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第62話「運河の街では、メイドも少しだけ観光します」




 朝比奈邸のリビングには、ホームキーパー賞の賞状が飾られている。淡い木目の額縁に入ったそれは、思ったより自然に部屋へ馴染んでいた。


 そして、その前にサッちゃんが立っていた。


「本日も、朝比奈邸の通常運用を高水準で――」


「今日は休みにしない?」


 ユウトが即座に言った。


 サッちゃんは、ぴたりと止まる。


「……休む?」


「うん。休む」


「ですが、ご主人様。世界大会後の朝比奈邸は、生活運用の再点検期間に入るべきで――」


 リナが帳簿を閉じ、淡々と言った。


「休息も運用の一部よ」


 サッちゃんがリナを見る。


「リナまで……」


 そこへ、玄関から元気な声が響く。


「おはよー。差し入れ持ってきたよ」


 メグミだった。手には商店街のパン屋の紙袋。リビングに入るなり、賞状と、その前で固まるサッちゃんを見比べる。


「まだ賞状の前で勤務開始してるの?」


「勤務ではありません! 心構えです!」


「ほぼ勤務じゃん」


 ユウトが苦笑する。


「今日は休ませたいんだけど、なかなか難しくて」


 メグミは少し考え、ぱっと顔を上げた。


「じゃあさ、出かけない?」


「出かける?」


「うん。運河の街までドライブ。石造りの倉庫とか、ガラス雑貨とか、カフェとかあるじゃん。天気もいいし」


 ユウトは窓の外を見た。空はよく晴れている。


「いいね。気分転換になるかも」


 リナも頷いた。


「日帰りなら妥当ね。移動時間も許容範囲」


 サッちゃんの目が真剣になる。


「運河の街……水辺警戒任務ですね!」


「違う。観光だよ」


 メグミが即答した。


「ですが、運河ということは水難リスクが――」


「観光」


「石畳は濡れると滑りやすく――」


「観光」


「観光地には不審者が――」


「観光!」


 三連打に、サッちゃんは少しだけ肩を落とした。


「……観光、ですか」


 ユウトが笑う。


「うん。今日は普通に遊ぼう」


 サッちゃんは「普通に」という言葉で、さらに難しそうな顔をした。


「普通に遊ぶ……高難度です」


 リナが立ち上がる。


「移動はABELで行きましょう。運転支援とルート管理を任せられる」


 その一言に、ガレージ側の端末が反応した。


ABEL《了解しました。目的地候補:運河地区。推定移動時間、一時間二十分。景観評価、高》


 メグミが嬉しそうに手を叩く。


「ほら、ABELも行く気だよ」


ABEL《補足:私は車載AIです。行く気というより、稼働します》


「言い方が真面目」


 サッちゃんは拳を握った。


「では、休日観光運用、開始します!」


 リナがすぐに言う。


「“運用”を少し減らして」


     ◇


 玄関にはサッちゃんの荷物が並ぶ。


 救急セット、タオル、非常食、予備手袋。


 そして、なぜかロープ。


 リナはロープを見て、静かに目を細めた。


「ロープは不要」


「運河があります!」


「飛び込まないわ」


「万が一、ご主人様が――」


 ユウトがすぐに手を振る。


「落ちない。運河に落ちる予定はない」


 メグミも頷いた。


「観光客はだいたい運河沿いを歩くだけだからね?」


 サッちゃんは渋々ロープを外した。


「では、短いロープだけ……」


「不要」


ABEL《補足:観光予定に水難救助は含まれていません》


「ABELまで……!」


 結局、持ち物は小さな鞄ひとつに収まった。


 四人がABELに乗り込むと、車内に落ち着いた起動音が響く。


ABEL《全員の着座を確認。目的地、運河地区。出発します》


 車が静かに走り出した。


 住宅街を抜け、広い道へ出る。空は青く、遠くに山の輪郭が見える。やがて道路の向こうに海が見えた。光が水面に反射して、車内に白いきらめきが差し込む。


 サッちゃんは窓の外を見ながらも、時々ユウトの様子を確認していた。


「ご主人様、シートベルトの締め付けは適切ですか」


「うん、大丈夫」


「空調は寒くありませんか」


「ちょうどいいよ」


「水分補給は――」


 メグミが後部座席から身を乗り出す。


「サッちゃん、観光前にご主人様を点検しすぎ」


「点検ではありません。快適性確認です」


 リナが隣で言った。


「快適性確認は一回で十分」


「はい……」


ABEL《現在の車内快適度:良好。会話密度:やや高め》


 ユウトが笑う。


「ABEL、そんなのも測るんだ」


ABEL《朝比奈邸運用により、評価項目が増えました》


 メグミが吹き出した。


「この家のAI、順調に変な方向に育ってるね」


 サッちゃんは少し不満そうにしたが、窓の外へ目を戻した。


 海が見える。


 広くて、きらきらして、ただ眺めていたくなる景色だった。


