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第1話 帰るために

 空から見下ろす地上に、かつての面影は残っていなかった。


 山脈は削れ、森は焼け、大地には幾重もの亀裂が走っている。竜王の居城があった場所には、黒く変色した巨大な窪地だけが残されていた。


 数か月に及んだ戦いは、人と竜種の双方から数え切れない命を奪い、この世界そのものを死の淵へ追いやっていた。


 その遥か上空で、一人の女と一頭の竜が対峙していた。


 アオイは、異世界から呼び出された人間だった。


 元の世界へ戻る方法を探して世界中を旅し、永遠とも思える研鑽の末に、人類の限界を超えた。今では、失った手足はおろか、遺伝子の欠損さえ瞬時に修復できる。


 人類は彼女を最後の希望と呼んだ。


 ――助けて。


 ――竜種を倒して。


 ――どうか、子どもたちだけでも。


 名も知らない無数の祈りが、細い光となって地上から昇り、アオイの身体へ流れ込む。


 彼女は祈りに答えなかった。ただ、それを魔力へ変換した。


 これまでに刈り取った竜種の命も、すでにアオイの内側へ取り込まれている。人類の祈りと竜種の魔力。その両方を積み上げたことで、アオイは遂に竜王と並ぶ力を手に入れていた。


「人の身で、ここまで我らを追い詰めるとは……」


 空を覆うほど巨大な翼を広げ、竜王が低く唸った。全身を覆う黒い鱗には無数の傷が刻まれ、額からは一本の巨大な角が伸びている。


 それでも、竜王が放つ魔力は大気を震わせていた。


「なぜ、我が申し出を受け入れぬ? 人と我ら竜種が住処を分ければ、人は生きていけるであろう。それが、そなたらの望みではないのか?」


 アオイは眼下の大地へ一度だけ視線を落とした。


「人がどうとか、私にはどうでもいい」


 地上から届く祈りは、今も増え続けている。


「私がいるべき所に帰るには、まだ力が足りないだけ」


 アオイが右手を突き出した。


 その周囲に、幾重もの魔法陣が展開される。


 極低温の場が形成され、そこへ生じた電荷が強大な磁場を作り上げる。飛翔体の生成、装填、照準。全ての展開に要した時間は、コンマ数秒。


 甲高い破裂音が連続して空を裂いた。


 高密度に圧縮された飛翔体が超音速まで加速され、竜王へ殺到する。


 竜王の周囲で魔力が渦巻いた。飛来する攻撃を無効化しようと、竜種の魔法干渉が発動する。


 だが、何も消えない。


 最初の一発が胸部の鱗を砕いた。続く飛翔体が同じ場所へ寸分違わず突き刺さり、強靱な鱗の下から黒い血が噴き出す。


「グオォッ! なぜだ! 我ら竜種に、なぜ貴様の魔法は通じるのだ!」


 竜王が大きく顎を開いた。


 口腔に集束した光が急激に輝きを増し、次の瞬間、眩い光線となって放たれる。


「魔法そのものじゃないからよ」


 アオイが左手を振った。


 眼前に電磁場と真空の層が幾重にも生まれる。竜王の放った光はそれらに触れた瞬間に軌道を歪め、アオイの傍らをかすめて後方へ逸れていった。


 一拍遅れて、遥か遠くの山脈に光が突き刺さる。


 峰の一つが内側から弾け、巨大な風穴が穿たれた。轟音が届いたのは、それからさらに後だった。


 竜種は高い魔法干渉力を持ち、大半の魔法を無効化する。そして、その強靱な鱗は並の物理衝撃を弾く。


 だからアオイは、魔法を直接ぶつけない。魔法によって高密度の物体を作り、加速し、竜種の干渉が術式を崩すより先に叩き込む。物体が得た運動エネルギーは、術式が消えても失われない。


