第3話 泣く子に触れた手
レーンフェルトの領地は、貧しい。
馬車を使うほどでもない。俺はシャルロッテを連れて、砦の門から続く石畳を、ただ歩いた。
道の両脇には、傾いた屋根の家が並んでいる。畑は痩せ、井戸は古い。中央の貴族が見れば鼻で笑うだろう。事実、彼らはそうしてきた。辺境伯――聞こえはいいが、要するに、誰も欲しがらない最果てを押し付けられた家門だ。
隣を歩くシャルロッテの横顔を、そっと窺う。
彼女の頭上の『殺意』は、九十三。昨日とほとんど変わらない。だが、その目は初めて見る世界を静かに観察していた。
「辺境伯さま!」
声を上げたのは、青空市の野菜売りの女房だった。彼女の頭上の『好感度』が、ぱっと跳ね上がる。八十、九十――辺境の民は、俺を見ると皆こうなる。
「今朝採れた菜っ葉、持ってってくだせえ。奥方様にも」
「ありがとう。だが、商売物だろう」
「いいんですよ。去年の冬、旦那様が備蓄を分けてくだすって、うちの子は越せたんだ」
女房は籠から一束を押し付けてくる。断れば角が立つ。俺は素直に受け取った。
市を進むほどに、同じことが繰り返される。鍛冶屋、パン屋、年寄り、子供。皆、頭の上に高い数字を掲げて、俺に何かを差し出そうとする。
シャルロッテが、ぽつりと言った。
「……みんな、あなたを恐れていないのね」
「恐れる理由がない」
「領主でしょう。生殺与奪を握っている。なのに」
彼女の声には、本気の困惑があった。
そうだろうな、と思う。彼女が育った場所では、人は数字で動く。恐怖と、利用価値で。差し出されるのは媚びと嘘ばかりだったはずだ。
ヴァイス公爵家。シャルロッテを「白百合」という刃に鍛え上げた家。
「この領、何の価値が?」
シャルロッテが、痩せた畑を見渡して言った。
「魔石も出ない。豊かでもない。中央が、こんな場所を欲しがる理由がわからない」
――鋭い。
核心に、半分だけ触れている。中央が辺境を欲しがる本当の理由は、この貧しさの下に埋まっている。だが、それを今教えてやるわけにはいかない。
「人がいる。それで十分だろう」
俺は、はぐらかした。
そのとき、路地の奥で小さな影が転んだ。
パン屋の幼い娘だ。膝を擦りむいて、べそをかいている。
俺が足を向けるより、先だった。
シャルロッテがすっと身を屈め、その子の前にしゃがみ込んでいた。
「……泣くと、傷が膿むわ」
冷たい声。だが、その手は驚くほど優しく、娘の膝の砂を払っていた。
ほんの数秒。彼女はすぐに立ち上がり、何事もなかったように歩き出す。頭上の『殺意』は、九十三のまま。
けれど――その奥の、いつもなら読める「傾向」の影が、一瞬だけ揺らいだ気がした。
「公爵家の令嬢は、領民の子の手当てまでするのか」
俺が言うと、シャルロッテは前を向いたまま、けろりと答えた。
「傷口に、泥。化膿すれば、足を失うこともある。――それだけのこと。手順を、知っていただけよ」
まるで毒の処方でも諳んじるような、淡々とした声。だが、その指先は、まだ子供の膝に触れた形のまま、宙で所在なげに開いたり閉じたりしていた。
嘘ゲージは光らない。彼女は嘘をついていない。ただ――娘の前にしゃがんだ、あの一拍の早さだけは、手順では説明がつかなかった。
ああ。その一拍の早さは――誰のためだったんだろうな。
俺はまだ、それを読めない。




