第2話 召喚
高次元を進むアオイ。
いや、進んでいるのかどうかは、本人にも分からない。
周囲を幾つもの世界が流れていく。世界も、時間も、方向も、何の秩序もなく存在している。アオイには、そう感じられた。
「日本を探せるかしら……」
あまりにも膨大な情報を前に、アオイは困惑する。
すでに肉体は存在していない。強いていえば、今のアオイは魔力の塊と呼ぶべきものだった。
流れていく世界を一つずつ確かめていると、不意に声が聞こえた。
「帰ると言った割には、迷子か」
聞き間違えるはずがない。
竜王の声だった。
「な、なんであんたが!」
「知らぬ。だが、互いに魔力だけの存在となったのだ。混ざり合っても不思議ではあるまい」
アオイは、長らく縁のなかった絶望を感じた。
「どうすんのよ、これ……。まあ、いいわ。とりあえず、日本を見つけなきゃ」
「……」
どれほどの時間が過ぎただろう。
数千年かもしれないし、ほんの一瞬かもしれない。
そもそも、周囲に点在する世界の内側でさえ、時間が正常に流れているとは思えなかった。見える場面も時代も、何の規則性もなく入れ替わっている。
しかも、世界へ近づきすぎれば、その内側へ引き込まれる。迂闊に近寄って確かめることもできない。
「それじゃ、探しようがないわね……」
「我らは、そもそもここに存在すべきものではないのではないか?」
竜王が冷静に語りかける。
その落ち着き払った声が、アオイには妙に癪に障った。
「はっ! 私に倒されそうになったときとは違って、随分と落ち着いてるわね!」
「守るべき種も世界も消えたのだ。今さら慌てても仕方がなかろう」
竜王は少し間を置いた。
「それより、余にはお主の方が余裕を失っているように見えるがな」
「う、うるさいわね! 今さら偉そうにするくらいなら、負けてんじゃないわよ!」
アオイの感情に呼応するように、魔力の波が幾度も周囲へ放たれた。空間がそのたびに歪み、遠くを流れていた世界の像が水面のように揺れる。
「余を殺したお主が言うことではない気がするが……」
竜王の声には、わずかな愉快さが混じっていた。
「まあ、今の方がよほど人間らしくはあるな」
突如、アオイたちは一つの世界へ強く引き寄せられた。
それまで無秩序に流れていた無数の世界が遠ざかり、ただ一つの光景だけが急速に近づいてくる。
「さっきの魔力に反応した? もしかして、あそこが日本?」
アオイは引き寄せる力に逆らわず、その流れへ身を任せた。
「よいのか? いささか警戒が足りぬのではないか?」
「うるさい! やっと帰れるのよ!」
竜王の制止など、もはや耳に入っていなかった。
「お父さん、お母さん……みんな……」
懐かしい人々の姿を思い浮かべながら、アオイは迫る世界へ意識を向ける。
そして二人は、世界の境界を越えた。
*
王都から離れた郊外に、打ち捨てられて久しい廃墟があった。
崩れかけた建物の地下深く。
窓一つない石造りの広間で、顔を隠す黒いローブをまとった者たちが、巨大な魔法陣を取り囲んでいた。
暗闇を照らすのは、等間隔に置かれた蝋燭の炎と、床に描かれた術式の淡い光だけだった。
低く重なる詠唱が、湿った石壁の間で反響していた。
「司祭様……準備は整っております」
一人のローブ姿の男が、禍々しい首飾りを身につけた男へ、波打つ刃を持つ短剣を差し出した。
「うむ……ようやく、この日が来たな」
「んーっ! んーっ!」
召喚陣の手前では、十歳ほどの少女が石造りの台座に仰向けに縛りつけられていた。
薄汚れた白い寝衣に包まれた身体は細く、必死にもがいてはいるものの、固く締められた革紐はびくともしない。少女は涙を流しながら激しく首を振るが、その叫びは猿轡に塞がれ、くぐもった声にしかならなかった。
「同胞たちよ!」
短剣を受け取った男が、高々と声を上げる。
「遥か昔、我らが主を封じた勇者の力は、永き年月を経て失われつつある! 今ここに、かの者の血を引く王女を生贄として捧げ、その血をもって封印を破る! 我らが主の復活を成すのだ!」
男の声に応えるように、幾つもの歓声が地下室に響き渡った。
その声を浴びながら、男は満足げに口元を歪め、台座へ歩み寄る。
少女の前に立つと、その怯えきった顔を冷たく見下ろした。
「さあ、我らが主の糧となれ――」
男が短剣を振り上げた、そのときだった。
何かが割れるような音が、地下室に響いた。
少女が横たわる台座の奥。召喚陣の中央に浮かぶ何もない空間へ、小さなひびが走っていた。
ビキ、ビキ、と音を立ててひびが広がるにつれ、そこから膨大な魔力が漏れ出してくる。
大地が小刻みに揺れ始めた。
