第12話:星占いの魔女と、すれ違う現在
――それは、遥か昔の記憶。
まだ人間界に魔法がほんの少しだけ残り、精霊の息吹が信じられていた、石畳とレンガ屋根の美しい街。
『さあさあ、星の導きを知りたい迷える子羊たち。魔女エリィの占いは百発百中だよ!』
広場に張られた小さなテントの前で、香草の匂いを漂わせながら明るく朗らかに笑う魔女・エリィ(まりんの前世)。彼女は得意の星占いとタロットで、人々の悩みを聴き、旅から旅へと生計を立てていた。
その足元にちょこんと座り、退屈そうに艶やかなしっぽを揺らしている一匹の美しい黒猫。それがエリィの使い魔であり、愛する家族の「アイリーン(りりんの前世)」だった。
『ミャア』
「おや、アイリーン。あの子が来たね。行っておいで」
エリィが優しく微笑むと、テントの裏の木箱の陰から、一匹の灰色の野良猫がひょっこりと顔を出した。アイリーンが「アッシュ」と名付けた、傷だらけで無愛想だが、ひどく優しいオス猫(海斗の前世)だ。
アイリーンとアッシュは、種族の壁(大切にされる飼い猫と、蔑まれる野良猫)を越えて深く愛し合っていた。
夜の冷たい屋根の上で身を寄せ合い、風を避けながら一緒に見上げる月。アッシュが不器用に毛繕いをしてくれるその時間は、アイリーンにとって何よりも幸せで、温かいものだった。
しかし、別れは唐突に訪れた。
ある日の昼下がり。街中を二匹で駆けていた時のことだ。広場に響き渡る馬のいななきと共に、手綱の切れた暴走馬車が、アイリーンの小さな身体に向かって猛スピードで突っ込んできたのだ。
『ニャアッ!!』
ドスッ、という鈍い、残酷な音。
アッシュは自らの体を弾丸のように投げ打ってアイリーンを突き飛ばし――車輪の下で、帰らぬ猫となった。
血だまりの中で、どんどん冷たくなっていくアッシュ。アイリーンは震える身体で彼にすり寄り、必死に毛繕いをし、何度も何度も悲痛な声で鳴き続けた。
駆けつけたエリィは泣き崩れ、アイリーンを抱きしめようとしたが、黒猫はアッシュの側から決して離れようとはしなかった。やがてアイリーンは、食事も水も一切摂ることをやめ、愛する灰色の猫に寄り添いながら、静かにその後を追ったのだ。
◇
「……はっ!」
りりんは自室のベッドで、弾かれたように目を覚ました。
頬には、びっしょりと冷たい涙が伝っている。胸の奥が、物理的に引き裂かれそうなほど痛かった。
(今の夢……黒猫の、悲しい夢……。どうしてこんなに、涙が出るの……?)
胸元の銀色の鈴をぎゅっと握りしめる。夢の中で見た「アッシュ」という灰色の猫の不器用な優しさが、どうしても、隣に住む海斗の不器用な優しさと重なって仕方なかった。
その日の朝。りりんは少し腫れた目をこすりながら、通学路を歩いていた。
すると、前方から海斗が自転車を押しながら歩いてくるのが見えた。
「よぉ、りりん。……お前、また泣いてたのか?」
「えっ? 泣いてないよ、あくびしただけ」
海斗の顔を見た瞬間、夢の悲しさと、親友の小夜子を応援しなければという現実の決意が混ざり合い、りりんは慌てて視線を逸らした。
海斗は少し気まずそうに頭を掻き、りりんの横に並んだ。
「……あのさ、この前、お前が急にどっか行った時のことなんだけどさ」
「あ、うん。ごめんね、急用が入っちゃって」
「いや、そうじゃなくて。……俺が、好きな奴いるのかって聞かれた時の……。俺は、小夜子とは全然そういうんじゃなくて、その……俺がずっと気にしてるのは……」
海斗が耳まで真っ赤にして何かを言いかけた、その時。
「りりん! 海斗くん! おはよう!」
背後から、小夜子が明るい声を上げて駆け寄ってきた。春の陽だまりのように可愛くて、誰もが惹かれる笑顔。りりんはハッとして、弾かれたように一歩、海斗から距離を取った。
「おはよう、小夜子ちゃん! 海斗、小夜子ちゃんと一緒に学校行きなよ。私、日直だから先に行くね!」
「あ、おい! りりん!」
制止する海斗の声を聞き流し、りりんは足早に駆け出した。
(駄目だよ、私。アッシュは死んじゃったけど、海斗は生きてる。……私みたいな暗い迷惑な存在じゃなくて、小夜子ちゃんと一緒に、普通の幸せを手に入れなくちゃ駄目なんだ)
前世の凄惨な喪失感が、無意識のうちにりりんの「自己犠牲」を加速させていた。背中越しに聞こえる小夜子の嬉しそうな声が、りりんの初恋に、二度と開かない重い鍵を静かにかけていく。
◇
一方、その頃。
めいりんの通う中学校では、休み時間のチャイムが鳴り響いていた。
「香蘭ちゃーん! この前の数学のノート、見せてくれてありがとう! すっごく助かったー!」
めいりんが、窓際の席に座る少女――香蘭に抱きつく。
「ふふっ、どういたしまして。めいりんちゃんは走るのは速いのに、計算はあんまり速くないんだね」
香蘭は、ふんわりとした癖毛と優しい垂れ目が印象的な、とても穏やかな女の子だ。クラスでも目立つタイプではないが、いつもニコニコとみんなを気遣ってくれる、めいりんの大好きな友達だった。
「だって数字見てると眠くなっちゃうんだもん! あ、今日のお昼、一緒に購買のパン買いに行こ!」
「うん、いいよ。めいりんちゃんと食べると美味しいもんね」
香蘭が優しく微笑んだ、次の瞬間だった。
『――全部、壊してしまえ。こんな世界に、あなたの居場所などないのだから』
「……え?」
香蘭の表情がピクリと強張り、彼女はふらりとめまいに襲われたように机に手をついた。
「香蘭ちゃん? どうしたの、顔色悪いよ?」
めいりんが心配そうに顔を覗き込む。
「ううん……なんでもないの。最近、ちょっと頭痛がする時があって。変な……黒いモヤモヤした声が聞こえる気がして……」
香蘭はこめかみを押さえ、不安げに笑った。
(黒い、声……?)
めいりんの野生の勘が、ピリッと警鐘を鳴らす。ベルキャットとして戦う中で感じた、魔族の気配に似た、けれどそれよりもずっと底知れず恐ろしく、ドロドロとした古い何か。
「……無理しないでね。保健室、一緒に行こっか?」
「大丈夫だよ、ありがとう。めいりんちゃんは優しいね」
香蘭はいつもの穏やかな笑顔に戻ったが、めいりんは微かな不安を拭い去ることができなかった。
心優しく、誰からも愛される普通の少女、香蘭。
彼女の魂の奥底で、魔界の絶望を喰らい、破滅神がその目を開きかけていることなど、まだ誰も知る由もなかった。




