第3話 王女
廃墟の外へ出た直後、背後で轟音が響いた。
驚いて振り返る。
崩れかけた建物の地下から炎が噴き上がり、夜空を赤く染めていた。
先ほどまで私を捕らえていた者たちの声は、もう聞こえない。
隣に立つ女が、廃墟へ向けていた手を下ろした。
「もう情報は持ってないみたいだし、生かしておいてもろくなことをしないでしょ」
女は誰にともなく、そう言った。
問いかける声など、私には聞こえていなかった。
「あんたが助けろって言ったのは、この子だけじゃない」
今度は、明らかに誰かへ言い返している。
だが、周囲にいるのは私と、額に一本の角を生やした女だけだった。
私は、自分がまだ助けられたわけではないのだと理解した。
ただ、この女が私を殺さない理由を、今のところ持っているだけなのだ。
「それで、王女様は……あの城まで送ればいいんだっけ?」
「いえ、ここで、だ、大丈夫です」
この女を城へ連れていくわけにはいかない。
いや、連れていってはいけない気がする。
だが、女は不思議そうに首を傾げた。
「なんで? こんな夜中に、攫われたばかりなんでしょ? 危ないじゃない」
正しい。
言っていることは、すべて正しい。
言っている本人が一番危険だと思われることを除けば。
だが、そんなことを伝える勇気は、私にはなかった。
「あ、ありがとうございます……」
じゃらり。
女が肩に担いだ袋から、硬貨のぶつかる音がした。
中に入っているのは、先ほどの者たちに命じて差し出させた金だった。
彼女は金を袋へ詰めさせながら、私に尋ねてきた。
「これくらいあれば、しばらくは生活に困らないかな?」
そう聞かれても、私には庶民の暮らしにどれほどの金が必要なのか分からない。
いや、それ以前の問題だった。
脅して金を差し出させ、その直後に、差し出した者たちを廃墟ごと焼き払ったのだ。
それなのに、今は攫われた私を一人で帰すのは危険だと、本気で心配している。
いろいろな意味で、理解できなかった。
だが、怒らせてはいけない。
それだけは、はっきりと理解していた。
どれほど歩いただろうか。
進むにつれて、窓から明かりの漏れる家々が少しずつ増えてきた。
夜も更けているためか、大半の家は静まり返っている。だが、中には酒場らしき、今も騒がしい声の聞こえる店もあった。
時折すれ違う者たちは、二人の姿を怪訝そうに見つめるだけで、声をかけてはこない。
いや、声をかけようとして、女の額から伸びる角に気づき、その場で固まると言った方が正しい。
「うーん。歩くと遠いね。大丈夫? 飛んでく?」
飛んでいく?
いや、駄目だ。
飛んで、どうするつもりなのだ。
まさか、城の真ん中へ降りるつもりではないだろうか。
本当に飛べるのか、という疑問はなぜか湧かなかった。
この女なら飛べる。
そして、それはとてもまずいことになる。
私には、そんな確信があった。
「歩けます! 歩きましょう!」
つい、食い気味に答えてしまった。
女はきょとんとした表情を見せたが、次の瞬間、何かに納得したように頷いた。
「そうだよね。王女様だもんね。自分で街を歩いてみたいよね。そっか、そっか。仕方がないから付き合ってあげよう」
どうやら、まったく違う意味で納得してくれたらしい。
私は訂正しなかった。
正直に言えば、普段これほど長い距離を歩くことはない。しかも今は裸足で、石の多い道を歩き続けた足はかなり痛んでいた。
だが、今は痛みよりも、これからのことを考えなければならない。
このまま城へ近づけば、いずれ衛兵に出会う。
そのとき、私はどうすればよいのか。
もし衛兵が、この女へ剣を向けたら。
私の頭は、かつてないほどの速さで回転していた。
だが、その心配は次の瞬間、現実となった。
「リシア様!」
遠くから、騎馬の一団がこちらへ駆けてくる。
先頭を走るのは、私の護衛騎士クレインだ。
まずい。
クレインの性格なら、角を持つ見知らぬ女を見た瞬間、間違いなく剣を抜く。
私は咄嗟に女の手を取った。
そして可能な限り明るい笑顔を作り、空いた手を大きく振る。
「クレイン! こちらです!」
この女へ、敵意を向けさせてはいけない。
その一心だった。
「リシア様! お探ししておりました。ご無事で何よりです」
クレインは馬から飛び降り、こちらへ駆け寄ってきた。
私と隣の女を見比べ、わずかに間を置いてから、その場に跪く。
私の様子を見て、ひとまず敵ではないと判断したのだろう。まずは礼を優先してくれたことに、私は胸を撫で下ろした。
隣の女を敵と認識し、私を取り返そうと剣を抜く。それが一番あり得ると思っていたのだ。
「ところで、失礼ですが……そちらの女性は、どなたでしょうか」
前言撤回。
クレインは立ち上がると、腰の剣へ手をかけながら、女との距離を詰めていく。
ひとまずは、本当にひとまずでしかなかった。
「あ、あの! 怪しげな者たちに攫われたところを、彼女が助けてくれたのです!」
