第8話:太陽の親友と、胸にしまった初恋
激闘と作戦会議から一夜明けた、翌日の朝。
りりんはいつも通り、中学校の校門をくぐっていた。昨夜の死闘と魔族の狂気が嘘のように、校庭からは吹奏楽部の朝練の音や、サッカー部がボールを蹴る活気ある声が響き、平凡で平和な空気が流れている。
「おーい、りりん! おはよう!」
下駄箱で靴を履き替えていると、背後から元気な声がして、ポンッと肩を叩かれた。振り返ると、同じクラスの親友・小夜子が、春の陽だまりのような屈託のない笑顔で立っていた。
小夜子は地元の名家のお嬢様で、誰もが振り返るほど華やかで明るい。けれど決して気取ることなく、家で孤立していつも俯きがちだったりりんにも、分け隔てなく優しく接してくれる大切な友達だ。
「おはよう、小夜子ちゃん」
「りりん、なんか今日ちょっと顔色いいね! 昨日の夜、ぐっすり眠れた?」
小夜子が嬉しそうに覗き込んでくる。本当は魔族と死闘を繰り広げ、命を削るような魔法を放っていたのだが、りりんは誤魔化すように「う、うん」と笑った。
「あのさ、りりん。……ちょっと、こっち来て」
不意に小夜子が声を潜め、りりんの腕を引いて人気のない体育館の裏手へと連れ出した。周囲に誰もいないことを確認すると、いつも堂々としている小夜子の白い頬が、みるみるうちに林檎のように赤く染まっていく。
「ど、どうしたの? 小夜子ちゃんがそんな顔するなんて、珍しい……」
「あのね、誰にも言わないでほしいんだけど……」
小夜子はモジモジと指を絡ませながら、意を決したようにりりんの目を見た。
「わたし……海斗くんのことが、好きなの」
「えっ……」
ドクン、と。りりんの心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
幼馴染の海斗。口は悪くて乱暴だけれど、家で姉に罵倒されて一人泣いていた時、不器用ながらもずっと隣で気にかけてくれていた男の子。
(海斗が……)
胸の奥が、チクッと痛んだ。りりん自身も気づかないふりをしていた、淡くて小さな『初恋』の感情。
しかし、りりんは瞬時にその痛みに、分厚くて重い鉄の蓋をした。
「海斗くんって、ちょっとぶっきらぼうだけど、本当はすごく優しいじゃない? この前、わたしが日直の仕事で重いプリント運んでたら、無言で半分持ってくれて……。りりんは海斗くんとお隣同士で幼馴染でしょ? だから、その……もしよかったら、協力してくれないかなって」
上目遣いで恥ずかしそうに笑う小夜子は、同性のりりんから見ても眩しいくらいに可愛かった。
明るくて、優しくて、みんなから好かれる、太陽のような小夜子。
それに比べて自分は、生まれてきたこと自体が「迷惑」だと言われるような、暗くて何の価値もない日陰の存在だ。自分が海斗の隣にいるよりも、小夜子のような女の子が隣にいる方が、彼も絶対に幸せになれるに決まっている。
(小夜子ちゃんなら……海斗とすごくお似合いだよね。私の大好きな二人がくっつくんだから、これ以上素敵なことはないよ)
りりんは、胸の奥で暴れる痛みを完全に押し殺し、顔の筋肉を総動員して、小夜子に向けて精一杯の笑顔を作った。
「うんっ! もちろん応援するよ、小夜子ちゃん! 海斗には私から、さりげなく小夜子ちゃんのこと、アピールしておくね」
「ほんと!? ありがとう、りりん! りりんってば、本当に自慢の親友だよ!」
小夜子は心底嬉しそうに、りりんをぎゅっと抱きしめた。その温もりとシャンプーのいい香りを感じながら、りりんはそっと目を伏せた。
『あんたさえ生まれなければ』という姉の呪縛から、まだ完全に逃れられていないりりんの自己評価の低さが、彼女に「自分の恋を譲る」という悲しい選択をさせてしまったのだ。
◇
その日の放課後。
黒板消しを綺麗にする日直の仕事を終えたりりんが、オレンジ色に染まった夕暮れの道を一人で帰路についていると、後ろから自転車のチェーンの音が近づいてきた。
「よぉ、りりん。帰り遅ぇじゃん」
自転車に乗った海斗が速度を落とし、りりんの歩幅に合わせて並走する。
「海斗。……あのさ、海斗って、好きな人とかいるの?」
りりんは前を向いたまま、努めて明るい声で尋ねた。心臓が早鐘のように打っているのを悟られないように、必死で声のトーンを上げる。
「はぁっ!? な、なんだよ急に!」
海斗が慌てて自転車のブレーキをかけ、キキッと高い音を立てて止まる。その顔は、夕日のせいだけではなく真っ赤に染まっていた。
「別に変な意味じゃないよ。海斗も最近、背も伸びたし……小夜子ちゃんとか、どうかなって思って。小夜子ちゃん、すっごく可愛くて良い子だし。海斗のことも、その……気になってるみたいだから」
りりんが一気にそう言うと、海斗は一瞬きょとんとした後、ひどく複雑そうな、少し怒ったような顔をして視線を逸らした。
「……お前、バカじゃねえの」
「えっ?」
「俺は、別に……小夜子とはそういうんじゃなくて、俺が……ずっと見てるのは、お前が……」
海斗がハンドルを強く握りしめ、不器用な言葉を必死に紡ごうとした、その時だった。
『――りりん、聞こえる!? りんかたちから連絡があったわ! 隣町の建設現場に、魔族が出たみたい!』
脳内に、りんじゅからの緊迫したテレパシーが響き渡った。
「っ……!」
りりんはハッと顔を上げ、海斗の言葉を遮って向き直った。
「ごめん海斗、私、急用ができちゃった! また明日ね!」
「あ、おい! りりん! 話はまだ……っ!」
海斗の制止を振り切り、りりんは全速力で駆け出した。
制服の下で、銀色の鈴がチリンと鳴る。
恋心を隠して親友を応援する中学生としての『日常』。そして、命を懸けて街を守るベルキャットとしての『非日常』。
すれ違う心と裏腹に、運命の歯車は容赦なく回り始めていた。あの時、海斗の言葉を最後まで聞いていれば――そんな後悔を抱く余地もなく、りりんは冷酷な罠が待つ戦場へと向かっていた。




