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第10話 黒鴉墜つ


 黒鴉(くろがらす)が動いたのは、その夜のうちだった。


 監視官は、待つのに飽きたらしい。あるいは、シャルロッテが任務を果たせないなら、自分が手本を見せてやろう、とでも思ったか。

 俺は寝室で本を読むふりをしながら、砦の中を移動する「消された数字」の気配を追っていた。数字が消えていても、その「不在」が、逆に居場所を教えてくれる。賑やかな砦の中で、そこだけが、ぽっかりと静まっている。

 黒鴉は、まっすぐにシャルロッテの部屋へ向かっていた。

 ――彼女を人質にする気だ。あるいは、口を封じる気か。


 俺が廊下に出たとき、すでに黒鴉は、シャルロッテの部屋の前にいた。

 彼の手が、扉にかかる。


「やめておけ」


 俺が声をかけると、黒鴉はゆっくりと振り返った。

 頭上は相変わらず、何も浮かんでいない。完璧に感情を消した、玄人の刺客。だが――それは、俺には通用しない。

 数字が消えていても、人間の体は嘘をつけない。


 黒鴉が、懐から針を抜いた。

 その肩のわずかな筋肉の動きで、俺には次の一手が「視えた」。右から、喉を狙う。

 俺は半歩、左へ。針は空を切る。

 黒鴉の眉が、初めて動いた。次は左の脇腹へ、短刀。――その重心移動も、彼が刃を抜く前に読めていた。

 体が嘘をつかないなら、先に動いた方が勝つ。

 俺は彼の刃の軌道へ先回りして、手首を打ち、そのまま受けた力を返して逆へ捻じ込む


逆棘(さかとげ)


 相手の勢いをそっくり刃へ転じる。乾いた音が廊下に跳ね、短刀が床を滑る。黒鴉が拾おうと膝を沈めたところへ、返す手で首筋の急所に鋭い一撃を叩き込んだ。

 黒鴉が、膝をついた。

 完璧に消えていたはずの男の呼吸が、そこで初めて乱れた。


「貴様……なぜ、私の動きが、すべて――」

「全部、顔に書いてある」

 俺は嘘をついた。本当は、顔ではなく体の予兆を読んでいる。だが、種明かしをしてやる義理はない。

 黒鴉は忌々しげに俺を睨み、それからふらつきながら、闇へ退いていった。今夜はこれで引き下がる気だろう。だが、必ず公爵へ報告するだろう。「辺境伯は、ただ者ではない」と。

 数字を消せば勝てるという黒鴉の優位は、今この廊下で地に落ちた。

 ――まあ、いい。盤面は、また少し動いた。


 扉が開いて、シャルロッテが顔を出した。

 騒ぎに気づいていたのだろう。彼女は廊下に立つ俺と、床に落ちた短刀を見て、状況を察したらしい。


「……庇ったの。わたしを」


「成り行きだ」


 俺は何気なく、彼女の頭上を見た。

 そして、眉をひそめた。


『殺意 92』


 ――上がっている。

 さっきまで八十六だった。守ってやったのに、庇ってやったのに。普通なら、好感が上がって殺意が下がる場面のはずだ。なのに、彼女の表示は、八十六から九十二へ跳ね上がっていた。

 上がり方が、感情のそれではない。何かに引き戻されたような、硬い跳ね方だった。

 守られて嬉しいはずの女が、なぜ殺意を上げる。

 ……いや、違う。これは、俺に向いた殺意じゃない。

 彼女は今、怯えているのだ。守られたことに。優しくされたことに。それが、彼女にとっては、いちばん危険なことだから。刃を構え直すことでしか、自分の心を守れない。

 その奥の「本心」を視ようとして――また、弾かれた。あの夜と同じ、真っ暗な盲点。

 表向きの殺意を上げながら、奥でまったく別の何かを抱えている。九十二という数字は、彼女の本当の答えじゃない。


「……どうして、そこまで」


 シャルロッテはそれだけ呟いて、扉を閉めた。

 九十二。守ってやったのに、上がった数字。

 守るほどに、彼女は遠ざかろうとする。逆だ。普通とは、何もかも逆だ。

 黒鴉のことも、公爵のことも、考えなければならないことは山ほどある。なのに俺は、閉まった扉をしばらく見ていた。頭の中を占めているのは、あの九十二という、ひとつの数字だけだった。


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