第8話 視えない一瞬
その夜、俺は生まれて初めて、「視えない」というものを知った。
黒鴉が現れてから、シャルロッテの様子は目に見えて張り詰めていた。
夕餉の席でも、彼女は上の空だった。頭上の『殺意』は八十六。下がってはいるが、その裏で何かが波立っている。任務への焦り。監視への怯え。失敗作になることへの恐怖。それらが、数字の表面を絶えず揺らしていた。
俺は、そういった感情の機微を数字で読むのに慣れている。慣れすぎている、と言ってもいい。
だから、油断していた。
「……アルヴィス」
食後、暖炉の前で、彼女がふいに俺の名を呼んだ。
婚約者の名を呼ぶのに、彼女はいつも「旦那様」と他人行儀だった。名で呼ばれたのは、初めてだ。
「もし」
彼女は炎を見つめたまま、言葉を探すように続けた。
「もし、わたしが最初からあなたを殺すために来たのだと知っていたら――あなたは、わたしをどうするの」
俺は彼女の横顔を見た。
いつものように、頭上の数字を読もうとした。殺意、八十六。嘘――この問いに、嘘はない。
その奥へ、いつもの癖で視線を凝らす。数字の表面ではなく、その下でどちらへ傾いているのかを読むために。
――視えなかった。
数字の、奥が。
いつもなら殺意の下にうっすらと滲んで見えるはずの、人の心の「向き」が。
シャルロッテの、その瞬間だけ。
真っ暗だった。
暖炉の火がはぜた。小さな音なのに、胸の奥でやけに大きく響いた。
背筋が、ぞっとした。指先が冷える。俺は膝の上で、無意識に拳を握っていた。
俺はこれまで、何百人もの人間の心を数字で覗いてきた。誰一人、隠しおおせなかった。母も、父の重臣も、命を狙う親戚も、全員、数字の前では丸裸だった。
なのに。
この女の、今の一瞬だけが視えない。
全部視えるはずの俺の、たった一つの盲点。
「……どうするか、か」
俺は動揺を声に出さないよう、ゆっくりと答えた。
「たぶん、今と何も変わらないよ」
「変わらない……?」
「ああ。寒けりゃ毛布をかけるし、毒入りでも飯は食うさ。それだけだ」
シャルロッテが、こちらを向いた。
その瞬間には、もう奥の闇は消えていた。殺意八十六。普段どおりの、読める数字に戻っている。
「……本当に、変な人」
彼女は、小さく笑って、立ち上がった。
一人になって、俺は暖炉の炎を長いこと見つめていた。
なぜ、あの一瞬だけ視えなかったのか。彼女の心の何が、俺の目を弾いたのか。
答えは、出ない。
ただ、一つだけ確かなことがある。
――俺はたぶん、その「視えない何か」を、もっと知りたいと思ってしまった。




