第2話 毒入りの朝食
一夜明けても、花嫁の頭上の数字は、ほとんど下がっていなかった。
『殺意 94』
昨夜の九十六から、たった二。
食堂の長卓の向こうで、シャルロッテは背筋を伸ばし、淑やかに紅茶のカップを傾けている。窓から差す朝の光が銀の髪を縁取って、まるで一枚の絵のようだ。
その絵が、俺を殺そうとしている。
「おはようございます、旦那様」
鈴を転がすような声。微笑みは完璧で、隙がない。
俺の前には、焼きたてのパンと、湯気を立てるスープ、それから、彼女が「手ずから用意した」という卵料理が並んでいた。
その皿の上に、ひとつだけ別の数字が浮かんでいる。料理に数字は出ない。出ているのは、それを差し出したシャルロッテの『嘘』のゲージ――満杯だ。
なるほど。毒か。
遅効性。味も匂いもしないやつだろう。昨夜のナイフが正面の刃なら、今朝のこれは背中からの一突きだ。ずいぶんと器用に手口を変えてくる。さすが優秀だ。
俺はフォークを取り、その卵料理を、ためらいなく口へ運んだ。
シャルロッテの指先が、カップの取っ手の上でわずかに強張った。
味は悪くない。むしろ丁寧に作られている。毒さえ入っていなければ、文句なしの一皿だ。
もう一口、もう一口と平らげていく。空になった皿を置き、ナプキンで口元を拭った。
「美味い」
「……お口に、合いましたか」
「ああ。よく出来てる」
俺は欠伸交じりに付け足した。
「次は、もう少し砂糖を入れるといい。辺境の卵は王都のほど洗練されていないから、味が少し大雑把なんだ」
カチャ、と硬い音がした。
シャルロッテのカップが、受け皿の上でわずかにずれた音だ。完璧な所作を誇る彼女が、決して立てるはずのない音だった。
頭上の『嘘』が、ぐらりと揺れた。
「……どうして」
「ん?」
「いえ。なんでも、ありません」
彼女はすぐに微笑みを取り戻した。だが、その下の数字――嘘も殺意も、さっきから小刻みに震えている。
たぶん彼女は今こう考えている。なぜ倒れない。毒の量は間違っていないはず。それとも解毒の心得が? いや、そんな素振りはなかった。では、なぜ――。
答えてやる義理はない。
俺の身体には、子供の頃から少量ずつ毒を盛られてきた歴史がある。中央の貴族に「廃物」と侮られる辺境伯にも、命を狙う親戚の一人や二人はいるものだ。おかげで並の毒なら、舌が勝手に見分ける。
だが、それを言えば、俺が警戒していると教えることになる。
全部知っていて、何も知らないフリをする。それが、いちばん相手を惑わせる。
「ごちそうさま。今日は領地の見回りに付き合ってくれ」
「……は?」
「君も、もう辺境伯夫人だろう。この土地のことを知っておいてもらわないとな」
俺は席を立った。背を向けて歩き出す――暗殺者に無防備な背中を見せるなど、正気の沙汰じゃない。
なのに、シャルロッテは動かなかった。フォークもナイフも、彼女の手の中にあったのに。
頭上の数字を横目で確認する。
『殺意 94』
下がってもいない。だが、上がってもいない。
仕込んだ毒を綺麗に平らげられた花嫁は、まだ俺の背中に刃を立てられずにいた。
……硬いな。昨夜の毛布一枚で三、今朝の毒で動かず。この女の殺意は、そう簡単には融けてくれない。
結構。急ぐ理由もない。
食堂を出る間際、背後で小さな呟きが聞こえた。
「……変な人」
昨夜と、同じ言葉だった。