「そのような力を、人が持つことができるのか! なぜだ!」


「使っている力は、あなたたちと似たようなものよ。理解の差だけ」


 竜種のブレスは、魔力によって生成された荷電粒子の奔流だ。正体が分かっている以上、軌道を曲げることは難しくない。


 もっとも、それを竜王へ教える意味はなかった。


「でも、もうどうでもいいことよ」


 ほかの竜種との戦いを含め、数か月に及んだ戦闘によって周囲の環境は不安定の極地にあった。空間は歪み、大気には使い切れなかった魔力の残滓が満ちている。


 アオイはその全てを感じ取り、静かに息を吐いた。


「そろそろね」


 両手を左右へ開く。


 竜王を包囲するように、幾つもの魔法陣が空間へ浮かび上がった。


「な、なんだ! 動けぬ……!」


 竜王の翼が不自然な角度で止まる。四肢は見えない何かに掴まれ、巨大な身体が空中へ縫い留められていた。


「重力場よ。空間そのものへの干渉は大変なの」


 魔法陣は、それぞれ異なる方向へ重力を発生させている。竜王の身体は四方八方から引かれ、押さえつけられ、逃げ場を失っていく。


「あなたに恨みはないけど、帰るには桁違いの力が必要なのよ」


 話している間にも、竜王を捉える力は増していった。


 一つ、また一つと魔法陣が加わる。やがて無数の光輪が竜王を覆い、その巨体すら見えなくなった。


「何をする気だ!」


 アオイは少しだけ考え、答えた。


「……そうね。星の爆発?」


 魔法陣が一斉に収縮を始める。


 中心部の圧力と温度が跳ね上がった。黒い鱗が赤熱し、その下の肉が溶けていく。


「星……星の爆発だと? 何を言っているのだ、貴様は!」


 竜王が苦悶の声を上げる。


「それでは人も滅ぶではないか! いや、人だけではない。全てを滅ぼす気か!」


「……そうね」


 アオイは否定しなかった。


「ふざけるな! 我ら竜種は強者として振る舞ってきた! だが、貴様のそれは我らとは違う! 全てを滅ぼすだけの力に、何の意味があるのだ!」


 術式から漏れ出した熱波が、アオイの服を燃やし尽くした。露出した肌も焼け、炭化した肉が崩れ落ちる。


 その端から新しい皮膚が再生し、直後にはまた焼かれた。


 アオイは、自分の身体に起きていることなど意識していないようだった。


「……私が家に帰るためよ」


 そう呟いた口元には、かすかな笑みさえ浮かんでいた。


 ようやく帰れる。


 その可能性が、もう手の届くところにある。


「貴様を信じている者たちを裏切ってまで、滅ぼすつもりか!」


 魔法陣を描き続けていたアオイの指先が止まった。


 地上からは、今も祈りが届いている。


 助けてくれ。竜種から守ってくれ。あなたは人類の希望だ。


 アオイの表情から笑みが消えた。


「……人類を助けてくれ。竜種から守ってくれ」


 押し殺した声が、わずかに震える。


「そんな理由で、いきなり私をこんな世界に呼び出した奴らのことなんて、知ったことじゃない!」


 魔法陣がアオイの怒りに呼応するように激しく明滅した。


「私が呼ばれる理由を作ったお前たちも、どうでもいい! もう喋るな!」


 アオイが両手を胸の前へ引き寄せる。


 そして、掌を合わせた。


「ガッ……グッ……!」


 無数の魔法陣が急激に収縮を始める。


 竜王の肉体と、その内側に蓄えられた莫大な魔力が、一点へ向かって圧縮されていく。


 アオイは全神経を制御へ集中させた。わずかなずれでも、これまで積み上げてきた全てが無駄になる。


 突如、右腕が内側から弾け飛んだ。


 それでもアオイは顔色一つ変えない。再生に使うはずの力さえ術式へ注ぎ込み、すでに掌ほどの大きさとなった球体を凝視していた。


 周囲の音が消えた。


 光さえ吸い込む暗い球体の内側で、限界まで押し込められた力が解放の瞬間を待っている。


 機会は、ただ一度。


「タイミングは一瞬……行けぇぇっ!」


 強制的に引き起こされた、極小の超新星爆発。


 白い光が全てを塗り潰した。


 竜王の肉体は原形を失い、解放されたエネルギーが周囲の空間を引き裂く。爆発はアオイをも呑み込み、皮膚も、肉も、骨も瞬時に蒸発させた。


 それでもアオイは、思考に必要な最低限の生体構造だけを再生し続ける。


 日本へ帰る。


 その一念だけで意識をつなぎ、荒れ狂うエネルギーを束ね、ただ一点へ導く。


 次元の壁に、針の先ほどの穴が穿たれた。


 次の瞬間――竜種が支配していた星は消え去った。

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