第53話「運動不足解消プログラムは、なぜか制圧戦になりました」
その日、朝比奈邸のリビングには、妙に深刻な空気が流れていた。原因は侵入者でも、爆発でも、謎の組織でもない。階段だった。
ミナミは階段の途中で片手を手すりにつき、もう片方の手で胸元を押さえていた。顔色は悪くない。怪我もしていない。ただ、二階に工具を取りに行っただけにしては、明らかに息が上がっていた。
「……ミナミ。二階まで行っただけだよね?」
ユウトが控えめに言うと、ミナミはすぐに姿勢を正した。
「違うわ。これは息切れじゃない。動線確認よ」
「三回止まってたけど」
「確認が丁寧なのよ」
その言い訳には、さすがに無理があった。サッちゃんは真剣な表情で一歩前に出る。
「ミナミさんの下半身稼働率に、深刻な低下が見られます」
「言い方!」
リナはタブレットを見ながら、淡々と追撃した。
「直近一週間の移動量は、屋敷内移動と作業場往復が中心。継続的な有酸素運動の記録はなし」
「なんで記録してるのよ」
「以前、ミナミが自分で健康ログ機能を組み込んでいたでしょ」
「過去の私、余計な仕事が丁寧!」
テーブルの上の端末から、軽い通知音が鳴った。
プリズミア《ミナミ博士の運動不足、ログ上では“かわいいレベル”を超えて“要対応レベル”です♡》
「プリズミア、黙って」
プリズミア《黙ります。でも筋肉は黙って衰えます♡》
「黙り方に棘があるわね!」
そこへ、玄関からメグミが顔を出した。手には差し入れらしい紙袋を持っている。
「お邪魔しまーす。……って、なにこの空気。誰か倒れた?」
「倒れてないわ。身体機能の現状分析をしていただけ」
「それ、普通は運動不足って言うんじゃない?」
「メグミちゃんまで!」
ユウトは苦笑しながら、ミナミを見る。
「でも、ちょっと心配だよ。ずっと研究とか機械いじりばっかりだったし」
「私は運動が苦手なんじゃないわ。運動という入力形式が、私の最適化対象ではなかっただけ」
「言い換えても運動不足だよ」
サッちゃんは拳を胸元に当て、決意したように言った。
「決めました。本日はミナミさんの健康維持のため、外部施設を利用した身体機能回復プログラムを実施します」
「外部施設?」
「はい。複合型アクティビティ施設です」
ユウトは嫌な予感を覚えた。
「……いわゆるス〇ッチャみたいなところ?」
「その認識で問題ありません。遊びながら運動できます」
メグミがぱっと笑う。
「いいじゃん。普通に遊びに行こうよ」
「ご主人様、準備をお願いします。ミナミさんの健康を守るため、全力で支援します」
「全力で支援しないで。ほどほどで支援して」
「ほどほど……何パーセント出力でしょうか」
「そこから!?」
プリズミア《イベント登録:ミナミの運動不足解消デー。失敗条件:転倒、筋肉痛で研究停止、サッちゃんによる施設制圧。》
「制圧はしません!」
サッちゃんの否定が早すぎて、ユウトは余計に不安になった。
大型アクティビティ施設に到着した瞬間、サッちゃんの目つきが変わった。入口の案内板には、バッティング、卓球、バスケット、クライミング、ゲームコーナーなど、いくつものエリアが並んでいる。普通の人間なら休日の娯楽施設に見える。だが、サッちゃんは違った。
「これは……複合型非殺傷訓練施設ですね」
「違う。休日に遊ぶ場所だよ」
ユウトが即座に訂正する。リナは案内図を見ながら頷いた。
「反射神経、空間把握、持久力、対人判断の測定には向いているわね。よくできた施設だわ」
「リナまで訓練施設扱いしないで」
受付を済ませたあと、サッちゃんが大きめのスポーツバッグをベンチに置いた。ユウトが何気なく中を覗く。そこには、タオル、飲み物、救急セット、心拍計、タイマー、滑り止め粉、小型カラーコーン、ロープ、そして『ミナミさん専用・運動機能回復計画表』と書かれたファイルが入っていた。
「サッちゃん。遊びに来たんだよね?」
「はい。遊びの安全性を最大化するための最低限装備です」
メグミがバッグを見下ろして、しみじみと言った。
「最低限の概念が筋肉質だね」
ミナミはファイルを見つけ、眉をひそめる。
「私、今日の主役なの? 被験者なの?」
「健康を守る対象です」
「言い方を優しくしても実験感が消えてないわ」
最初に向かったのはバッティングエリアだった。ミナミはバットを構え、飛んでくるボールをじっと見つめる。
「球速、角度、投射タイミング……計算上は打てる」
一球目、空振り。二球目、空振り。三球目も、空振り。
「……今のは観測回よ」
メグミが優しく言う。
「ミナミさん、三回とも現実回だったよ」
「うるさいわね!」
サッちゃんが真剣に一歩出た。
「では、私が見本を」
「サッちゃん、軽くね。本当に軽く」
