第28話 遠隔の疼き
決戦から五日目、俺たちは辺境からずいぶん遠くまで来ていた。
中央へ向かうほど、地形が変わっていく。辺境のあの、荊棘と硬い草の生い茂る粗い荒野が次第に退き、代わりに刈り入れの済んだ畝と、ますます整然とした村や町が現れる。だがこの道中、わざわざ人通りの少ない小道を選んでいた――大路を避けるのは、シャルロッテが決めたことだ。彼女は、関所を設けて通行証を検める官道を信用しない。
馬車が一面の禿げた荒野を轢いていく。車輪は何度も、秋雨にふやけた泥にめり込み、そのたびに引き馬が難儀して引き抜く。一度引き抜くたびに、車室全体が激しく揺れ、背骨同士が喧嘩するほど揺さぶられた。車の外、黒雲が低く垂れこめ、風にはもう冬の気配があった。
シャルロッテは俺の向かいで、目を閉じて休んでいた。休むといっても、本当に眠ってはいない――呼吸が均一すぎる。意図的なほど均一だ。この数日、彼女はほとんど眠っていない。目の下にはごく淡い青い影が浮かんでいた。敵陣の心臓で動くことに慣れた人間は、自分の縄張りから遠ざかるほど、命を他人の地で握られる時間が長くなるほど、あの弦が張りつめていく。見ていれば分かる。見知らぬ村や町を一つ過ぎるたび、来歴の知れぬ馬蹄を一陣聞くたび、彼女の頭上の数字は数格上がり、無事を確かめてから、また、ゆっくり、ゆっくり落ちていく。
四十五、四十二、四十四。彼女の表示殺意は、引ききらず満ちきらない潮のように、寄せては引いて、一日じゅう止まらない。だが、その底に沈む本心だけは、終始しっかりと、三十に釘づけだった。
これが常態だ。この一月、俺はこの、決して重ならない二本の線のあいだで、彼女の本当の心を読むことに慣れていた――上の線は世界を警戒し、下の線は、ただ、俺がいつか警戒すべきものに変わりはしないかだけを警戒する。そして下の線は、ずっと動いていなかった。
黄昏どき、雲の裂け目から最後の橙赤の残光が漏れた。御者は荒れた分かれ道で車を止め、馬に餌をやった。昔ここには駅があったらしいが、今は崩れた半壁と涸れ井戸が一つ残るきりで、人影は半分もない。俺は揺られて痺れた足を伸ばしに降りた。シャルロッテも続いて降り、外套を厳重にまとって轅にもたれ、遠くで少しずつ沈んでいく暮色を眺めた。彼女の目は、風景を見ているんじゃない。地形を、退路を、見分けている。見知らぬ場所に立ったとき、まず彼女がする一事だ。
その瞬間、それは起きた。
俺が先に見たのは、数字だ。
彼女の頭上の、しっかり止まっていた四十二が、何の前触れもなく、上へ跳ねはじめた。
四十二、五十、五十五――
おかしい。
俺はその数字の列を睨み、最初の反応は来由を探すことだった――どこから来た脅威だ? 誰が近づいた? だが四方には風だけ、涸れ井戸だけ、草を食む老馬だけ。突っ込んでくる酔いどれもいなければ、怪しい足音もない、方圓のうちに生きた人間一人いない。彼女が見知らぬ環境を警戒して数字を上げるときは、方向があり、対象がある。矛先は、不安を覚えるその一点を指す。だが今回は違った。今回は、数字が速く、冷たく、来由もなく、矛先も見当たらず、まるで遠く天の果ての見えない手が竿を握り、無理やり、一格ずつ、上へ繰り上げているようだった。
竿を繰る手応えに、覚えがある。決戦の夜、公爵がこうやって繰ったんだ。
ほとんど同じ一瞬、シャルロッテの体が、見えない釘に打ちつけられたように、ぐっと強張った。
「……ぐ、っ」
彼女は呻き、右手が意のままにならず持ち上がって、腰側に当たった――またあの、抜刀の起手だ。だが今回は、顔に「打って出る」意図がまるでない。それどころか、彼女の顔は見る間に蒼白になり、額に冷や汗が滲み、腕全体が震えていた。
「シャルロッテ?」俺は一歩、彼女へ近づいた。
彼女の手は、もう腰側の柄を握っていた。刃が「シャッ」と一寸抜け、寒光が一閃し、また彼女が死力で鞘へ押し戻す。指の節は白く張りつめ、腕全体の腱が皮膚の下で浮き上がっていた。彼女は自分の手と争っていた――一方の手が抜こうとし、もう一方の意志がそれを収めさせる。二つの力が、彼女自身の上で引き裂き合っている。
