第1話 殺意ゲージ99
花嫁が、俺を殺しに来た。
寝室の闇の中、ベッドの脇に白い影が立っている。月明かりがカーテンの隙間から細く差し込んで、その手に握られた短剣の刃を、きらりと光らせていた。
俺は寝たフリのまま、薄目でそれを見ている。
正確には――その影の頭上に浮かぶ、数字を。
『殺意 99』
ご丁寧に、上限に張りついている。
婚約者との、初夜の挨拶が、これだ。
シャルロッテ・ヴァイス。ヴァイス公爵家の令嬢。三日前、辺境のこの砦に輿入れしてきた、絵に描いたように完璧な少女。
馬車から降りてきたその瞬間、俺にはわかっていた。彼女の頭上の数字が、出会った貴族の誰よりも高かったからだ。微笑みながら俺の手を取ったあのとき、その『好感』はゼロ、『嘘』は満杯、『殺意』は八十を超えていた。
政略結婚の花嫁――その正体は、暗殺者。
俺の目は、人の本性を数字で映す。好感、殺意、嘘。その三つが視界に入る全員の頭上に浮かんで、消えない。便利だろう、と人は言うかもしれない。
便利なものか。おかげで俺は、これまで一人として心から信じられた人間がいない。
それに、この目は万能じゃない。殺意の高さは視えても、その刃が彼女自身の意思なのか、誰かに強いられたものなのか。この目には映らない。九十九という殺意の、その奥にある本心までは。
刃が、ゆっくりと持ち上がった。
数字は微動だにしない。九十九。彼女は迷っていない。訓練された手つきだ。刃を順手に握り直し、肘を落として一直線に喉へ通す構え――急所を一突きで絶つ、暗殺術の型。
「一刺し」
狙いは俺の頸動脈。声も上げさせずに終わらせるつもりだろう。
なるほど。さすが公爵家の刺客、と褒めてやってもいい。
ただ一つ、誤算がある。
俺は、最初から全部、知っている。
彼女が暗殺者だということ。今夜、刃を抜くこと。殺意が九十九まで張りついていること。
――だが、数字は「傾向」しか映さない。なぜ彼女がここに来たのか、誰が彼女をこんな目に遭わせたのか、それまでは視えない。九十九という殺意の、その奥にあるものが。
月の光の中で、刃を構えたシャルロッテの肩が、小刻みに上下していた。寒さか、緊張か。その両方だろう。
寒いのか。
……まあ、そうだろう。彼女は薄い夜着一枚だ。辺境の秋の夜は、王都とは比べものにならないほど冷える。中央の貴族には、想像もつかないくらいに。
俺は身じろぎした。
刃の数字がぴくりと跳ねる。警戒。だが構わず半身を起こし、自分の寝具の上掛けを一枚、無造作に掴むと、それを彼女の肩にかけてやった。
時間が、止まったように見えた。
短剣を握ったまま、シャルロッテが硬直している。毛布をかけられた肩のあたりで、強張っていた指先が、ほどけるように力を失っていく。
「……っ」
息を呑む音。完璧だった令嬢の仮面に、初めて、ひびが入った音だった。
「あなた……気づいて、いるの……?」
声が、わずかに掠れている。氷のような彼女の言葉に、初めて温度の揺らぎが混じった。
俺は欠伸を噛み殺して、いちばん退屈そうな声で答えた。
「いや。ただ、寒そうだったから」
嘘だ。
全部、知っている。けれど、それを言ってやる義理はない。
刃は、まだ俺の喉元から指三本のところにある。彼女がその気になれば、今このまま、突き込める距離だ。
なのに、シャルロッテは動かなかった。
俺を殺しに来た手が、毛布の端を、握っている。
そのとき――頭上の数字が、動いた。
『殺意 96』
三だけ、下がった。
刃でも、言葉でもない。毛布一枚で。
たった三。されど三。九十六なんて数字は、依然として人を十回殺せる高さだ。彼女の刃は何ひとつ揺らいでいない。
それでも――確かに動いた。動かないはずのものが。
……おかしな話だ。
俺はこの目で、何百人もの悪意を視てきた。数字がどうすれば上がるかは、嫌というほど知っている。恐怖、屈辱、欲望――人の殺意の上げ方なら目を瞑ってでも言える。
だが、下げ方は知らない。誰も俺に優しさを返してくれたことがなかったから。
なぜ、三とはいえ、下がったのか。
全部視えるはずの俺に、それだけが、視えなかった。
「……変な人」
暗闇の中で、シャルロッテが小さく呟いた。短剣をそっと引いていく。だがその数字――九十六は、だがその数字――九十六は、依然として俺の喉元に突きつけられたままだ。
彼女は短剣を鞘に戻し、毛布を肩にかけたまま、音もなく寝室を出ていった。最後までその横顔は、令嬢でも暗殺者でもない、迷子のようだった。
扉が閉まる。
俺は一人、暗い天井を見上げた。
明日も明後日も、彼女はきっと俺を殺しに来る。九十九が九十六になっただけだ。婚約者が刺客であることは、何ひとつ変わっていない。
――それでも。
あの、たった三の数字が、どうしても気にかかる。その夜、俺はうまく眠れなかった。




