最終話:14歳の涙と、永遠の始まり
海斗の最期は、とても穏やかなものだった。
清潔な病室のベッドの周りには、すっかり白髪になった妻の小夜子と、たくさんの子供や孫たちが集まり、温かい涙を流して彼の手を握っていた。
『おじいちゃん、ありがとう』
『海斗くん。……あなたと生きてこられて、本当に、本当に幸せだったわ』
小夜子の優しく震える声に見送られながら、海斗は静かに目を閉じ、長い長い人間としての生涯に幕を下ろした。苦しみはなく、ただ深い眠りに落ちていくような感覚だった。
――次にゆっくりと目を開けた時、海斗は真っ白な光の中に立っていた。
「……ここは?」
自分の声が、ひどく高く、若々しいことに驚く。
しわだらけだったはずの手のひらを見つめると、そこには若く、泥だらけになって遊んでいた頃の少年の手があった。着ている服は、見慣れた中学校の制服。
人間界でのあらゆる重荷や、老い、責任をすべて脱ぎ捨て、海斗の魂は、彼が一番純粋だった「14歳」の姿へと還っていた。
その時だった。
『――チリン』
背後で、どこか懐かしい、清らかな銀色の鈴の音が鳴った。
海斗の心臓が、ドクン、と大きく跳ねる。
ゆっくりと振り返った先。
柔らかな雲が広がる天界の野原に、純白のワンピースを着た一人の少女が立っていた。
色素の薄い髪、少しはにかんだような優しい笑顔。何十年もの間、海斗が一日たりとも忘れたことのなかった、あの日のままのりりんだった。
「……り、りん……?」
海斗は一歩、ふらつくような足取りで前に出た。
幻じゃない。夢でもない。
りりんはゆっくりと海斗に歩み寄ると、聖母のように柔らかく、温かく微笑んだ。
「おかえりなさい、海斗。……おじいちゃんになるまで、いっぱいいっぱい、頑張ったね」
その声を聞いた瞬間。海斗の胸の中に、理屈ではない「直感」が雷のように流れ込んできた。
りりんが放つ、温かくて、どこまでも深く海斗を肯定する慈愛の空気。
海斗は悟ったのだ。自分が小夜子と笑い合った日も、子供が生まれて泣いた日も、仕事で苦しかった日も……りりんは天界からずっと、少しの嫉妬もせずに、ただひたすらに自分の幸せを祈り、見守り続けてくれていたのだと。
「お前……ずっと、俺のこと……」
強がろうとした海斗の言葉は、最後まで続かなかった。
視界が急激に歪み、大粒の涙がボロボロと溢れ落ちる。
「うっ……あ、あああ……っ!!」
海斗はその場に崩れ落ち、14歳の少年のように、いや、親にはぐれた幼い子供のように声を上げて泣きじゃくった。
自分がどれほど彼女に会いたかったか。
守れなかった後悔を一生抱えながら、それでも「彼女が残してくれた世界だから」と、必死に前を向いて、歯を食いしばって生きてきた日々。その張り詰めていた太い糸が、すべて解けていく。
「バカヤロー……! どんだけ、待たせんだよ……っ。俺が、どれだけ……お前を……っ!」
「うん」
「いなくなりやがって……寂しかったじゃねえか……っ!! 会いたかったじゃねえか!!」
りりんは泣き崩れる海斗の前にしゃがみ込むと、その震える背中にそっと両腕を回し、力強く抱きしめた。
「ごめんね、海斗。……でも私、ちっとも寂しくなかったよ。だって海斗が、私の大好きな世界で、あんなに幸せに笑って生きてくれたから。海斗の全部、ちゃんと見てたから」
りりんの華奢な肩に顔を埋め、海斗はしゃくりあげながら彼女の背中に腕を回した。
何十年ぶりかに触れた初恋の少女は、あの頃よりもずっと大きく、途方もなく温かい光に満ちていた。
やがて、海斗の泣き声が少しずつ落ち着いてくると、りりんは海斗の涙で濡れた顔を覗き込み、ふふっと悪戯っぽく笑った。
「相変わらず、海斗は泣き虫だね。中2にもなって」
「う、うるせえ! お前が勝手なことするからだろ!」
涙と鼻水を学生服の袖で乱暴に拭いながら、海斗は真っ赤な顔でそっぽを向く。
昔と全く変わらないそのやり取りに、二人は顔を見合わせ、やがて揃って吹き出した。
「……りりん」
海斗は真剣な表情に戻ると、りりんの小さな手を、今度は自分からしっかりと握りしめた。
「俺は、人間としての人生をやり切ってきた。小夜子たちのことも、最後までちゃんと守り抜いた。もう、誰にも文句は言わせねえ。……だから、ここからは」
海斗の真っ直ぐな瞳が、りりんを射抜く。
「俺の永遠は全部、お前にやる。……もう絶対に、手なんか離さねえからな」
りりんは目を丸くした後、嬉しさで瞳に涙をいっぱいに溜めて、満面の笑みで大きく頷いた。
「……うんっ!!」
清らかな天界の風が、二人の髪を揺らして吹き抜けていく。
長かった悲恋の運命は終わりを告げた。世界を救った少女と、生涯を懸けて彼女の守った世界を生き抜いた少年の、誰にも邪魔されない、甘酸っぱくて永遠に続く青春が、ここからようやく始まるのだった。
(本編・了)




