第10話:翡翠の魔王と、魂の共鳴
魔王軍の長女・キャメルを退けた翌日。
空には一点の曇りもない青空が広がり、りりんの中学校は、何事もなかったかのように穏やかな昼休みを迎えていた。
「りりん、今日のお弁当なにー? わたしのおかず、一つ交換してあげる!」
中庭のベンチ。春の柔らかい日差しを浴びながら、小夜子が手作りのお弁当箱を開けて、満面の笑みでりりんを覗き込んでくる。
「わあ、美味しそうな卵焼き。じゃあ、私のウィンナーと交換しよっか」
りりんがタコさんウィンナーを小夜子のお弁当箱の隅に置くと、小夜子は嬉しそうに「やった!」と声を上げた。
なんてことのない、他愛のない会話。昨日、命懸けで戦っていたことが嘘のような、この温かくて甘い「日常」の空気が、りりんはたまらなく好きだった。
お弁当を食べ終え、5時間目の体育の授業。
グラウンドでは男子がサッカーをしており、りりんと小夜子は校舎の陰からその様子を眺めていた。
「あ、海斗くんにボール回ったよ!」
小夜子が頬を赤らめて小さく指を差す。その先には、汗で前髪を額に貼り付けながら、大きな声で笑ってボールを追いかける海斗の姿があった。
泥だらけになって、真剣な顔でシュートを放つ幼馴染の横顔。
(……かっこいいな)
胸の奥がキュッと締め付けられる。好きだ、という感情が溢れそうになるのを、りりんは必死に深呼吸をして飲み込んだ。
自分が彼と結ばれなくてもいい。小夜子ちゃんと海斗が、こうして太陽の下で笑っていられるなら。自分が命を懸けて戦うことで、この二人の幸せな日常を守れるなら、それで十分だ。りりんは切なさを隠し、小夜子に向かって優しく微笑んだ。
◇
その日の放課後。
5人のベルキャットたちは、作戦会議も兼ねて『鈴々亭』に集まっていた。
「きゃあっ!?」
ガシャーン! と、豪快な音が店内に響く。
「あーっ、めいりん! またお水のグラス割って! 何度言ったらわかるの!」
「ごめんなさーい! 早くお水持っていかなきゃって思ったら、足がもつれちゃって……」
戦いでは誰よりも素早いスピードスターのめいりんが、日常では何もないところで転ぶドジっ子っぷりを発揮し、りんじゅが呆れたようにため息をつく。
「ふふっ、めいりんちゃんは本当に元気ね」
かりんが笑いながら割れたグラスを片付けるのを手伝う。
「ほら、みんな! 今日は新作のまかない『特製・角煮まん』よ。熱いうちに食べてちょうだい」
りんじゅが蒸し器からほかほかの湯気を立てる大きな角煮まんをテーブルに運んでくると、店内に甘辛い醤油と八角の食欲をそそる匂いがパァッと広がった。
「うわーっ! すっごい美味しそう!」
りんかが目を輝かせてかぶりつく。ハフハフと熱がりながら頬張る咀嚼音が、店内に心地よく響く。
「美味しい……! りんじゅさんのご飯、毎日食べたいな」
りりんも一口食べて、ほっぺたが落ちそうな笑顔を見せた。
この温かい場所。みんなで囲む食卓。キャミィ様がくれた、かけがえのない私の「居場所」。
――しかし。
その平和な夕暮れは、唐突に、そして異常な形で終わりを告げた。
「……ねえ、外の空、なんかおかしくない?」
窓の外を見たかりんが、顔を青ざめさせて立ち上がった。
夕日の赤は完全に塗り潰され、空一面が不気味なほど鮮やかで冷たい「翡翠色」に染まりきっていたのだ。
「……なによ、この異常な魔力。息が、詰まりそう……っ」
店の外に飛び出した5人は、かつてないほどの圧倒的なプレッシャーに身動きすら取れなくなっていた。立っているだけで、見えない巨大な手に全身を握り潰されているような錯覚に陥る。
「ついに自らお出ましになったようね。……あれが、魔王軍のトップ」
りんじゅの視線の先。翡翠色の空から、一人の青年が音もなく舞い降りてきた。
漆黒の軍服を纏い、ぞっとするほど整った顔立ちをした魔王の息子・ネイヴィー。彼が地面に降り立っただけで、周囲のアスファルトが蜘蛛の巣状にひび割れ、空気が悲鳴を上げた。
「目障りな光だ。……僕の心をかき乱す元凶は、お前たちか」
ネイヴィーがひどく冷酷な瞳でりりんたちを睨みつけ、すっと右手を上げる。
「させないよっ!」
俊足のめいりんが横から飛びかかろうとするが、ネイヴィーは一瞥もせずに指を弾いた。
ドンッ!!