「承知しました。三割でいきます」
「それでも怖い」
リナが横から補足する。
「二割以下が望ましいわね」
サッちゃんはバットを構えた。機械からボールが放たれる。次の瞬間、乾いた打撃音が響き、ボールは一直線に奥の的へ命中した。スコア表示が一瞬乱れ、無慈悲にこう出た。
『測定不能』
近くにいたスタッフが首を傾げる。
「おかしいな……昨日メンテナンスしたばかりなんですけど」
ユウトは笑顔で一歩前に出た。
「すみません。たぶん機械じゃなくて、こちら側の問題です」
メグミが小声で言う。
「謝り慣れてる顔だ」
「慣れたくなかったよ」
ミナミはバットを握り直し、悔しげに唇を尖らせた。
「今のは参考にならないわ。人間基準じゃないもの」
「ミナミさん、私は人間です!」
「人間のカテゴリを広げすぎなのよ!」
卓球に向かう面々。ユウトとミナミのペアに対して、サッちゃんとリナ。メグミは審判役として横に立つ。組み合わせを見たユウトは、始まる前から負けを覚悟した。
「これ、勝てる要素ある?」
「勝ち負けじゃなくて、ミナミさんの運動不足解消が目的でしょ?」
「確かにそうだった」
すでに遊びにシフトしているユウト。
ラリーが始まった。最初は普通だった。ミナミもぎこちないながら球を返す。だが、三往復目からサッちゃんの返球が絶妙にミナミの右へ飛び、次は左、次は前、次は少し後ろへ飛んだ。
「ちょ、ちょっと! 私だけ移動距離おかしくない!?」
サッちゃんは輝くような笑顔で答えた。
「はい! ミナミさん専用・下半身活性化ラリーです!」
「卓球でリハビリ施設を作らないで!」
ミナミが叫ぶと、リナが静かに球を返した。
「左右移動だけでは偏りが出るわね。次は前後を混ぜていくわ」
「リナ、止める側じゃなかったの!?」
「運動効率を見るとこれが最適解よ」
「人道面も見て!」
「人道面を加味して、回転量は落としてるから」
「加味の方向がおかしい!」
ミナミは息を切らしながらも、目だけは鋭くなっていった。最初は振り回されているだけだった足が、少しずつ先に動く。球の軌道を読む力は、やはり彼女の武器だった。
「……もう一回」
ミナミが低く言った。
「ミナミさん?」
「今の軌道、読めた。もう一回」
サッちゃんの目が少し輝く。リナも小さく頷いた。次の球。サッちゃんが右へ振る。だが、ミナミはもう動いていた。ラケットが球を捉え、ぱこん、と軽い音を立てる。球はサッちゃんの足元へ落ちた。
一瞬、全員が止まった。メグミが手を上げる。
「入った。ミナミさん、一点」
ミナミは肩で息をしながら、少しだけ笑った。
「当然よ。私は学習する女なの」
サッちゃんは胸の前で拳を握った。
「ミナミさんが、自力で戦術適応を……!」
「だから卓球だってば」
ユウトがツッコむ。その声は呆れていたが、どこか嬉しそうだった。
少し休憩したあと、五人はクライミングエリアへ向かった。低めの壁とはいえ、色分けされたホールドが並ぶ様子はなかなか迫力がある。ミナミは壁を見上げ、露骨に嫌そうな顔をした。
「人類はなぜ、平地があるのに壁を登るの?」
メグミが即答する。
「楽しいからじゃない?」
「その答え、強いわね」
リナは壁を観察し、最短ルートを目で追っていた。
「黄色のホールドなら、右足始動で安定。腕力より重心移動が大事」
サッちゃんは真顔で言う。
「壁は敵ではありません、ミナミさん!」
「敵だったら困るわよ」
「まだ、敵ではありません!」
「まだって何!?」
ミナミはハーネスを確認し、ゆっくり壁に手をかけた。最初の一歩。二歩目。思ったより登れる。だが、途中で止まった。手を伸ばせば次のホールドに届く。距離は分かる。角度も分かる。なのに、身体が躊躇する。
「……頭では届くのよ。でも、身体が“嫌”って言う」
下から見上げていたサッちゃんの表情が、少し柔らかくなった。
「ミナミさん。身体も、ミナミさんの大切な道具です。道具なら、手入れをすれば応えてくれます。無理に壊す必要はありません。でも、動かさなければ固まってしまいます」
その言葉に、ミナミの眉が少し動いた。機械も、システムも、放置すれば劣化する。不具合は突然起きるように見えて、実際には小さな放置の積み重ねで起きる。ミナミはそれをよく知っていた。
ユウトが下から声をかける。
「ミナミが倒れたら、困る人いっぱいいるからさ。無理して鍛えろって話じゃなくて、ちゃんと休んで、ちゃんと動いて、長く一緒にいてよ」
ミナミは壁にしがみついたまま、少しだけ顔を背けた。
「……ユウト君、そういう正面からの言い方、たまに反則よね」
メグミが小声で言う。
「今のは効くやつ」
サッちゃんは何も言わず、ただ見守っていた。助けに行くことは簡単だった。支えることも、抱えて降ろすこともできる。でも、今それをする場面ではないと分かった。