「海……」


 ユウトがその横顔を見る。


「きれいだね」


「はい」


 サッちゃんは小さく頷いた。


「警戒対象ではなく、景色として見ると……きれいです」


 メグミが後ろで小声で言う。


「いいこと言ってるのに、前半が物騒なんだよなぁ」


 リナが珍しく、少しだけ口元を緩めた。


     ◇


 運河の街に到着したのは、昼前だった。


 古い石造りの倉庫。ゆるやかに流れる水路。レトロな街灯。観光客の笑い声。ガラス細工の店先に並ぶ、小さな光。


 車を降りたサッちゃんは、すぐに周囲を見回した。


「石畳、濡れると滑ります。運河沿い、柵はありますが隙間もあります。観光客の流れは右回りが多く――」


「サッちゃん」


 ユウトが声をかける。


 サッちゃんは、はっとする。


「はい」


「今日は、景色も見よう」


 ユウトは運河の方を指差した。


 水面には、空と倉庫の影が揺れている。観光船がゆっくり進み、橋の上では誰かが写真を撮っていた。


 サッちゃんは少し黙ったあと、ゆっくり顔を上げた。


「……任務ではない景色、ですね」


「うん」


「見ていても、いいんでしょうか」


「もちろん」


 ユウトが当たり前のように言う。


「サッちゃんも、観光客だから」


 その言葉に、サッちゃんは少しだけ目を丸くした。


「私も……観光客」


 メグミが横から言う。


「そうそう。今日はメイドさんも観光する日」


 リナが淡々と補足した。


「警戒は最低限。観光優先でいいわ」


 メグミがリナを見た。


「リナさんが“観光優先”って言った。これは歴史的発言だね」


「記録しなくていいわよ」


「ノアちゃんがいたら絶対記録してたね」


「だから今日は連れてこなくて正解だったわ」


 四人は運河沿いを歩き始めた。


 サッちゃんは最初こそユウトの半歩後ろにいたが、すぐに少し横へ並んだ。


 ユウトが気づいて、笑う。


「今日は後ろじゃないんだ」


「はい。大会で、横に並ぶことも学びました」


「そっか」


「ただし、危険があれば前に出ます」


「うん、それは知ってる」


 メグミが二人の後ろから、にやにやしていた。


「いいねえ。世界大会帰りの距離感アップデート」


「メグミさん、何を言っているんですか!」


「いや、こっちの話」


 リナは涼しい顔で言った。


「距離感の変化は悪くないわ。過剰警護から自然同行へ移行している」


「リナまで!」


「評価よ」


 サッちゃんは赤くなりながらも、ユウトの横を歩いた。


     ◇


 ガラス雑貨の店に入ると

 店内には、小さなランプ、グラス、ペーパーウェイト、アクセサリーが並んでい    る。窓から差し込む光を受けて、棚全体がきらきらと輝いていた。


 サッちゃんはその光景に目を奪われる。


「すごい……壊れやすそうです」


 メグミがすぐに言う。


「第一声がそれ?」


「いえ、美しいです。とても。ですが、壊れやすそうです」


「正直だね」


 その少し離れた棚で、リナが足を止めていた。


 淡い青のガラスでできた、小さなペーパーウェイト。中に気泡が閉じ込められていて、運河の水面みたいに見える。


 メグミがすぐに気づいた。


「リナさん、また青いやつ見てる」


「色味を確認しているだけ」


「欲しいんだね」


「用途を検討しているだけよ」


 サッちゃんがぱっと顔を上げる。


「ごほうび予算を使いましょう!」


 リナは少しだけ眉を動かした。


「私のために使うとは言っていないわ」


 ユウトが近づいて、そのペーパーウェイトを見る。


「でも、リナが選ぶならいいと思う。前に買った青い栞とも合いそうだし」


 リナの手が、ほんの少し止まった。


「……書類を押さえる用途には使えるわね」


 メグミがにやにやする。


「用途、見つかったね」


「偶然よ」


「買う?」


 リナは数秒だけ考えた。


 それから、静かにペーパーウェイトを手に取る。


「業務効率向上用として購入するわ」


 メグミが小声でユウトに言う。


「嬉しそう」


「うん」


 リナが二人を見る。


「聞こえているわ」


「すみません」


 サッちゃんは、リナが自分のためのものを選んだことが嬉しかったのか、少しだけにこにこしていた。


 リナはそれを見て、視線を逸らす。


「……早く会計を済ませるわよ」


     ◇


 昼食は、運河沿いのカフェに入ることにした。


 窓際の席は、運河がよく見える。だが、出入口は少し遠い。


 サッちゃんは席を確認し、少しだけ悩んだ。


「この席は出入口が見えにくいですが、運河がよく見えます」


 リナがメニューを開きながら言った。


「今日は、それでいいわ」


 ユウトは窓際に座り、サッちゃんに隣を示した。


「サッちゃんも座ろう」


「はい」


 サッちゃんは少し緊張しながら、ユウトの隣に座った。


