第48話「新学期初日、準備しすぎると少し困る」
新学期の朝、朝比奈邸の玄関には紙が一枚貼ってあった。
春休み課題。進路関係書類。定期券。黒ペン二本。単語帳。朝ごはん。
ユウトは靴を履きながら、その最後の一行を見て小さく息をついた。
「子どもじゃないんだから……」
「ご主人様はまだ子どもです」
すぐ後ろから、サッちゃんが真顔で返した。
今日の彼女は、完全に“新学期支援モード”である。
「高三の初日です。朝ごはんを抜くのは悪手です」
「言い方が部活の顧問なんだよ」
「事実です」
リビングでは、リナがコーヒー片手にうなずいていた。
「でも今日はサッちゃんが正しいわよ。
高三の初日って、持ち物もだけど気持ちも崩れやすいから」
「朝から嫌なこと言うな」
「これが現実よ」
ノアは制服姿のまま、自分のファイルを閉じた。
相変わらず無駄に完成度が高い。
「本日は進路関係の配布物が多いはずです。
受け取った瞬間に分類しないと、帰宅時点で山になります」
「学校生活を後方支援みたいに言うな」
ミナミはソファに寝転がったまま笑っていた。
面白がっている顔だ。
「でも、今日のサッちゃん本気だよ。
ユウトの鞄、中すごいことになってるし」
嫌な予感がして、ユウトは自分の鞄を開けた。
中は、整いすぎていた。
透明ファイル。赤いファイル。筆記用具ケース。単語帳。予備の黒ペン。
全部がきっちり並んでいる。
整っているのに、朝の頭だと逆に少しだけ緊張する整い方だった。
「……なんか、ちゃんとしすぎてて怖いな」
「用途別です」
サッちゃんは悪びれなかった。
「透明が提出用、赤が進路関係、青が授業用です。
すぐ使うものが前、たぶん使うものが真ん中、念のためが後ろです」
「“念のため”が一番怖いんだよ」
そこでサッちゃんは、ためらいがちに小さなメモを一枚差し出した。
「あと、これを」
「何だ?」
「保険です」
意味はよく分からなかったが、聞くと長くなりそうだった。
ユウトはそのまま鞄に入れる。
「……ありがとな」
そう言うと、サッちゃんは一瞬だけ目を丸くして、それから少し照れたように笑った。
「はい。
今日は、ちゃんと行って、ちゃんと戻ってきてください」
ユウトは小さくうなずいた。
「うん。そうする」
校門前の空気は、去年より少しだけ重かった。
騒いでいるやつはいる。
笑っているやつもいる。
でも、どこかに“いよいよ三年か”が混ざっている。
「静かだな」
ユウトが言うと、隣のメグミが首を振る。
「静かっていうより、様子見。
“受験生っぽい顔”をいつから始めるか、みんな迷ってるだけ」
そこへ、やたら姿勢のいいレオが現れた。
「おはよう、諸君。新学期初日に必要なのは第一印象だ」
「朝からうるさいな」
「当然だろう。高三最初の日だぞ——」
その途中で、スマホからプリズミアの声が入る。
《レオ、今日もカッコいいわね♡》
「恥ずかしいな!」
そこへノアが、ごく自然な顔で合流した。
制服、ファイル、落ち着いた顔。
完成度が高すぎる。
「掲示板、混んでいます」
「お前はなんでそんなに馴染んでるんだ」
「訓練の成果かもしれません」
「学校を訓練で片づけるな」
結局、ユウト、メグミ、ノア、レオはまた同じクラスだった。
「……またか」
「便利ではあるね」
メグミが言う。
「便利って言うな」
教室に入ってすぐ、須賀先生が言った。
「最初に春休み課題と進路確認票を回収する。出せ」
そこでユウトは、ほんの一瞬だけ止まった。
鞄の中が整いすぎていて、逆に出す順番で迷ったのだ。
透明ファイル。
赤いファイル。
黒ペン。
予備の黒ペン。
全部ある。
でも、朝の一発目には少しだけ情報量が多い。
