第3話:変わる日常と、不器用な双子の絆
アイボリーが召喚した魔獣を退け、初めての戦いを終えたりりんが藤城家に帰り着いた時、家の中はすでに夕食の片付けが終わり、すっかり冷え切った静寂に包まれていた。
台所のシンクには洗われた皿が伏せられ、りりんの分の食事はどこにも残されていない。
「……帰りが遅いじゃない。どこでフラフラしてたのよ」
リビングのソファで参考書を開いていた姉の鈴音が、顔も上げずに冷たい声を投げてくる。カリカリとシャープペンシルを走らせる音だけが、不機嫌に響いていた。
「あんたが家の手伝いもしないで遊んでる間、鈴香お姉ちゃんは仕事で疲れてもう寝たわよ。ほんと、いるだけで迷惑しかかけないんだから。少しは自分の立場ってものを考えなさいよ」
いつもなら、この言葉に心臓を素手で握り潰されるような息苦しさを覚え、ただ「ごめんなさい」と俯いて自室に逃げ込むだけだった。
けれど、今夜のりりんは違った。
制服の下にある小さな「鈴」の丸くて冷たい感触が、彼女の心に不思議な熱と、今まで感じたことのない強さを与えていた。
自分は、ただ迷惑なだけの存在じゃない。天界でキャミィ様に涙を流して必要とされ、そしてたった今、あの恐ろしい魔獣からみんなの居場所を守ることができたのだ。
「……ごめんなさい。次からは気をつけます」
りりんは静かに、けれど逃げることなくしっかりと鈴音の目を見て答えた。そして、ゆっくりと背筋を伸ばして自分の部屋へと向かった。
言い返されたわけでもないのに、いつもと違うりりんの真っ直ぐで光を宿した瞳に、鈴音は一瞬だけ毒気を抜かれたように押し黙り、手元のシャーペンの動きを止めた。
翌朝。少しだけ足取り軽くゴミ出しに出たりりんは、隣の家の玄関から出てきた幼馴染の海斗と鉢合わせた。
寝癖のついた頭を乱暴に掻きながら、海斗は大きなあくび混じりにりりんを見る。
「なんだお前、今日はやけにスッキリした顔してんな」
「えっ?」
「いつも、この世の終わりみたいな暗い顔して下向いて歩いてんのに。……なんかいいことでもあったのかよ」
ぶっきらぼうな口調は相変わらずだが、幼い頃からずっと隣にいて、りりんの泣き顔を誰よりも見てきた海斗の目は誤魔化せないらしい。
「別に、何もないよ」
りりんは少しだけむっとしながらも、自然と口元が綻んでいた。
「ただ……私にも、できることがあるのかもしれないって、ちょっと思っただけ」
朝日に照らされたその小さな、けれど芯のある微笑みに、海斗は目を丸くし、少しだけ気まずそうに、耳の端を赤くして視線を逸らした。
「ふーん。あっそ。……ま、その方がお前らしいんじゃねえの」
そっけなく背を向けて歩き出す海斗の背中を見送りながら、りりんの心にぽっと温かい火が灯った。
◇
その日の午後。
商店街の外れにある中華料理屋『鈴々亭』は、「準備中」の札が掛かっているにもかかわらず、賑やかな笑い声と、ごま油やニンニクを炒める香ばしい匂いに包まれていた。
「あーっ、疲れた! やっぱり現場仕事の後は、これに限るな!」
建築現場の作業着姿のままのりんかが、カウンターで大盛りの特製チャーハンと焼き餃子を豪快にかき込んでいる。己の素手一つで巨大な魔獣を殴り飛ばしたたくましい拳は、レンゲを持つ時も力強い。
「ちょっとりんか、そんなに炭水化物ばっかり食べたらまた太るわよ! 匂い嗅いでる私までお腹空いてきちゃうじゃない……めいりんちゃん、私にも水餃子追加で!」
現役のトップモデルとして体型維持に命を懸けているかりんが、カロリーを気にしつつも結局誘惑に負けて声を上げる。
「はーい! かりんお姉ちゃん、お待ちどおさま!」
オレンジ色のシュシュで髪を束ねためいりんが、満面の笑みで熱々の皿を運んでくる。厨房の奥では、姉のりんじゅが優しく微笑みながら、全員分の冷たいジャスミン茶を淹れていた。
「りりんちゃんも、遠慮しないで食べてね。これからは私たち、一緒に戦う大事な仲間なんだから」
りんじゅがそっと、りりんの前に自家製の冷たい杏仁豆腐を置いてくれる。
「……ありがとう、りんじゅさん」
りりんはスプーンを手に取りながら、目の前で賑やかに言い合うりんかとかりんの双子姉妹を見つめた。
「大丈夫、昔みたいにはならないよ。今は現場で鉄骨運んで、毎日ガンガン体動かしてるんだから!」
りんかが笑ってチャーハンを頬張る。
「そうやって油断してると、また泣きつくことになるんだからね。その時はもう知らないわよ」
かりんがツンとそっぽを向くが、その横顔には姉への深い愛情が滲んでいた。
二人の間には、昔から決して切れない強い絆がある。
――実は数年前の中学生時代、りんかは今のような筋肉質で引き締まった体型ではなかった。食べることが何よりも好きだった彼女は、丸々と太っており、運動も大の苦手。それが原因で、学校では陰湿ないじめの標的にされていたのだ。