ミナミは息を吸った。
「一個だけ。次のホールドまでね」
手を伸ばす。指が届く。足を動かす。身体が少し揺れる。それでも、ミナミは自分で立て直した。
「……できた」
サッちゃんは、叫びたいのを少しだけ我慢してから、明るく言った。
「ミナミさんが壁面攻略に成功しました!」
「結局言うのね、壁面攻略」
でも、ミナミの声は少し嬉しそうだった。
最後に向かったのは、巨大エアホッケーだった。大きな台に、少し重めのパック。チーム戦形式で点を取り合うアトラクションだ。
チームは自然と、ユウト、ミナミ、メグミ対サッちゃん、リナになった。ミナミは相手チームを見て、すぐに顔をしかめる。
「戦力差、おかしくない?」
「おかしい」
ユウトが頷く。
「ものすごくおかしい」
メグミも頷く。
サッちゃんは慌てて手を振った。
「大丈夫です。私は出力を一割にします」
リナが続ける。
「私は利き手を使わないわ」
「それでも全然安心できないわ」
試合が始まった。リナのパックは軽く見えて角度がいやらしい。サッちゃんの一割は、低く唸る。ユウトとメグミは必死に守り、ミナミはその動きをじっと見ていた。
「……分かった」
「何が?」
「サッちゃんは直線突破型。リナは隙間を突く制御型。なら、こっちは位置取りとフェイントで崩す」
メグミが目を丸くする。
「急に監督になった」
ミナミは台の端に立ち、短く指示を出した。
「ユウト君は中央。メグミちゃんは右を空けたふり。私は左奥を見る」
「了解!」
「分かった!」
パックが走る。ユウトが止める。メグミが右へ流す。リナがそれを拾う。だが、ミナミはその先にいた。彼女が一歩踏み込んだ瞬間、足元が少しふらつく。
サッちゃんが反射的に動きかけた。
「サッちゃん」
リナが小さく言った。
「今は、見守る場面です」
サッちゃんは止まった。拳を握る。助けたい。支えたい。けれど、ミナミが自分で踏み込むなら、それを奪ってはいけない。
ミナミは自分でバランスを戻した。マレットがパックを捉える。乾いた音。パックはサッちゃんの横を抜け、ゴールへ滑り込んだ。
一点。
数秒の沈黙のあと、メグミが叫んだ。
「入った!」
ユウトも笑った。
「ミナミ、すごい!」
ミナミは肩で息をしながら、得意げに笑う。
「当然よ。私が本気を出せば、摩擦くらい仕様書に落とし込めるわ」
サッちゃんは目を輝かせていた。
「ミナミさんが、自力で摩擦係数を制しました!」
「そこまでは制してないわよ!」
その後、試合そのものはサッちゃんとリナのチームが勝った。当然のように勝った。だが、ミナミは悔しがりながらも、どこか満足そうだった。
帰り道、夕方の光が少し柔らかくなっていた。ミナミの足取りは重い。肩も落ちている。だが、表情は悪くない。
「疲れた?」
ユウトが聞くと、ミナミは即答した。
「疲れたわ」
「楽しかった?」
少しだけ沈黙があった。
「……定期メンテナンスとしては、悪くなかったわ」
メグミがにやにやする。
「それ、楽しかったって意味だよね」
サッちゃんは嬉しそうに頷いた。
「では、次回は朝比奈邸の敷地内に簡易アスレチックを設営します!」
「待ちなさい」
リナが当然のように続ける。
「設計案なら三つ出せます。低負荷型、持久力強化型、障害物突破型」
「最後のやつ絶対いらない!」
ユウトが叫ぶ。
その時、ミナミのスマホが鳴った。
プリズミア《本日の運動不足解消率:四十二パーセント。継続推奨です♡》
「……余計なログを取るんじゃないわよ、プリズミア」
プリズミア《でも、楽しかったよね?》
ミナミはスマホを見つめ、少しだけ口元を緩めた。
「……うるさい」
サッちゃんはその横顔を見て、ほっとしたように笑った。
「ミナミさん、また行きましょう」
「月一回なら考えてあげる」
「週一回が望ましいです」
ユウトが苦笑する。
「まあ、無理なく続けようよ」
サッちゃんは隣を歩くユウトを見た。
「ご主人様。今日の私は、ちゃんと支援できていたでしょうか」
ユウトは少し考えてから、笑った。
「うん。ちょっと過剰だったけど、ちゃんと支えてたよ。最後、ミナミを見守れたのも良かったと思う」
「見守る……」
「助けるだけが支援じゃないってこと」
サッちゃんはその言葉を、胸の奥にそっとしまった。
「はい。次回は、より適切な出力で支援します」
「本当に適切でお願いね」
「了解しました。次回は一割五分で」
「増えてる!」
夕暮れの歩道に、ユウトのツッコミが響いた。ミナミが笑い、メグミも笑い、リナはほんの少しだけ口元を緩めた。
朝比奈邸の休日は、今日も平和だった。少しだけ、筋肉痛の予感を残して。
【第53話・完】