 メグミが正面でにやにやする。


「自然同行から自然隣席へ」


「メグミさん!」


 サッちゃんが赤くなる。


 リナは淡々と水を飲んだ。


「席配置としては合理的ね」


「リナまで、なぜ追撃するんですか」


「評価よ」


 注文を終えると、少しだけ静かな時間が流れた。


 運河を観光船がゆっくり進んでいく。水面に光が揺れ、窓ガラスに反射して、テーブルの上に淡い模様を作った。


 ユウトがふと呟く。


「こういう休日、また来たいね」


 サッちゃんはすぐに顔を上げた。


「はい。次回はもっと安全で効率的な観光計画を――」


 ユウトが笑って遮る。


「普通に、でいいよ」


 サッちゃんは止まった。


「普通に……」


「うん。今日みたいに」


 サッちゃんは、少しだけ考えた。


 そして、ゆっくり笑う。


「はい。普通に、また来たいです」


 メグミが小声で言う。


「今の、かなり良かった」


 リナがメニューを見たまま頷く。


「同意するわ」


「リナさんも乗るんだ」


「休日よ」


 メグミは笑った。


     ◇


 カフェを出たあと、四人はもう一度運河沿いを歩いた。


 観光客が増えてきたが、空気は穏やかだった。土産物の袋を持つ人、写真を撮る人、ベンチに座る人。ゆっくりした時間が流れている。


 その時、小さな子どもが「あっ」と声を上げた。


 風にあおられた帽子が、ふわりと舞い上がる。帽子は運河の柵の近くへ向かって飛んでいった。


 サッちゃんの体が、反射的に動きかける。


 以前なら、迷わず踏み込んでいた。

 風より速く、帽子より先に、たぶん周囲の視線まで巻き込んで。


 でも、今日は違う。


 サッちゃんは走らなかった。


 風の向きを見る。人の流れを見る。歩幅を少しだけ大きくする。


 そして、柵に引っかかる直前の帽子を、そっと受け止めた。


 大きな音もない。

 誰も驚かない。

 ただ、帽子が戻ってきただけ。


 子どもが駆け寄ってくる。


「ありがとう、お姉ちゃん!」


 サッちゃんは帽子を渡し、少しだけ膝を曲げて目線を合わせた。


「どういたしまして。風が強い時は、帽子を少し押さえてくださいね」


「うん!」


 子どもは母親らしき人のところへ戻っていった。


 ユウトはその様子を見ていた。


「今の、すごく自然だったね」


 サッちゃんは少し驚く。


「自然、でしたか?」


「うん。誰も怖がらなかったし、ちゃんと助かった」


 その言葉に、サッちゃんの顔が少し赤くなる。


「ありがとうございます」


 メグミが横から言った。


「自然に褒めるユウトも、なかなかだよね」


「いや、普通に言っただけ」


 リナが静かに言う。


「否定が早い時ほど危険ね」


「それ、俺にまで定着してるの?」


 サッちゃんは笑った。


 運河沿いの風が、金髪を少し揺らした。


     ◇


 夕方。


 帰りのABELの車内は、行きよりも少し静かだった。


 メグミは土産の紙袋を抱えたまま、後部座席でうとうとしている。リナは買った青いガラスのペーパーウェイトを鞄の中にしまい、時々そっと確認していた。


ABEL《帰路案内を開始します。到着予定時刻、十八時四十分》


 ユウトは窓の外を見ていた。夕方の光が海沿いの道を染めている。


 サッちゃんも、同じ方を見ていた。


 しばらくして、彼女は小さく言った。


「ご主人様。今日は、任務ではありませんでした」


「うん」


「でも、守りたいものはありました」


 ユウトがサッちゃんを見る。


「何?」


 サッちゃんは少し考えてから、窓の外へ視線を戻した。


「こういう時間です」


 車内が、少しだけ静かになる。


 ユウトは柔らかく笑った。


「じゃあ、また守りに来よう」


 サッちゃんは、ゆっくり頷く。


「はい。普通に」


 後部座席から、寝ぼけたメグミの声がした。


「普通に、って言えるようになったじゃん……」


 リナが小さく頷いた。


「成長ね」


ABEL《記録:休日運用、成功》


 サッちゃんが端末を見る。


「ABEL、記録していたんですか!?」


ABEL《運行ログです》


 ユウトが笑った。


「うちのAI、言い訳がうまくなったね」


 サッちゃんは少しだけ頬を膨らませ、それから窓の外を見た。


 運河の街は、もう遠い。


 でも、そこで見た水面の光も、ガラスの青も、普通に歩いた時間も、胸の中にちゃんと残っていた。


 世界一より、帰る場所。


 そして、帰る場所へ戻るための休日。


 サッちゃんは、窓の外に流れる夕景を見ながら、少しだけ目を細めた。


 明日もきっと、朝比奈邸は騒がしい。


 けれど今日は、その騒がしさへ戻るための、少しだけ穏やかな一日だった。


【第62話・完】

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