第9話 名前をつけてはいけないもの
――道具に、心なんて、いらない。
わたしは、そう教えられて育った。
ヴァイス公爵家の、地下の訓練場。そこで、わたしは「白百合」になった。感情は任務の障害。優しさは隙。怒りも、恐れも、慈しみも、すべて殺してこそ、完璧な刃になれる。
一人の同期がいた。任務の標的に情を移して、それを公爵に見抜かれた。次の日には、もういなかった。「失敗作」は、製造元が処分する。それが、わたしたちの世界の唯一の掟だった。
だからわたしは、誰を殺すのにもためらわなかった。
今までは。
「白百合」
夜更けの中庭、黒鴉が、闇から滲み出るように現れた。
この男の前では、わたしも頭の中の何もかもを「消す」訓練をしている。だから、わたしの心は彼には読めない。――そう思っていた。あの男辺境伯に見抜かれるまでは。
「七日が過ぎた。獲物は、まだ息をしている」
「……手強いのよ。あの男は、ただの廃物伯爵じゃない」
「言い訳は、公爵がお嫌いだ」
黒鴉の声は、平坦だった。だからこそ、恐ろしい。
「期限は、あと七日。それまでに片付かなければ、わたしは『失敗作の回収』を、公爵に進言する。お前ごと、辺境ごと、だ」
彼が消えた後も、わたしはしばらく動けなかった。
胸が、苦しい。
苦しいなんて、道具が感じてはいけない感情だ。
なのに――刺せないのだ。あの男を。
目を閉じると、浮かんでくる。
毛布をかけてくる、気だるげな手。毒入りの卵を平然と完食して「砂糖を入れろ」と言う、人を食ったような笑み。盗賊から子供を助けたわたしに、「立派な心がけだ」と笑った、あの声。
全部知っているくせに。わたしが刃であることを、最初から知っているくせに。
なぜ、あの人はわたしに毛布をかけるの。
わたしは、自分の胸に手を当てた。
ここに、何かがある。
殺意の数字とは別の、もっと柔らかくて、もっと厄介な何かが。
名前をつけてはいけない。つけたら、もう戻れない。
これは危険だ。これがあるから、同期の子は処分された。
わたしは必死に、それを塗り潰そうとする。任務。掟。失敗作の末路。冷たい言葉をいくつも重ねて、この柔らかいものを押し込めようとする。
そのとき――首筋が、疼いた。
灼けるような、鋭い痛み。
うなじの、白百合の刻印。公爵が、わたしたち「道具」の体に刻んだ印。
普段は何も感じない。なのに今、わたしがその柔らかいものに手を伸ばしかけた、まさにその瞬間に。
まるで、わたしの心を咎めるように。
わたしは刻印を手で押さえ、夜の冷たい空気を、震えながら吸い込んだ。
道具に、心なんていらないのに。
どうして、こんなに苦しいの。