裂け目が拳ほどまで広がった瞬間、濃密な魔力の奔流が一気に噴き出した。
「オオオオオッ!」
周囲から歓喜の声が上がる。
だが、それとは裏腹に、短剣を掲げた男の胸には強烈な不安が湧き上がっていた。
理由は分からない。
あまりに巨大な力を前にした、本能的な恐怖なのか。
台座に縛られた少女もまた、同じものを感じていた。
噴き出した魔力が、徐々に一つの形を成していく。
人――いや、女だ。
一糸まとわぬその姿は人間の女に見えたが、額からは一本の角が伸びていた。
やがて魔力の奔流が収まると、女はその瞳をゆっくりと開いた。
黒く長い髪に、切れ長の目。整った、美しい顔立ちをしている。
だが、その瞳には、わずかな温かみもなかった。
アオイは、ゆっくりと周囲を見渡した。
明らかに怪しげな風体の集団。台座に拘束されている少女。
そして何より、足元に描かれた魔法陣らしきもの。
いや――魔法陣だ。
「ま、魔法陣……」
どう考えても、ここが日本だとは思えない。
だが、アオイはその現実を認めたくなかった。
「わ、我らが召喚に応えし者よ。その名をなんという?」
男の声に、アオイは強烈な反応を示した。
「召喚? 召喚!? 今、召喚って言ったか!?」
拘束された少女には目もくれず、アオイは男へ詰め寄る。
次の瞬間、その手が男の首をつかんだ。
細い腕からは想像もつかない力で、その身体を軽々と吊り上げる。
「司祭様!」
周囲のローブ姿の者たちが、一斉に武器を構えた。
「ここはどこだ! 国の名は!? 街の名は!?」
「司祭様を離せ!」
背後にいた一人が剣を振り上げ、アオイへ斬りかかる。
「邪魔」
アオイがそう呟いた瞬間、男の足元で石床が隆起した。
鋭く伸びた石の杭が、その腹部を貫く。
男は何が起きたのかも理解できないまま、剣を取り落とした。
「さっさと答えて。それとも、全員死ぬ?」
首をつかまれた司祭が、苦しげにくぐもった声を絞り出す。
「レ、レグナス王国……の……王都……」
「……日本じゃない」
アオイの手に力がこもる。
「ぐっ……」
「待て。殺してしまえば、情報が得られなくなるぞ」
竜王の言葉を受け、アオイは手を離した。
床へ落とされた司祭は、その場にへたり込んで激しく咳き込む。だが、アオイはそれを見ることもなく、呆然と立ち尽くしていた。
「あ、主様! 我らをお救いください!」
別の一人が叫びながら、短剣を手に少女へ駆け寄る。
だが、アオイはそれどころではなかった。
長年追い続けてきた望みは、失敗に終わった。
星を――そこに生きるすべてを犠牲にして成した結果が、また訳の分からない世界への召喚だったのだ。
彼女に希望を託した人々。
そのすべてを裏切ってまで、ここまで来たというのに。
「あの少女は、助けた方がよいと思うぞ」
竜王の声に、アオイはゆっくりと視線を向けた。
男が振り上げた短剣が、今まさに少女の胸へ突き立てられようとしている。
アオイの眼前に、親指ほどの礫が二つ、瞬時に生成された。
一つが高速で短剣を弾き飛ばす。
もう一つは男のこめかみを穿ち、その身体を台座の脇へ崩れ落とした。
「……何のために?」
「殺してから理由を聞くのか……まあ、よい」
竜王は呆れたように言葉を続けた。
「情報を得るならば、異なる立場の者から話を聞いた方がよかろう。この少女は、こやつらの仲間ではないようなのでな」
その言葉に少しだけ冷静さを取り戻し、アオイは床にへたり込んだ司祭へ目を向けた。
「さて……知っていることを教えてもらおうかしら?」
「ふざけるな! 貴様などに――」
アオイが指先をわずかに動かした瞬間、司祭の片脚が膝から弾け飛んだ。
「ギャアアアアッ!」
絶叫が地下室に響き渡る。
いつの間にか、アオイの周囲には無数の礫が浮かんでいた。
「殺すなと言ったはずだが?」
「大丈夫よ。死ぬ前に治せばいいし」
アオイが指先を向けると、淡い光が司祭の傷口を包んだ。
断面から骨が伸び、その周囲を肉が覆っていく。吹き飛んだ脚は、瞬く間に元の形へ再生された。
司祭は痛みを忘れたように、自らの脚を見つめている。
「それに、こいつらはほかにもいっぱいいるしね」
そう言いながら、アオイは周囲を見渡した。
「ひ、ひいいっ!」
ローブ姿の者たちが、一斉に部屋の出口へ殺到する。
「逃がすわけないでしょ」
次の瞬間、入口の両脇から石壁がせり出し、出口を完全に塞いだ。
逃げ道を失った者たちが、絶望した顔で振り返る。
「さあ、お話を始めましょう?」
アオイは淡々と告げた。
司祭の目には、先ほどまでの狂信も敵意もなかった。
ただ、深い絶望だけが浮かんでいた。




