サッちゃんは手紙を丁寧に畳み、胸の前でそっと持った。
「まずは、深呼吸からですね」
ユウトが隣で頷く。
「うん。一緒に」
サッちゃんはまた少し赤くなったが、今度は逃げなかった。
すう、と息を吸う。
朝比奈邸のお茶会準備は、少しだけ穏やかに、そしてかなり賑やかに始まった。
【第64話・完】