その言葉を聞き、クレインの目がさらに険しくなる。
黒いローブ。額から伸びる一本の角。そして、肩に担いだ大量の金。
どう見ても、攫った者たちの仲間にしか見えない。
「ち、違うのです! 本当に、彼女は私を助けてくれただけなのです!」
必死に訴えるが、クレインは険しい表情のまま、女から目を離さない。
まずい。まずい。
緊張で喉がひりついてきた。
激しい鼓動が、耳の奥で痛いほど鳴っている。
「リシア様。ひとまず、こちらへ来ていただけますか?」
クレインは女から目を離さないまま、慎重に言葉を続けた。
「寝室からお姿が消え、我々もようやくここでお会いできたばかりです。その者が何者なのか、今の我々には判断できません」
クレインの言葉で、私はようやく気づいた。
別に、クレインは女を信用したわけではなかった。
今は私が女のすぐ隣にいる。下手に動けば私を巻き込むため、慎重にしているだけなのだ。
しかし、そうなるとますます難しい。
私がクレインの方へ行けば、騎士たちは確実に女へ敵意を向ける。
どうすればよいのか。
そんな私の焦りをよそに、女が口を開いた。
「よかったね。夜のお散歩はこれでおしまいみたいだけど、子どもはもう寝る時間だよ」
そう言うと、女はつないでいた手を放し、私の背中をそっと押した。
クレインが素早く私を背にかばい、女へ向き直る。
その後ろにいた騎士たちも、一斉に剣を抜いた。
幾つもの切っ先が、女へ向けられる。
駄目、駄目、駄目!
「駄目です! 彼女は私を助けてくれたのです!」
「リシア様のご様子から、危害を加えられてはいないとお見受けします。しかし、このような角を生やした者を、迂闊に信じるわけにはまいりません」
その瞬間、女の目が大きく見開かれた。
「……角?」
女が呟いた。
怒りを押し殺した声に聞こえ、私の全身から血の気が引いた。
だが、女は騎士たちではなく、自分の額へ恐る恐る手を伸ばした。
指先が角に触れる。
「……何、これ」
本当に知らなかったらしい。
女は、剣を向ける騎士たちなど目に入っていないようだった。
手を軽く振る。
すると空気中の水分が瞬時に凍りつき、女の前に大きな氷の板が現れた。
その表面は鏡のように滑らかで、黒いローブをまとった女の姿を鮮明に映し出している。
「な、な、何よこれ!」
女は氷に映る自分の姿を見つめ、慌てて額へ手を伸ばした。
どうやら、自分に角が生えていることへ、今初めて気づいたらしい。
何度も角へ触れ、引っ張り、根元を確かめている。
自分に角が生えていることを知らないなんて、そんなことがあるのかしら?
場違いなほど素朴な疑問が、私の頭に浮かんだ。
「あんたのせいじゃない! 出ていきなさいよ!」
まただ。
時折、この女は誰もいないところへ向かって話しかける。
「もう……どうすんのよ、これ。どう見ても怪しいやつじゃない。さっきの連中が、やたらと怯えてた理由が分かったわ」
女は一人で納得しているようだった。
だが、あの黒いローブの者たちが怯えていた理由は、決して角ではない。
それだけは、私にも断言できる。
吹き飛ばされた脚。そこから伸びる骨と肉。宙に浮かぶ無数の礫。
あの光景は、今夜からしばらく夢に出てきそうだった。
「リシア様……この者には、いろいろと聞く必要があると思われます。捕縛してもよろしいですね」
クレインが、とんでもないことを聞いてくる。
よいわけがない。
クレインは、王族直属の護衛騎士に任命されるほど強いのだろう。
王族を守る騎士とは、そういうものであるはずだ。
だが、それでも無理だと確信できる。
「何よ! 私は今忙しいのよ! ……え? 騎士?」
氷に映った自分の姿を必死に確かめていた女が、今さら気づいたようにこちらへ視線を向けた。
「駄目です! 王家の者として、恩を仇で返すような真似は許しません!」
「ですが……」
「命令です。話を聞く必要があるのなら、失礼のないようにしてください!」
私はクレインを睨みつけ、できる限り強い口調で命じた。
クレインに――いや、誰かにこれほど強く反発したのは、生まれて初めてではないだろうか。
「……分かりました」
クレインは、しぶしぶ剣を下ろした。
「リシア様がいなくなられた経緯や、ここへ至るまでのことなど、尋ねたいことが多数ございます。また、救援へのお礼もさせていただきたいので、城までご同行をお願いできますか?」
女は、自分を取り囲む騎士たちを見渡した。
騎士たちは剣を抜いたままだったが、その切っ先だけは地面へ向けている。
女が氷板に手を触れると、それは白い霧となって消え去った。
「あー、まあ、私も疲れたし。泊めてくれるなら構わないけどね」
女は誰もいないところへ視線を向ける。
「暴れないわよ。私を何だと思ってるわけ?」
謎の独り言は続いている。
だが、ひとまず目の前の危機は去った。
私はようやく胸を撫で下ろした。
――え?
城に泊まるの?
背中を、冷たい汗が流れ落ちた。