「ちが、う……わたし、」彼女は歯を食いしばり、下顎の線を硬い稜にして、一字ずつ歯の隙間から絞り出した。「わたし、抜くつもりは……ないのに……手が、止まらない――言うことを、聞かない――」
彼女のうなじの襟の下、平素はほとんど見えないほど淡いあの紋路が、今は、ごく淡い、幽かな青い光をにじませていた。皮膚の下に、彼女のものでない灯を一つ点したみたいに。
白百合の刻印――あの服従の聖痕だ。
その青い光を見た瞬間、俺は悟った。
決戦の戦場で、この聖痕は、公爵が何らかの近距離の法器で、彼女を兵器のように強制駆動させていた。あの場を離れ、公爵から離れれば、彼女はひとまず安全だ――俺はそう思っていた。
間違いだった。
この聖痕は、遠隔で発動できる。そして遠隔で発動するには、「聖印盤」と呼ばれる触媒を必ず経なければならない――この教会の器物が、あの見えない手を、山河荒野を隔てて、彼女のうなじへ届かせたのだ。
今この瞬間、どこか知れぬ遠方で――数十里先かもしれない、もっと遠い王都のあの尖塔のなかかもしれない――一本の手が、山河荒野を隔て、沈んでいくこの暮色を隔てて、彼女の身の内の開閉器を押している。とうに埋めておいた仕掛けを押すように。彼女の頭上の数字を、無理やり四十二から繰り上げた――
五十五へ。
刃はもう三寸抜けていた。あの最後の橙赤の残光のなか、刃身が目を刺すほど光る。彼女の切っ先は、激しく震えながら、彼女の意に背いて、少しずつ、止めようもなく、俺のほうへ傾いていった。彼女は全身の力でそれを引き戻そうとし、額の青筋まで跳ねていた。だが、刻印に操られたその手は、二十年鍛えた彼女の意志より、もう一分、頑なだった。
その一分の差。その一分が、命を一つ取るには十分だ。
俺は退かなかった。一歩退くのは容易い。だが、俺が退いたあとで彼女が人を傷つけ、自分を傷つければ、その一分を、彼女は一生越えられない。
俺は手を伸ばし、まだ震えるその刃へ向かって、彼女の持つその手を、ひとつかみに握った。刃ごと手ごと、まるごと手のひらに握り込む。
賢い動作じゃない。武をかじった者なら誰でも、気が触れたと言うだろう――素手で暗殺者の抜き身の刃を握るなんて。だが俺が賭けたのは、武芸じゃない。底の、あの線だ。
刃が斜めに俺の虎口を抉り、皮肉が裂けて一筋の血が滲んだ。熱い血が、刃を伝って滴る。俺は離さなかった。手のひらに、彼女の激しい震えと、外力に駆られて前へ押し込もうとする力が伝わってくる。
「アルヴィス、放して――」彼女の声に、初めて狼狽が混じった。自分のためじゃない、俺のためにだ。顔色一つ変えず人の喉を切れる人間が、今は怖さに声まで震わせていた。「あなたを傷つける、早く放して――お願い――」
「傷つかない」俺は、ごく落ち着いて言った。
俺は彼女の頭上のあの五十五を睨んだ。それから視線を、その数字の下へ沈め、より深い線を探した。
本心。
三十。
微動だにしない。
これだ。
この瞬間、外のあの手は、彼女の表示殺意を五十五まで繰り上げ、彼女の手に俺へ刃を挙げさせている。だが彼女の内側の、本当の彼女、いちばん底に沈んだ本心は、一分一少しも動いていない。自分が今、借用されていることにすら気づいていない。この五十五は、頭から尻尾まで、一格も彼女のものじゃない。誰かが彼女の身に書いた字だ。彼女の筆を借り、彼女の印を捺した字だ。
天秤眼の二つ目の限界は、それ自身が「主動の殺意」と「強制された殺意」を見分けられないことだ――その表示数字だけを見れば、七十は七十、五十五は五十五、同じように冷たく赤く、同じように致命的に見える。表示だけなら、俺だって、彼女が本気で俺を殺しに来たと思うだろう。
だが、俺は見分けられる。
俺には、彼女が隠せない、俺を欺けない、底のあの本心が見えるからだ。あの線は、彼女という人間の最後の、誰にも奪えない切り札だ。それさえ動かなければ、刃を挙げているのは彼女じゃない――開閉器を握る、あの外道だ。
「シャルロッテ、俺を見ろ」と俺は言った。
彼女が目を上げる。冷や汗が顎を伝って滴り、目には痛みと怖れが満ちていた。