「……どれだ」
隣ではメグミがもう提出を終えていた。早い。
前を見ると、ノアもとっくに出している。
レオはなぜか去年のプリントを出しかけていた。
「それ違う」
須賀先生が即答する。
「えっ」
「去年のだ」
「なぜ残ってる!?」
教室の空気が少しだけゆるむ。
その横で、ユウトはようやく透明ファイルを引き抜いた。
その拍子に、小さなメモがひらりと落ちる。
提出物を出したら、その場でファイルを閉じること。
朝ごはんを食べたので、午前中は大丈夫です。
半秒だけ沈黙が落ちた。
メグミがそれを見て、小さく言う。
「……サッちゃん、本気だね」
「見なかったことにしてくれ」
「それは無理」
少し恥ずかしい。
でも、その一文を見た瞬間に頭が戻ったのも事実だった。
ユウトはそのまま課題と確認票を出し、今度こそちゃんとファイルを閉じた。
メモの通りに。
昼休み。
ようやく一息ついて、ユウトは机の上の資料を見下ろした。
始まった。
たしかに始まった。
「どうだった」
弁当箱を開きながらメグミが聞く。
「思ったよりちゃんと高三だった」
「嫌な感想だね」
「でも正しい」
ノアは水筒の蓋を閉めて言った。
「初日としては許容範囲です。
ユウトさんは一度だけ停止しましたが、立て直しました」
「報告書みたいに言うな」
「事実です」
レオはパンをかじりながら肩をすくめた。
「僕よりましだろう。
去年の紙を出した男として、今日は少し静かに生きる」
《レオ、紙に負けてる顔もかわいい♡》
「フォローの形が独特だねプリちゃん」
ユウトは鞄の中の小さなメモを、もう一度だけ見た。
恥ずかしい。
でも少し笑える。
そして、たぶん助かった。
放課後、朝比奈邸へ戻ると、サッちゃんがすぐに顔を上げた。
「おかえりなさい」
「ただいま」
それから、少しだけ遠慮して聞いてくる。
「……どうでしたか」
ユウトは鞄を下ろして答えた。
「ちゃんと高三だった。紙が多かった」
「はい」
「あと、朝の支援セットがちょっと本気すぎた」
サッちゃんの目が少し揺れる。
「あ、やっぱり……」
しょんぼりしかけたところで、ユウトは鞄からあのメモを出した。
「でも、これは助かったよ」
サッちゃんが目を丸くする。
「出す紙を探してちょっと詰まった時、これ見て頭が戻った。
恥ずかしかったけど、役には立った」
それを聞いて、サッちゃんの表情がゆっくりやわらいだ。
「……よかったです」
「ただし、次はもう少し自然に頼む」
「はい。次回は目立たない位置にします」
「そこじゃないんだよなあ」
でも、笑ってしまう。
サッちゃんも、つられて少し笑った。
「今日は、ちゃんと行って、ちゃんと戻ってきましたね」
「ああ」
「では、初日としてはどうですか」
ユウトは少しだけ考えてから答えた。
「七十点」
「厳しいです」
「高三だからな」
そのやり取りの横から、ミナミがひょいと顔を出した。
「じゃあ、残り三十点は花見で回復しようよ」
「何の点数管理なんだよ」
ユウトが即座に突っ込む。
ミナミは気にせず続けた。
「いや、だってさ。
新学期始まったし、シリアスも一段落したし、そろそろみんなで外で騒いでもよくない?
桜、まだ残ってるでしょ」
リナが少しだけ考える顔になる。
メグミは小さく笑った。
サッちゃんは、そこで妙に真剣な顔をした。
「花見……普通のお出かけですか」
「そうそう。普通のやつ」
ミナミがうなずく。
「たぶん普通じゃ済まないけど」
その一言で、ユウトは少しだけ嫌な予感がした。
でも、悪い予感ではなかった。
新学期は静かには始まらなかった。
その次も、たぶん静かにはならない。
けれど、それでいい気がした。
【48話・完】