『どけよ、デブ』
『お前が通ると廊下が狭くなるんだけど。息苦しいからこっち来ないでよ』
体育の授業の裏で、数人の女子に囲まれて上履きを隠され、泥だらけになって泣きじゃくっていた中学生のりんか。
そこに真っ直ぐに乗り込んできたのが、すでにティーン誌の読者モデルとして活躍し、誰もが振り返るほど美しく、そして気が強かった双子の妹・かりんだった。
『……ちょっと、あんたたち。私のお姉ちゃんに何してんのよ』
『えっ、かりんちゃん……でもこいつ、どんくさいし……』
『うるさい! お姉ちゃんを太っちょって呼んでいいのは、私だけなのよ! 性格がブスなあんたたちなんかより、優しいお姉ちゃんの方が百倍可愛いわよ!!』
かりんは泣いているりんかの腕を力強く引っ張り、いじめっ子たちを鋭く睨みつけてその場から連れ出した。
夕暮れの帰り道。かりんはツンとそっぽを向いたまま、自分の綺麗なハンカチをりんかの泥だらけの顔に押し付けた。
『……泣いてる暇があったら、走りなさいよ。私が徹底的に鍛え直してあげるから』
『かりん……っ、うわぁぁぁん……!』
それからというもの、かりんの厳しい(けれど絶対に途中で見捨てない)スパルタ指導のもと、りんかは毎日必死に運動を始めた。
最初は辛くて泣いてばかりだったが、やがてりんかは「身体を動かすことの楽しさ」に目覚めていった。脂肪は筋肉に変わり、誰よりもたくましく、そして誰かを守れる強い拳を手に入れたのだ。いじめられて塞ぎ込んでいた心は救われ、今では自分の好きな建築現場の仕事で、男たちに混ざって生き生きと汗を流している。
「あの時かりんが助けてくれなかったら、今の私はないからな。……本当に、感謝してる」
りんかがふと真面目な顔で言うと、かりんは耳まで真っ赤にして「な、なによ急に! 餃子伸びるわよ!」と慌てて熱い水餃子を口に放り込み、むせていた。
そのやり取りを見て、店内に温かい笑い声が響く。
りりんも自然と声を出して笑っていた。家族以外と食卓を囲み、こんなに心が温かく、満たされたような気持ちになったのは初めてだった。
年齢も境遇もバラバラな5人。けれど、キャミィ様への想いと鈴の力で結ばれた彼女たちの間には、血の繋がりを超えた、家族のような確かな居場所が生まれ始めていた。
◇
同じ頃。人間界の温かな空気とは遠く離れた、魔界の冷徹な城。
「あーあ、最悪。せっかく私が見つけたおもちゃ、壊されちゃった」
ゴスロリ風のドレスの裾を土と泥で汚して帰還した三女・アイボリーが、不満げに唇を尖らせていた。手には苛立ちをぶつけるように、黒い薔薇の花が握り潰されている。
「あら、アイボリーが後れを取るなんて珍しいわね。あなたの『仔』たちは、所詮その程度の出来損ないだったってことかしら」
深紅のルージュを引いた次女・マゼンダが、妖艶に、だが残酷に目を細める。彼女の前には巨大な姿見があり、自分の美しい顔の造作をうっとりと確認していた。
「生意気な人間どもね。次は私が直接前線に出て、その小娘たちを八つ裂きにしてあげるわ。私の美しさと炎の前に、ひれ伏させてやる」
「マゼンダ、油断は禁物です。未知の光の力を持つ者たち……侮ってはいけませんよ」
静かに、だが絶対的な威圧感を持って嗜めるのは、魔王軍を統率する長女のキャメルだ。彼女の冷徹な視線は、部屋の奥――高くそびえる玉座の傍に佇む、一人の青年へと向けられていた。
艶やかな黒髪と、深い翡翠の瞳を持つ魔王の息子、ネイヴィー。
彼は窓辺に立ち、淀んだ魔界の赤い空をただ虚ろに見つめていた。
「ネイヴィー様、ご報告いたします」
アイボリーが態度を豹変させ、媚びるような甘い声で彼に近づく。
「人間界に、邪魔な女たちが現れました。一人は不快な光の力を放ち、もう一人は、後方から仲間の傷を『回復』させていたのです……」
「回復の、力……?」
ネイヴィーが低く呟いた瞬間。ズキッと、彼の脳裏に鋭い痛みが走った。
ザザッ、と視界が歪む。
冷たい岩肌、水滴の音。たいまつの炎に照らされた、人間の少女の顔。
『わたしも、帰る場所を探しているの』
『エリック……見て、魔界にもこんなに綺麗な花が咲くのね』
「っ……!」
ネイヴィーは顔を歪め、強くこめかみを押さえてその場に片膝をついた。
「ネイヴィー様!?」
三姉妹が血相を変えて駆け寄る。マゼンダが彼の腕を支えようと手を伸ばし、アイボリーが不安げに見上げる。
「いや……なんでもない。触るな。……少し、頭が痛んだだけだ」
ネイヴィーは冷たく彼女たちの手を払いのけ、忌々しそうに目を閉じた。
(何だ、今の記憶は。僕はあの人間の女を知らない。……人間界に行けば、何かが分かるというのか?)
魔界の王子の心に落ちた、小さな波紋。
それがやがて、狂おしいほどの愛と執着に変わり、人間界と魔界の運命を大きく狂わせていくことを、この時の彼はまだ知らなかった。




