第11話:エプロンの魔王と、忍び寄る破滅の足音
魔王軍との最終決戦かと思われた、あの日から数日後。
夕暮れ時の『鈴々亭』は、かつてないほどの異様な盛況ぶりを見せていた。ただし、客層がいつもとは少し――いや、かなり違う。
「3番テーブル様、ご注文の特製フカヒレスープをお持ちいたしました。器が熱くなっておりますので、どうかお気をつけください」
艶やかな黒髪を後ろで一つに束ね、パリッとした清潔な純白のエプロンを身につけた長身の青年が、一流ホテルのギャルソンのような優雅な所作で料理をテーブルに置く。
そのぞっとするほど整った美しい顔立ちと、低いバリトンの声に、テーブルを囲んでいた女性客たちが「きゃあっ」「かっこいい……!」と一斉にうっとりとため息を漏らした。
かつて人間界を滅ぼそうとしていた魔王の息子・ネイヴィー改め、「東川家の住み込みアルバイト兼、りんじゅの自称・婚約者」の姿である。
「あ、あの……ネイヴィーさん。お店が繁盛するのはお気持ちは本当にありがたいのですが、やはり困ります……。戸籍や住民票まで魔法で勝手に偽造してしまうなんて、立派な犯罪ですよ……」
レジ裏に隠れるようにして、りんじゅが頭を抱えて眉を下げている。お淑やかな優等生であり、生真面目な彼女は、この常識外れすぎる事態にどう対処していいか分からず、ただただ困り果てていた。
「りんじゅ。君が控えめに困る姿も、前世と変わらず愛らしい。君のためなら、僕は喜んで犯罪者になろう。この店は、僕が命に代えても守り、繁盛させてみせるから安心してくれ」
「いえ、命までは懸けないでください! ……お料理運ぶだけですから……。それに、お客さんを魔力で洗脳して連れてくるのは営業妨害です!」
ネイヴィーは真剣そのものの翡翠の瞳でりんじゅを見つめ、りんじゅは赤面しながら視線を泳がせる。
その様子を、店のまかない用の席でチャーハンを食べていたりりん、りんか、かりんが呆れたように見守っていた。
「……なんか、拍子抜けしちゃったね」
りりんが苦笑いしながらジャスミン茶をすすると、かりんがレンゲを咥えたまま深く頷く。
「ほんとよ。あんなに殺気立ってた最強の敵が、今じゃ完璧なウエイターだもん。平和になったからいいけどさ……なんか調子狂うわね」
「りんじゅお姉ちゃん、お兄さーんと結婚するの? めいりん、あのお兄さんかっこよくて賛成ー! お店も大繁盛だし!」
「めいりんまで変なこと言わないでっ……! もう、私、厨房に戻りますから!」
からかう妹から逃げるように、りんじゅは真っ赤な顔をして厨房へと消えていった。ネイヴィーもその後を「りんじゅ、火の元は危ない。僕が鍋を振ろう」と、忠犬のように幸せそうな顔で追っていく。
人間界に完全になじんだ魔王の息子と、困惑しつつも彼を無下にできない優しい少女。
ベルキャットたちの過酷な戦いは、嘘のように平和で甘い日常へと溶け込んでいった。
――しかし。光が強くなればなるほど、濃くなる影がある。
◇
光の届かない、魔界の最奥。
かつて魔王軍を統率し、自信に満ち溢れていた三姉妹幹部は、玉座の前の冷たい大理石の床に力なく崩れ落ちたまま、微動だにしていなかった。
「……ネイヴィー様……なぜ……」
マゼンダの瞳からは、もう涙すら枯れ果てていた。自慢だった美しい髪は乱れ、虚空を見つめるその顔には何の感情も浮かんでいない。
アイボリーは虚ろな目で自分の爪をガリガリと噛み続け、常に冷静で知的だった長女のキャメルでさえ、狂ったように床に爪を立てていた。
彼女たちにとって、ネイヴィーへの愛と忠誠は「己の存在理由」そのものだった。
人間界を滅ぼすのも、残虐な魔法を使うのも、すべてはあの方に振り向いてもらうため。あの方の憂いを晴らすため。
しかし、そのすべてを根本から否定され、切り捨てられた。「魔族を捨てる」と言い放った主君の背中は、彼女たちのアイデンティティを完全に打ち砕いたのだ。
(私たちの命には、もう何の意味もない。あの女の光が、あの人間の小娘が……私たちのすべてを奪った……!)
深い、深い絶望。
行き場を失った異常なほどの愛が反転して生まれた、底知れぬ「虚無」と「呪詛」。
魔界の幹部三人から同時に溢れ出したその莫大な負のエネルギーは、魔界の空を真っ黒に染め上げ、やがて次元の壁をすり抜け、人間界のある一点へと吸い寄せられるように流れ込んでいった。
◇
同じ頃、人間界。
めいりんが通う中学校の、放課後の教室。
「……ふふっ」
日直の仕事も終わり、誰もいないはずの教室で、一人の女子生徒が窓際で静かに笑っていた。
めいりんと仲良くしている転校生のクラスメイト、香蘭だ。
夕日に照らされた彼女の瞳の奥底で、どろりとした黒い靄が渦を巻いている。
中国から親の都合で転校してきた彼女は、言葉の壁や文化の違いからクラスで浮いてしまい、見えない「いじめ」の標的になっていた。誰にも必要とされない孤独。世界から切り離されたような疎外感。
魔界から流れ込んでくる莫大な「絶望のエネルギー」は、香蘭の心に空いたその孤独な穴を、まるで待っていたかのように埋め尽くしていく。
彼女の魂の奥深くに封印されていた、絶対的な破壊の存在が、今まさに産声を上げようとしていた。
「ああ……いいわ。魔族たちの心地よい絶望の味。……誰も私を助けてくれないこの世界なんて、もうすぐ、全部壊してあげる」
香蘭の口から紡がれたのは、彼女自身の声でありながら、彼女のものではない、万物を終わらせる神の声。
平和に笑い合うベルキャットたちは、まだ気づいていない。
魔族との抗争など児戯に等しい、真の絶望――「破滅神」の覚醒が、すぐ隣のクラスメイトの心の中で、静かに、確実に始まっていることに。