「きゃあっ!?」
見えない巨大な壁に激突したかのように、めいりんが空中で弾き飛ばされ、地面を転がる。
「めいりん!」
「何すんのよ!!」
激怒したりんかとかりんが同時に挟み撃ちを仕掛ける。しかし、ネイヴィーの周囲に展開された黒い障壁に彼女たちの拳と蹴りが触れた瞬間、二人の身体は木の葉のようにあっけなく吹き飛ばされた。
「嘘……りんかちゃんたちの攻撃が、まったく通じない……!」
りりんが絶望的な声を上げる。これまでの三姉妹幹部とは、次元が違いすぎた。
「これで終わりだ、人間ども」
ネイヴィーの手のひらに、すべてを塵に帰すほどの漆黒の魔力球が圧縮されていく。狙いは、倒れたまま動けないめいりんと、りりんの二人だ。
「消えろ」
漆黒の閃光が、無慈悲に放たれた。
りりんが死を覚悟して目を閉じた、その瞬間だった。
「――私のみんなに、触れないで!!」
閃光と二人の間に、りんじゅが両手を広げて立ちはだかった。
彼女の胸元の鈴が、これまでにないほど激しく鳴り響く。傷ついた仲間を守りたいという強烈な祈りが、りんじゅの全身から眩いほどの「癒しと庇護のオーラ」を爆発させた。
「……っ!?」
その光に触れた瞬間、ネイヴィーの翡翠の瞳が見開かれた。
放たれた漆黒の閃光が、りんじゅの数センチ手前でピタリと静止し、霧散していく。
ザザッ、と。ネイヴィーの脳裏に、堰を切ったように前世の記憶の濁流が流れ込んできた。
冷たい洞窟。自分を庇い、癒そうとしてくれた温かな光。そして、自分の腕の中で冷たくなっていった最愛の少女。
今のりんじゅの姿が、命を散らした「カレン」の姿と、完全に重なり合ったのだ。
「カレン……?」
ネイヴィーは震える手で自身の胸を押さえ、その場に崩れ落ちるように膝をついた。
「ああ……なんだ。そういうことだったのか。君は、こんなところで……僕を待っていてくれたのか」
冷酷無比だった魔王の息子の瞳から、大粒の涙がとめどなく溢れ落ちる。
「え……? カレン? あの、どなたのことでしょうか……?」
突然泣き崩れた敵のボスに、りんじゅは両手を広げたまま完全に呆然としていた。
その時だった。彼らの上空の空間がねじ曲がり、巨大なゲートが開いた。中から現れたのは、キャメル、マゼンダ、アイボリーの三姉妹幹部だ。
「ネイヴィー様! あとは私たちにお任せを! あの忌々しい女たちを、この街ごと魔法陣で跡形もなく消し去ってご覧に入れます!」
マゼンダとアイボリーが狂気に満ちた笑みを浮かべ、上空に街全体を覆い尽くすほどの巨大な『破壊の魔法陣』を展開し始めた。
「しまっ……! りんじゅお姉ちゃん、逃げて!!」
めいりんが叫ぶが、魔法陣の規模は防ぎきれないほど巨大だった。
しかし。
膝をついていたネイヴィーが静かに立ち上がると、彼は振り返り、狂信に満ちた三姉妹を氷のように冷たい瞳で見据えた。
「――誰が、彼女の生きる世界を壊していいと言った」
ネイヴィーが右手を軽く薙ぎ払った。ただそれだけで。上空を覆っていた巨大な破壊の魔法陣が、まるで薄いガラス細工のようにパリンと粉々に砕け散った。
「「「……え?」」」
三姉妹の時が止まった。自分たちの命を懸けた最大の魔法が、愛する主君の手によって一瞬で消し飛ばされたのだ。
「僕は今日、この瞬間をもって魔族を捨てる。魔王軍はお前たちの好きにしろ」
ネイヴィーの言葉は、冷酷なまでに短く、決定的なものだった。
「そんな……! あなた様への愛は、なんだったというのですか!!」
マゼンダが血を吐くように叫び、キャメルも絶望に顔を歪める。しかしネイヴィーはもう、彼女たちを一瞥することすらしなかった。
アイデンティティを完全に打ち砕かれた三姉妹は、虚ろな瞳のまま、力なく魔界のゲートへと吸い込まれ、姿を消した。
◇
静寂が戻った夕暮れの空の下。
先程まで自分たちを虫けらのように殺そうとしていた最強の魔王の息子が。
今、りんじゅの目の前で恭しく片膝をつき、彼女の右手を取って、その手の甲にそっと誓いの口づけを落としていたのだ。
「やっと見つけた。……もう二度と、君を離さない」
情熱的で、甘く、重すぎるほどの愛の囁き。
しかし、手を握られたりんじゅの顔は、感動とは程遠い、完全に引きつったものだった。
「……あ、あの。人違いではないでしょうか? 私は東川鈴珠と申しますが……」
「僕はネイヴィー。君の永遠の伴侶だ。今日から君のそばで生きる」
「はっ……伴侶!? いえ、困ります! そもそもあなた魔王の息子ですよね!? 近所迷惑になりますからお帰りになってください!!」
感動の再会に浸るネイヴィーと、丁寧な言葉遣いを崩さないまま全力で彼を振り払おうとするりんじゅ。
魔界と人間界を巻き込んだ壮絶な抗争は、誰も予想していなかった「超展開」によって、唐突な幕引きを迎えたのであった。