「お前の本心は、まだ三十だ」俺は一字ずつ、ごくゆっくり言った。あの戦場の夜と同じように。「この五十五は、誰かの指だ」
彼女は呆然とした。見開いた目のなかの痛みと怖れに、この一言が、一筋の裂け目をうがった。
刃を彼の方へ挙げているまさにそのとき、彼を見つめて「これはお前のものじゃない」と言う人間がこの世にいるなんて、彼女はたぶん考えたこともなかった。あの数字を見れば、誰もが剣を抜き、退き、人殺しと叫ぶ。ただこの一人だけが、手を伸ばして刃ごと人ごと握り込み、そして告げた――彼女自身よりもはっきりと、それは彼女の心じゃない、と。
俺の手のひらに握り込んだその手の、刃を抜こうとする彼女のものでない力が、少しずつ抜けていった。呼吸はまだ乱れ、胸が激しく上下している。だが彼女は、もう自分の手と争わなかった――その必要がなくなったからだ。俺が彼女に代わって、あの五十五を、「シャルロッテの殺意」という五文字から無理やり剥がし、遠くのあの見えない手へ投げ返したから。
ずいぶん経って、あの橙赤の残光も地平線に沈み切るころ、彼女の頭上の数字は、潮が引くように、ゆっくり四十二へ戻った。
あの青い光が、うなじから退いた。
彼女は脱力して轅にもたれ、骨を抜かれたようだった。刀が「カラン」と手を離れ、泥の地に落ちた。誰も拾わなかった。俺の虎口の血が、さっき彼女の手の甲にこすれ、小さく赤く染めていた――彼女の手の甲なのに、流血しているのは俺だ。彼女はその赤を見下ろし、瞳孔を一瞬縮めた。
「……誰」彼女は喘ぎ、胸を激しく上下させ、すでに残光の尽きた、一線の灰青しか残らぬ暮色を睨んだ。声は冷たく震えていた。怖さじゃない、憎しみだ。物として勝手に取り使われた、骨身に徹する憎しみだ。「誰よ。あんなに遠くから、わたしを見もせずに、ただ……押した奴は」
この一生、あれだけの人を殺してきた彼女が、今この瞬間ほど、自分が人間じゃないと感じたことはなかった。
俺は彼女の視線を追い、王都の方向を見やった。あそこには、灰の空を刺す教会の尖塔があり、華服をまとった中央貴族がいて、そして――生きた人間の殺意を梃子に使い、もう一人の人間の命を駒のように動かせる者がいる。聖印盤一枚を隔てて、この聖痕を開閉器として握る者が。
この聖痕は、もはや公爵の裏庭の犬の鎖だけじゃない。鎖なら、少なくとも近寄って牽かねばならない。
今やこれは、百里の彼方からでも発動でき、開閉器を握った者が、いつでもどこでも、そしらぬ顔で、俺の婚約者を一個の生きた人間から、誰へでも向けられる一柄の兵器に繰り変えられる――そういう、政治の弱みになった。
今日は荒野で鳴った。明日は王都の大通りで鳴るかもしれない。審判庭の衆目の下で鳴るかもしれない。そのとき、誰もが見るのは「暗殺者シャルロッテが、また夫に刃を挙げた」だ。底に沈んだ、微動だにしない本心を見にいく者は、いない。
俺を除いては。
俺は地の刀を拾い、血をぬぐって、彼女へ返した。
「次にそれが鳴ったら」俺はぬぐった刀を差し出して言った。「お前は、それと争うな」
「じゃあ、わたしは何をすればいいの」彼女は目を上げた。いつも冷えているその目に、初めて、依存にも近いような途方もなさが宿った。問いはごく軽く、その答えが贅沢すぎることを恐れるようだった。
「俺を見ろ」と俺は言った。「あの数字を気にするな、自分の手と争うな――無駄骨だ、内傷を増やすだけだ。それは勝手に鳴ればいい、お前はお前で俺を見ていろ。俺が数えてやる。お前がこの耳で、俺がこう言うのを聞くまで、ずっと数えてやる――これはお前のものじゃない、と」
彼女は刀を受け取り、鞘へ収めるとき、指先が一瞬止まった。何も言わなかった。荒野は風が強く、外套の裾を激しくはためかせていた。
だが彼女の頭上のあの三十の本心が、俺の目には、ごく軽く、見間違いかと疑うほど――一格、温かくなった。
誰が、遠くで、聖印盤を隔ててあの聖痕の開閉器を押したのか――その問いに、俺はもう、答えの輪郭を得ていた。
そしてその答えは、王都の尖塔の上で、慈眉善目に、俺たちを待っている。




