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第7話 数字のない男


 その男は、市の雑踏の中で、一人だけ「消えて」いた。


 六日目の朝。俺はいつものように頭上の数字の海を泳ぎながら、青空市を歩いていた。

 好感、好感、値切りの嘘、ちょっとした苛立ち――辺境の民の数字は、賑やかで温かい。

 隣にはシャルロッテがいた。

 例の揚げ菓子の屋台の前を通りかかると、彼女の足がまた、ほんの一瞬止まった。進歩のない奴だ。


「二つ、くれ」


「……っ、わたしは、頼んでないわ」


「知ってる。俺が、食べたいだけだ」


 差し出した一つを、彼女は口では「要らない」と言いながら、ちゃんと受け取った。三日前と同じやり取りだ。違うのは、今日は最初の一口で、頬の緩みを隠すのを少しだけ忘れたことだ。

 緩んだ頬のまま、ふと俺と目が合うと――彼女は今度こそ、はにかむように笑った。ほんの一秒。氷も刃もない、ただの笑顔だった。

 悪くない朝だ、と思った。

 その直後だった。

 賑やかな数字の海の中に、ぽっかりと穴が空いていた。


 古着商の天幕の陰。一人の男が、果物を品定めしている。旅装の、どこにでもいそうな行商人。

 だが、その頭上には――何も浮かんでいない。

 好感も、殺意も、嘘も。すべての数字が、綺麗に「消されて」いた。


 そんな人間は、いない。

 生きている人間なら、必ず何かしらの感情を抱いている。好悪も、欲も、警戒も。それが数字に出ないということは、出ないように訓練された、ということだ。感情を完全に殺し、心を読まれないよう鍛え上げられた者。

 ――暗殺者か、あるいは、それを管理する者。


「シャルロッテ」


 俺は、隣を歩く彼女に何気ない声をかけた。


「あの古着商の陰の男、知り合いか」


 彼女の足が半歩、止まった。それだけで十分だった。

 シャルロッテの頭上の『殺意』が、ぴくりと跳ね上がった。八十七から、八十九へ。

 だが、その跳ね上がりは俺へ向いたものじゃない。彼女はあの男を警戒している。


「……ええ」


 彼女は淑女の微笑みを保ったまま、低く答えた。

黒鴉(くろがらす)。公爵家の、監視官よ」


 監視官。

 なるほど。シャルロッテを送り込んだ側が、任務の進み具合を確かめに来た、というわけだ。

 彼女がもう六日も俺を殺せずにいることを、向こうも察している。だから催促に来た。


「君を、見張りに来たのか」


「見張りに、来たの。そして――進捗が悪ければ、報告するわ、公爵に」


 シャルロッテの声が、わずかに硬い。

 その報告の意味は、察しがついた。彼女が「失敗作」と判断されれば、どうなるか。公爵家で、道具が壊れたとき、どう処分されるのか。


「危険なのは、俺じゃなくて、君の方か」


 俺が言うと、シャルロッテは初めて、虚を突かれたような顔をした。


「……なぜ、あなたがそれを気にするの。わたしは、あなたを殺しに来た女よ」


「さあ。なぜだろうな」


 俺ははぐらかした。


 古着商の陰の男――黒鴉は、こちらを見ていない。果物を一つ買い、ゆっくりと天幕の奥へ消えていく。だが、あの「消された数字」は、確かにこの辺境に、危険を一つ持ち込んだ。

 俺は頭の中で、盤面を組み直す。

 花嫁を生かしたまま手懐ける。それだけの話だったはずが――どうやら、もう少し面倒なことになりそうだ。


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