第15話:遺された者たちと、天界からの眼差し
りりんが純白の光となって空へ消えた、翌日。
世界は、昨日まで破滅神が暴れ狂っていたことが嘘のように、どこまでも青く、高く澄み渡っていた。
藤城家の隣にある、海斗の部屋。
彼は制服を着ることもなく、ベッドの端に腰掛けたまま、カーテンの開いた窓から隣の家のベランダをただ虚ろな目で見つめていた。
いつもなら、洗濯物を干すりりんの姿が見えるはずの場所。しかし、そこにはもう誰もいない。主を失ったベランダには、ただ初夏の乾いた風が吹き抜けていくだけだった。
「……バカヤロー。勝手に、いなくなりやがって」
絞り出すような海斗の声は、ひどく掠れ、震えていた。
どうしてもっと優しくしてやれなかったのか。意地悪ばかり言って、本当は気になって仕方なかったのに、素直になれなかった。お前が一人で泣いている時、どうして強引にでも手を引いてやらなかったのか。
(俺がもっと早く、『好きだ』って思いを伝えていれば。あいつはあんな風に、自分なんてどうなってもいいって顔で、一人で犠牲になるなんて選ばなかったんじゃないか……っ)
後悔と、心の一部をもぎ取られたような強烈な喪失感が、海斗の心をズタズタに引き裂いていた。両手で顔を覆っても、指の隙間からボロボロと涙がこぼれ落ちてシーツを濡らす。
ギシッ、と床が鳴り、背後から温かい腕が海斗の震える背中を力強く抱きしめた。
母のまりんだった。
「母さん……っ、俺……っ、りりん、が……!」
「……ええ。わかっているわ、海斗。泣きなさい、今は思い切り」
まりんの瞳からも、とめどなく涙が溢れ落ち、海斗の背中を濡らしていた。
天界の使いとして、かつて愛した黒猫の魂の結末として、りりんがどれほど尊い救世主となったか、まりんは誰よりも理解している。彼女は自分の居場所を見つけ、満面の笑みで世界を救ったのだ。
それでも、一人の「母親」としては。ただただ隣で、普通の女の子として笑って、海斗と他愛のない喧嘩をして、一緒に大人になってほしかった。
親子のむせび泣く声だけが、静かな部屋にいつまでも響いていた。
◇
「……ここは」
目を覚ますと、そこはふかふかの、まるで綿毛のような雲の上だった。
りりんはゆっくりと身を起こす。破滅神の絶望をすべて受け止めたはずの身体の痛みは嘘のように消え去り、心がどこまでも軽く、澄み切っていた。
「りりん……! ああ、私の愛しい子……!」
真っ先に駆け寄ってきたのは、大粒の涙を流すキャミィ様だった。彼女は床に膝をつき、りりんの小さな身体を力強く抱きしめ、何度も何度もその色素の薄い髪を撫でた。
「お前は、自らの魂を燃やし、世界を……あの悲しい破滅神の魂すらも救ってくれた。一人でよく頑張ったね。本当に、ありがとう……」
「キャミィ様……泣かないでください。私、少しも痛くなかったですよ。みんなが背中を押してくれたから」
りりんは、自分を抱きしめる神の背中にそっと腕を回した。
「通常なら、天界で長い時間をかけて魂の徳を積んでからの転生となる。だが、お前は特別じゃ。望むなら、例外として今すぐにでも、愛される温かい家庭の、新しい幸せな命として転生させてあげよう」
キャミィ様の優しい提案。それは、家族の愛を知らずに育ったりりんにとって、何よりも魅力的な申し出のはずだった。
しかし、りりんはふわりと微笑んで、静かに首を横に振った。
「ありがとうございます、キャミィ様。でも、私はまだ転生しません。……ここで、見届けたいんです」
「見届ける?」
「はい。私が守った世界で、みんながどんな風に笑って、どんな風に幸せになっていくのか。……全部見届けてからじゃないと、もったいなくて行けません」
悪戯っぽく笑うりりんの顔には、かつて家族から疎まれ、下を向いていた暗い少女の面影はもう微塵もなかった。
世界を愛し、愛された、気高い救世主の笑みだった。
キャミィ様は目を細め、涙を拭いながら「お前の好きにするがよい」と優しく頷いた。
◇
それから、天界での穏やかな日々が始まった。
りりんとキャミィ様は、雲に空いた小さな窓から、人間界の時間を早送りのように見守り続けた。
ベルキャットの仲間たちは、りりんを失った深い悲しみを乗り越え、それぞれの人生を力強く歩んでいた。りりんの存在は、皆それぞれの胸の中で、決して消えることのない光として確かに生き続けていた。
りんじゅは高校を卒業後、東川家で正式にネイヴィーと結婚した。
教会の神父の前で、純白のウェディングドレス姿のりんじゅを見た元魔王の息子は、ボロボロと大粒の涙を流して誰よりも号泣し、参列していたりんかたちに「お前が泣くんかい!」と突っ込まれていた。
めいりんは持ち前の俊足を活かし、陸上の選手として世界を飛び回った。りんかは自分の設計したビルを次々と建てて街の景色を作り、かりんはトップモデルとして一時代を築き、それぞれが素敵なパートナーと出会い、温かい家庭を築いていく。
「ふふっ、みんな、本当に幸せそう」
りりんは雲の窓から、まるで自分のことのように目を細めて笑った。
そして、海斗。
数年後、すっかり背が伸びて大人になった海斗の隣には、小夜子の姿があった。
小夜子は、海斗の心の中に一生消えない「りりん」という大きすぎる傷があることを知っていた。その上で、その傷ごと彼を優しく、太陽のように包み込んでいた。
二人は結婚し、子供が生まれ、やがて孫の顔を見て、穏やかに年を重ねていった。
海斗の顔に少しずつ刻まれていく皺や、白くなっていく髪が、彼が人間界でどれほど精一杯生き、家族を愛し、命を全うしたかを物語っていた。
「……よかった」
天界からその光景を見下ろしながら、りりんの頬を、一筋の温かい涙が伝う。
海斗の隣にいるのが自分ではないことへの嫉妬や未練など、微塵もなかった。
大好きな人が、誰かと手を取り合い、自分を守るために泣くのではなく、愛する家族を守るために笑って生きてくれた。自分が命を懸けて守った日常のバトンが、確かに次の命へと繋がっている。
「ありがとう、小夜子ちゃん。……海斗を、笑顔にしてくれて。ありがとう、海斗。私、とっても幸せだよ」
りりんが守り抜いた世界は、優しく、美しく、命の輝きに満ちていた。
そして、人間界の時間はさらに流れ――海斗が家族に見守られながら、その穏やかな生涯を閉じる日がやってくる。




