第26話 宿に集まる人々
「まだ依頼を受けていないのか」
会頭の声に、若者は頭を下げた。
「はい。ギルドへ確認しましたが、依頼書は預かったままだそうです」
「宿では会えたのだろう」
「会えました。ですが、今は金に困っていないと言われまして……」
「それで、食事を奢って帰ってきたのか」
若者は答えられなかった。
薬草を採ってきてもらったあと、アオイはギルドに顔を出していない。指名依頼を出せば、いずれ受付から伝わると思っていたが、その機会さえなかった。
「娘一人に会うのが、そう難しいか」
会頭は机の上の依頼書の控えを見た。
そのとき、別の使用人が部屋へ入ってきた。炊き出しの場で起きた騒ぎが、王都で噂になっているという。
「男が腹を刺されたそうです。ですが、その女が手をかざすと、傷が跡形もなく消えたと」
「その女とは」
「空を飛ぶ冒険者のアオイです」
会頭は顔を上げた。
飛行に、荷運び。宿には水汲みを楽にする道具まで作ったと聞く。今度は傷を治したというのか。
噂の細部は確かめる必要がある。だが、話が広まれば、自分たちと同じように接触を考える者も出てくるだろう。
「待っているだけでは埋もれるな」
会頭は若者を見た。
「改めて、商会から使いを出せ。依頼を受けるかどうかは本人に任せる。まずは話をする機会を作れ」
「承知しました」
若者が下がると、会頭は窓の外へ目を向けた。
先に声をかけたのはこちらだ。それでも、相手の都合を待っている間に、王都中が彼女の名を知り始めている。
◇
宿の食堂は、以前より賑わうようになった。
裏庭の浴室を使えると聞いて泊まりに来る客もいる。女将は忙しそうにしながらも、増えた客を歓迎していた。
アオイが作ったポンプも毎日使われている。給仕の少女は水を汲むたびに取っ手を動かし、「これなら何往復もしなくて済みます」と笑った。
アオイも、初めのうちは食堂の賑わいを気にしていなかった。
席に着くと、時折、ほかの客が声をかけてくる。
「一杯、ご馳走させてください」
「いいの? ありがとう」
酒や食事を奢ってもらい、世間話をする。話題は飛行や、ゴーレムを倒したときのことが多かった。アオイは聞かれたことに答え、食事が終われば部屋へ戻った。
だが、声をかけてくる人は日ごとに増えた。
「荷を東の町まで運んでもらえませんか。馬車なら何日もかかるんです」
「今日は働く気ないわ」
「そうですか。では、いつなら?」
「決めてない」
別の客からは、家にも水の出る道具を作ってほしいと言われた。数日間は魔力をつないでおく必要があると説明して断ると、相手はなかなか引き下がらなかった。
怪我をした身内を診てほしいという話も来た。会ったことのない人の症状を、食事の席で聞いても判断できない。そう答えると、冷たいと言われた。
最初はご馳走してくれた人まで、アオイが頼みを断ると顔を曇らせた。
「食事くらいは受けるのに、こちらの頼みは聞けないんですね」
「奢ってくれるって言ったから、もらっただけよ」
「ずいぶん気楽な方だ」
その夜、アオイは残った料理を見つめた。もう食べる気がしなかった。
女将が食堂の向こうからやって来る。
「うちの客が食事をしてるんです。仕事の話なら、別のときにしてもらえますか」
声は穏やかだったが、相手が言い返す前に、女将はアオイの皿を下げていいかと聞いた。
「まだ食べる」
「なら、温め直してくるよ」
女将は皿を持って厨房へ向かった。声をかけていた客も、その場を離れた。
それからしばらく、食事中に話しかけられることは減った。女将がさりげなく客の席を離したり、アオイへ用があると言う人には、先に内容を聞いたりしてくれていた。
アオイは礼を言った。
「宿の客を困らせたくないだけさ」
女将はそう言い、ポンプのおかげで手の空いた少女を呼んで、食堂の仕事へ戻っていった。
けれど、訪ねてくるのは食堂の客ばかりではなくなった。
ある日は貴族の家から、ある日は商会から、また別の日には名を聞いてもアオイには分からない有力者の使いが来た。
遠方への急ぎの旅、荷物の運搬、屋敷で使う道具の製作。頼み事はそれぞれ違った。炊き出しで傷を治したという話を聞き、治癒について尋ねる者もいた。
女将は以前のように「食事中だから」と断ろうとした。だが、相手が主人の名を告げ、正式な面会を求めると、宿の主人として無視するわけにもいかない。
「すまないね。断っても、また来るんだよ」
「女将さんのせいじゃないわ」
アオイはそう答えたが、食堂に下りるたびに誰かに見つけられるのは嫌になってきた。
商会の使いも来たらしい。女将から名を聞いて、薬草のときの若者がいた商会だと気づいたが、ほかの用件とまとめて断った。ギルドに依頼書を出しているなら、そこで話せばいい。
その晩から、アオイは夕食を部屋へ運んでもらうようになった。
「食堂が嫌になりましたか?」
膳を持ってきた少女が、心配そうに聞く。
「食べてるときに仕事の話をされるのが面倒なの」
「そうですよね……」
「料理が嫌なわけじゃないわよ。今日のもおいしそう」
少女は少し安心した顔で膳を置いた。
浴室にも、以前のように思い立ったときには入れなくなった。泊まり客が増え、使いたい人が順番を待っている。自分が作ったのだから先に使う、と言う気にもなれなかった。
部屋で夕食を取りながら、アオイはため息をつく。
食堂で好きなものを頼んで、気が向いたら湯船に浸かる。それだけのことが、妙に難しくなった。
翌日、部屋の扉を叩く音がした。
また誰かが来たのかと思いながら開けると、立っていたのはギルドの受付の女性だった。
「ここまで来たの?」
「はい。ギルドでお待ちしていたのですが、お見えにならないので」
受付は、抱えていた書類を持ち直した。
「アオイさん宛ての指名依頼が増えています。お受けになるかどうか、お返事をいただかないと依頼主にもお伝えできなくて」
「お金には困ってないのよ。断っておいて」
「そうしたいところですが、内容をお伝えする前に、こちらで全部断るわけにもいきません。それに、依頼主からも確認を求められていて……」
受付の声には疲れが混じっていた。アオイが来ない間、何度も問い合わせを受けていたのだろう。
「ここで全部聞くの?」
「書類を持ってきましたけど、数が多いので。できれば一度、ギルドで見ていただけると助かります。受けるか断るかは、もちろんアオイさんが決めてください」
アオイは受付の腕にある書類を見た。
宿まで来させてしまったうえ、この量を抱えて一件ずつ説明させるのも気が引ける。
「……分かったわよ。たまには依頼を見に行く」
受付の顔が明るくなった。
「ありがとうございます」
「見に行くだけよ。全部受けるとは言ってないから」
「はい。それで十分です」
アオイは上着を取り、受付とともに宿を出た。




